第14話 ショーンの帽子 (2,800文字)
ショーンが死んだ。
降りだした雨は大粒で、安く買った、底が半分抜けかかった靴を履いた足はすぐにずぶ濡れになった。
傘をさすような、懐に余裕のある人間もこの辺りにはいないらしい。小走りで建物の下に逃れるか、濡れるのに抵抗することすらあきらめた人々が通りを無言で過ぎて行く。
僕はふらふらと路地に入った。
疲れていたし、灯り始めた街灯に照らされるのが嫌だった。
暗くて冷たい、音のない場所にいたくて、家と家の間に腰を下ろした。
窓ガラスが割れてがらんどうになった家の暗闇を見つめる。たぶんここにも住んでいる人間がいるんだろう。
右手を強く握りしめていることに気づいて、手を緩める。濡れてくたくたになっている深緑色の帽子を見ると、また胸が痛くなり、涙があふれ出てきた。
ショーンが死んでしまった。
僕の、たったひとりの親友。
これからもずっと、ずっと一緒にいるはずだった。
たくさん助けたかったのに。
ショーンといれば、僕はこんな世界でも好きになれたかもしれないのに。
二人なら、どんなことでも乗り越えられたかもしれないのに。
「ちくしょう、ちくしょう……」
でも、ショーンが死んだのは僕のせいだった。
ショーンは孤児院にいる妹を引き取るために、金を貯めていた。
妹と二人で生きるために、稼げる人間になろうと努力していた。
きっとショーンは、あの監獄内で犯罪者たちの悪知恵話を聞いていたんだ。
あの顔の広さと、人づきあいのうまさならヤクザ者と交流を持てるに違いない。僕の髪飾りの情報も、その筋から得ることができたのだろう。
そして髪飾りを取り戻すために、ショーンは金を使い果たした。
妹のための、大事な金を。
ショーンは「やっちまった」と言った。
稼ぐことを急いで、何かヤクザたちを怒らせるようなことをしてしまったんだ。
監獄へ行かなければ。
髪飾りを自分で買い戻せていたならば。
「ちくしょう、なんで、なんで……! う、うぇっ、おえぇ」
腹から喉へ上がってきたものを前のめりになって吐き出した。頭がぐらぐらする。嗚咽と吐き気で息ができない。
こんなことが、なぜ起きる。
こんなの、こんなの残酷すぎる。
なぜ僕は、持つことを許してもらえない?
「はぁ……はぁ。ショーン……」
そうだ。わかってたじゃないか。
ねぇ、僕。
――弱いからだ。
「迷惑だ、とっとと行きな! 世話になりたいなら他を当たれ」
「だから、ここにいる子に帽子を渡すだけだって言ってるだろ! 家族の形見なんだよ!」
ホワイトチャペルから遠くない、ベスナルグリーン地区の孤児院の門前。僕は職員と言い争っていた。
ずぶ濡れで帽子もかぶっていない僕を、助けを請いに来た孤児だと思ったらしい。ふざけるな。こんな場所、こっちが願い下げだ。
結局、手間賃として数ペンス払ったらしぶしぶ中へ通された。本当に腐ってやがる。
「この娘がファーラだ。早く済ませるように」
連れて来られたのは、くせのある赤毛を肩の位置で切ってある、青緑色の瞳の少女。ショーンの妹。
「えっと……。俺、君の兄さんの友達なんだけど。これ、渡してくれって、約束して」
しどろもどろに話す僕を、ファーラという子は眉をひそめてにらんでいる。
来て欲しいのは兄なのに、現れたのは見知らぬ黒髪長髪の少年。当然の反応だ。確か九歳のはずだけど、僕はその少女が怖かった。
「これ、覚えてるだろ? ショーンの帽子」
女の子は黙ったまま帽子に目を落とす。この子はもう、たったひとりだ。そんな絶望を、僕は伝えなければならない。
「お兄ちゃんは……どこ?」
