第15話 鐘の音 (3,000文字)

 妹に兄が死んだことを伝えて、形見の帽子を渡す。

 それだけのこともできなかった。


 ショーンの妹――ファーラは、兄の死を受け入れられなかった。兄の迎えをずっと、ずっと待っていたんだと思う。それだけを希望にして。

 僕はただ、残酷な事実であの子を打ちのめしただけだったんじゃないかな。

 ねぇショーン。わかってたでしょ?


 いつの間にか雨は止み、ときおり風が吹いている。悲しい音だ。

 冬が近いことを感じる空気が、容赦なく濡れたからだを冷たくしていく。


『俺だって変わったんだ』

 少し前にハンナに言った言葉。

 この台詞を吐いたとき、僕にはどんな根拠があったのか。

 仕事が安定していたから?

 わずかながらお金があったから?

 ぎゅっと唇を噛む。

 ――ショーンがいたから?


 何も変わってなんかない。

 僕は甘ったれのままだった。

 冷たい世界に奪われて、ただ恨めしく泣いているだけ。

 ハンナに合わせる顔がない。

 ヒーロー的な衝動で人を殴って、結果として親友を巻き込んだ。

 裏社会への道に。悲惨な最期への道に。

 だから言ったのに、とハンナは失望するだろうな。


 どうすればいいの。

 もう、ぐちゃぐちゃだよ。

 こんな真っ黒な僕は、この先どう生きればいいの。

 僕は、何をしたかったのだっけ。




 どこをどう歩いたのか。気づけば僕はよく知っている小道にいた。

 視界の先に、背の低い小さな教会が建っている。長方形の建物に、正面にだけ教会とわかるような先の尖った屋根のある塔が伸びている。曲線と、大きな窓が印象的なこの教会は、暗いなかでもすぐに分かった。

 教会の角の手前を曲がれば、マリアの住む部屋へと続く。


 なんで、ここに来ちゃったかな。

 ぼうっとする頭ではその自問もかすんでしまう。僕は部屋の扉を叩いた。

 反応があるまでの時間は長くて長くて、まるで判決を待つ囚人みたいな気持ちだった。

 やっと扉が開き、僕はそっと目線を上げる。

 わずかな隙間からランプの灯りが見えた直後、大きく扉が開かれた。


「ルイ……!?」


 驚く顔を近くに感じながら、僕は背が少し伸びたという、どうでもいいことを実感した。本当、そんなことどうだっていいのにね。


 マリアは何も聞かなかった。

 僕もただ黙っていた。

 マリアは僕の服を脱がして、椅子に引っ掛けて暖炉の前に置いた。

 来た時には暖炉に火はなかった。マリアが起こしてくれたんだ。この暖炉で火が燃えているのは初めて見る。

 お母さんも、とびっきり冷え込む夜しか暖炉を起こさなかった。すごく贅沢なことなんだよ。


 ひとつしかないベッドに、マリアは僕を入れてくれた。背中を丸める僕の前で、マリアが片肘ついた姿勢で横になっている。

 僕にはぶっきらぼうなマリアは、あまい匂いがした。目を開けてじっと身動きしないまま、僕はからだの震えがおさまったのを感じていた。やっと暖炉の熱が部屋に広がったのもあるけど、それだけじゃない気がする。


 何か考えなきゃいけないことがあるはずなのに。あたたかいベッドにからだごと沈んでいきそう。


「打ちひしがれて女のところへ来るなんて。あんたも男ね」


 マリアの指が僕の黒髪をく。

 近づく吐息に目をつぶる。唇の感触が、僕の鼻のてっぺんに触れた。

 あ。

 唇が離れた時、何か別の匂いがした。なんだろう。あまいけど苦い、すぅっとするハーブのような。古い木、熟れたりんごのような、頭の奥がうっとりするような匂い。


 あぁ、わかった。

 これがジンか。




 おやすみと聞いた気がした。

 目覚めてみて、僕は深く眠っていたことに気づいた。

 柔らかく差しこむ日の光を眩しく感じながら、耳の痛みもなく寝ついたことに、少しの間呆然としていた。

 あんな、悪夢のような出来事があったのに。


「やっと起きた。服、乾いてるわよ」


 マリアが服を投げてくる。暖炉の火は消えていた。一夜の夢だったみたいに。

 僕の現実は続いている。



 

「もう来ないで」


 マリアの口から出た言葉に、全身が張り詰めた。


「え……なんで」


 そんなに迷惑だったの。そりゃあ僕でも迷惑かけたと自覚してるけど。ベッドに入れてくれて、キスだって。起きたら嫌われてるなんて、そんなことある?


