第16話 復讐の火蓋 (2,300文字)
ショーン、マリアと別れてから四年が経った、一八五九年の一月。
雪がちらつく夜、俺は一軒のパブの前にいた。
スピタルフィールズ、コマーシャルストリート八十四番地。店名は『ザ・テンベルズ』。間違いない。
ハンナからもらった、情報の書いてある小さな紙から目線を上げる。
扉を押す前に、ガラスに映った自分の姿を確かめる。
お色直しの必要はなさそうだ。
店内は外の寒さが嘘のように、あふれかえる客の熱気で満ちている。カウンター内にいる主人がときおり人の隙間から見えた。
左奥の方へ目を向ける。
広くない店内で、陣取るように幅を利かしている男たちがカードゲームに興じていた。全員、つばの小さな、頭頂部がややへこんだ帽子をおそろいでかぶっている。
「くたばれ!!」
「あんまりわめくと警察へ突きだすぞ、この野蛮女!!」
なにやら大声で言い争いをしている男女のわきを通って、その男たちへと近づく。
「このロンドンじゃ売春婦なんていくらでも補充できる。だが客を多くとれる女は逃すべきではないな。アヘン漬けにでもして、他で働けないようになれば、ここ以外に食える場所はないと悟るだろう」
「しかし親父ぃ。アヘンなんて酔い覚ましですぜ? 頭ん中まで酔っちまうたぁ不思議だ。ヨークシャーの職工たちがアヘンに溺れてるって話も、いまいち信じられねぇんですがね!」
「連中は低賃金でビールすら買えんのだ。ふん、あの清国の民もアヘンに
「あら。ずいぶんと博学でいらっしゃるのねぇ?」
こう会話に割り込んだのは俺。外套のフードをとり、紅を塗った唇でほほ笑んでみせる。ちゃんと女に見えているだろうか。
「でもご存じかしら? ここロンドンでどこにでも売っているローダナムはワインにアヘンをぶち込んだものですけど、清では喫煙方式。パイプによるアヘン吸引では刺激も強いのよ。あなただって、堕ちちゃうかもね?」
男のくわえた紙煙草を指二本で奪い、自分の唇に挟む。アホそうな若い男を尻でどかして、博学紳士の隣に腰かけた。
この歳くったテリア犬のような顔の男が、俺の標的であるヤクザ集団の頭だ。
そう、ショーンを死に追いやった奴らである。
立ちのぼる煙の向こうの顔が、にやりと笑う。
「おお、これはこれは。やんちゃなお嬢さんだ! がはははは!」
ボンネットをつけカウンターに頬杖つく俺を、無事に女だと勘違いしてくれているようだ。体型も笑い方も、幼少時代にいたあの救貧院の太っちょに似てやがるのが余計に殺意を駆り立てる。
今すぐぶん殴ってやりたいが、ここはこらえなければならない。
油断させて、こいつらの拠点まで連れて行かせる。そこで目的を果たすのだ。
「イングランド政府はアヘン貿易で荒稼ぎしてるようだけど。最近アヘンの産地で植民地のインドが反乱を起こしたでしょう? イングランドの
「がはは、美しいお嬢さん。エキゾチックなあなたはこのイングランドに恨みでもあるのかな? だが逆だよ。鎮圧は成功、東インド会社は解散し、インドはイングランドの直接支配下となった。イングランドがインドへ綿製品を売り、インドは清へアヘンを売り、清は茶や絹をイングランドにもたらす。この三角貿易が崩れることはない」
「へぇ、すごーい!!」
「がはは! ヴィクトリア女王陛下がインドの王になる日も遠くないぞ! イングランドはまだまだ栄える!」
いいドヤ顔だ。完全に調子に乗ってくれている。
「すごいわぁ、先見性があるのね! あなたの下で働けば、きっと安泰よねぇ?」
この台詞に、テリア男は目を細め、俺を下から上まで舐めるように観察する。娼婦として売り物にできるかというものの他に、ねばついた下心が見える。
「ふむ、お嬢さん。やはりあなたはそうなのか? がはは、これは幸運だ! あなたはナンバーワンになれるぞ!」
男は俺の唇から煙草を抜き取ると、自分の口元へ戻して目尻を下げる。エロジジイが。俺も意味ありげにほほ笑む。
獲物は食いついた。あとは拠点へ乗りこめればいい。
しかしそのとき、背後で騒ぎが起こった。
振り返ると、女が酒瓶を手に立っていて、男が頭をおさえて呻いていた。
さっきから言い争いをしていた男女だ。
「おいおまえ! 何してる! この乱暴女が……ぐわっ!」
「うるさいわねぇ! どいつもこいつもぉ!」
ショールから赤らんだ顔をのぞかせる女は若いが体型に貫禄がある。腕っぷしもいいようだ。取り押さえにかかった男は酒瓶で返り討ちにされた。鼻から血を出してへたりこんでしまう。
「やれやれ、今宵も騒がしいな」
ヤクザの頭が煙を吐き出す。
男同士の乱闘はパブでは付き物だが、女が酒瓶を振りまわすのはちょっとした話題になりそうだ。
ブロードサイドになればよく売れるだろう。ショーンと走り回っていた頃が頭に浮かんだ。
拳を握る。
ショーンの仇が、ここにいる。
のんきに煙をくゆらす男を肩越しに睨んだ。
「ぎゃっ!!」
甲高い、猫が蹴られたような悲鳴に視線を戻す。酔いどれ女がやられたか。
女はうずくまり、痙攣していた。けれども俺は女より、そばに立っている黒い影に目が釘付けになった。
「おお! いいところに来たな! がはは、今日はツイている!」
不快な笑い声を背後に聞きながら、俺は殴られたような衝撃を感じて立ち尽くした。
目の前に立つ男。
黒いぺらぺらした外套を喉元まで閉め、帽子もかぶっていない。
その姿を俺は覚えている。
そんな馬鹿な。なんでこいつがここにいる?
そいつは俺の目をじっと見て、口元をつり上げた。
あの、黒髪の少年だった。
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