青緑の瞳が僕を刺す。
元気だよ。実はね、今とても立派な仕事をしていてね。
そんな嘘が喉まででかかったのを、ぐっと飲みこんだ。
本当のことを伝えなきゃ。それが、僕の責任。友との約束。
「ファーラ。兄さんは、ショーンはね、天国へ行ったんだよ」
少女の顔が強張る。小鼻がぴくっと動いた。
「君と一緒に暮らすために、すごく頑張ってた。勉強も、仕事も」
首を横に振るファーラの唇が震え、瞳に涙が溜まっていく。悲しいよね。受け入れたくないよね。でも、これだけは信じて。
「ショーンは君を迎えに来たかったんだ、会いたかったんだ。だって、何度か僕と一緒にここへ来たんだから。だから――」
ショーンを怒らないであげて。
そう言いかけたとき、ファーラは叫び声を上げた。
「いやぁぁぁぁぁ!!」
その悲鳴に、僕は思わず身を引いた。
少女は頭をかきむしり、逃げるように背をむけたところで職員の男にぶつかった。
「ファーラ! 帽子! 帽子を――」
慌てて追いかけようとした僕を、職員たちが取り押さえる。
帽子を、帽子を渡さなきゃ。からだを拘束する腕を振りほどこうともがきながら叫ぶ。
「待ってファーラ! お願い、帽子を――」
帽子を差しだす右手の先で、取り乱したファーラが連れていかれる。そして職員の黒ズボンを履いた下半身が視界を塞いだ瞬間、頬に重い衝撃がきて、首が捻じ曲がる。蹴られたんだ。
「この野良犬が! 面倒を起こすんじゃない!」
鼻と口の中から噴きこぼれる血が喉に引っかかり、からだを震わせながらむせた。それでも、右手の帽子を掴まれたのには気がついた。
「まったく! 帽子は預かっておいてやるから、お前は出ていけ!」
僕の頭に、救貧院での出来事がよみがえる。
勝手に売り払われた、お母さんの形見の髪飾り。
ファーラに渡してもらえる保証はない。
僕は緩みかかっていた右手の力をぎゅっとこめる。帽子を渡してはだめだ。
「むっ! こいつ! 渡せというに! この!」
職員は意地が起こったのか、僕から帽子を引き抜こうとする。濡れた帽子から水がしたたり、布地が軋む。
放せよ。僕は怒りをこめて男の手に噛みついた。
「ぎゃっ!! くそ! こいつめ、噛みやがった!!」
顔を赤くした男の靴の先が腹にどんと入る。からだの力ががくりと抜ける。両腕を拘束された僕は止まない暴力に耐えるしかなかった。
でも、帽子だけはしっかりと握っていたんだ。
「あぐっ!」
門から放り出され、地面に突っ伏した。
雨はまだ降っていて、地面はぬかるんでいるくせに固かった。とっさに右手を上げて帽子が汚れないようにしたためあごを打った。
「また来たら警察へ突き出してやるからな!」
背後から聞こえる声の方を向けば、雨用のコートを着た男が三人、建物に向かって歩いている姿が手にしたランプで照らされて見えた。
ポケットに手をつっこみ、残っていた最後の銅貨を取り出す。ぎりっと強く握りしめ、ランプを掲げているフード頭に狙いをつける。
せめてもの報復。
息を吸い、振りかぶる。銅貨は男の頭に当たり、別方向へ跳ねる瞬間、ランプの灯りできらりと光った。
「がっ!!」
男の声と同時に僕は背を向けて、ばしゃばしゃと泥水を跳ねさせながら走りだした。からだ中が痛んだけど、走れた。走らずにはいられなかった。そうしなきゃ、狂ったように叫びだしそうだった。泥水の上で、手足をばたつかせながら泣きわめいて舌を噛んだかもしれない。
ショーン。
僕は、君との最後の約束すら果たせなかったよ。
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