「ふふっ、そんな顔しないの。私ね、結婚するの。アメリカへ行くのよ!」


「結婚……アメリカ……」


 アメリカってどこ。というか、いつの間に結婚なんて。聞いてないよ。


「やっぱり私みたいないい女、放っておかれるわけないのよ。ふふ、ルイ、肝に銘じておきなさいな! 好きな女には奥手になっちゃだめよ?」


 首を傾げるマリアから顔をそむける。なんだよそれ。むかつく。


「誰も私のことを知らない、海の向こうへ行くの。そうしたらきっと、憎しみだって手放せるわ。ね、ルイ。素敵なことでしょ?」


 マリアが両手で僕の顔を強引に向けさせる。明るい光のなかで見るマリアの顔は、なんだか以前より青白く見えた。


「さよならじゃないわ。同じ時間を生きていくんだもの。また会えるかはわからないけど――絶対に忘れない。そうでしょ?」


 僕は、ただうなずいた。



「アメリカにも、コスモスはあるかしら」


 別れ際、マリアが訊いた。

 僕が以前マリアにあげた花。その問いの裏には僕への配慮がある。意地悪さが起こった僕は知るわけないだろと首を振った。

 マリアはほほ笑む。悔しいくらい、美しかった。


「きっとあるわ。たくましい、強い花だから」


 結局、マリアの本当の名前は最後までわからなかった。

 でも、マリアにはこの響きが一番似合うと思う。


 鐘の音が耳に入る。

 角の教会が、人々に時刻を告げている。

 この見慣れた教会も最後だ。もうここへ来ることはない。

 遠ざかる鐘の音を背に歩いて行く。

 自分がどこへ向かっているのかはわかっている。

 会うべき人がいる。

 会えるだろうか。

 彼女の目を見れるだろうか。

 ――どうする。

 何も変わっていなかったと、打ち明けられるだろうか。

 ――どうするんだ?

 弱いままだったと。

 強くなりたいと、言えるだろうか。

 自分にとっての強さが何であるか、胸を張って言えるだろうか。

 おまえの目は犯罪者とは違う、と言ってくれたショーン。

 おまえは同類だと、笑ったあの黒髪の少年。


 ――僕は、自分は。


 愛してくれた、母。

 救えなかった、ショーンの妹ファーラ。

 憎しみを捨てた、マリア。

 拳銃と、金。

 ロンドンという街。


 ――俺は。


 顔を上げる。

 友の帽子を目深にかぶる。

 ひとりでも、しっかり歩くんだ。

 俺は、自分の道を行く。




 深緑色の帽子をかぶる俺の話を、ハンナはひと言も発することなく聞いていた。


「ハンナ。俺、まっすぐには生きられない。どぶに浸かってもがくことになっても、その中でくたばることになっても。俺は復讐する。母さんを奪った父親に、ショーンを殺したヤクザたちに。それを果たさなきゃ、俺はどこにも向かえない」


 ばかなこととはわかってる。

 誰のためでもない、自己満足。

 俺はひとりの少女から兄を奪った。この先も、奪っては奪われるのかもしれない。

 でも、生かしちゃおけない奴らがいるんだ。


 ハンナの腕が動く。

 俺は覚悟を決めた。

 平手打ちされて、もう知らない出ていけと言われると思った。


 だけど、ハンナは服の内側のポケットに手を入れたのだった。そして取り出した紙切れを差しだした。

 なんだろう。

 受け取った紙を広げてみる。


 ジョン・スミス セブン・ダイアルズ

 ウィリアム・レイ ホワイトチャペル、ネルソンストリート

 チャールズ・サワーズ ウーリッジ……


 人名と、地域名がずらりと並んでいる。


「情報を集めたの。それは銃火器を扱う闇商人のリストよ」


 まさか。あの真面目なハンナが。

 信じられない。


「ハンナ、なんで……」


 顔を上げて見たハンナは、涙を流していた。




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