第5話 友になる少年 (3200文字)

「はぁ、はぁ、びっくりした……」


 市場の外まで逃げだしてきた僕は、大きな建物の広い階段に座って息を落ち着けていた。

 僕以外にも、貧しい恰好の女の子たちが座って花束をつくっていたり、荷物を置いてなにか食べている商人たちが大勢いる。通りも相変わらず混雑している。

 これなら見つからないだろう。僕はほっと息をついた。

 リンゴ一個だけだもん、見逃してよね。


「マーガレットおばさんのこと訊けなかったな」


 銅貨一枚持っていない振りだしの状態に戻ってしまった。

 こんなことになるなら、最初の商人から花を買っておけばよかった。


「明日、また行って訊いてみるしかないか。うん、一晩おけば大丈夫」


 言い聞かせるように口に出して、立ち上がろうとした僕はあることに気がついた。

 かごがない。

 ハンナが貸してくれた、かごがない。


「しまった、置いてきちゃったんだ!!」


 どうしよう。ハンナになんて言い訳しよう。失くすなっていわれたのに。銀貨と一緒に盗られたと言おうか。いやだめだ。お金を盗られたなんて、そんな情けないこと言えるわけがないじゃないか。


「かごがなきゃ、ハンナにも会えない……」


 謝れば、許してくれるだろうけど。

 既に甘ったれだと思われているんだ。これ以上だめなところを見せたら、もう話してもらえなくなるかも。それは避けなきゃ。

 一切れのトーストのため、だけじゃなくて。

 せっかく名前を呼び合える人ができたんだ、失くしたくない。

 


 行ったり来たりしつつも、僕は逃げでてきた市場の門まで来た。

 よし、警察はいない。

 思い切って門をくぐった時、


「おいお前。探しもんはこれか?」


 と後ろから声がした。さっき、僕を呼び止めた声だ。


「わっ!?」


 驚いて振り返ると、背の高い、深緑色の帽子をかぶった少年が門に寄りかかって僕を見ていた。手に持っているのは――僕のかご。


「あ! それは……!」


「まったくよぉ、大事なもん放っぽりだして行くんじゃねぇや。商売道具だろ! ほらよ」


 少年はかごをすんなり僕に返した。


「あ、ありがと……」


 礼を言いつつ、僕は目の前の少年を素早く観察した。

 いくつか年上だ。帽子からは赤毛が元気よくはみ出している。ひょろっとしていて、身なりはそこらへんによくいる貧しい呼び売り商人といったところ。


「おいおい。せっかく大事なものを預かってやったんだから、そんなにケーカイすんなよな!」


 青緑の瞳が笑うと、口元から欠けた前歯がのぞいた。

 いい奴な気配がするけれど。

 こいつには、リンゴを盗んだところを見られていた可能性がある。僕を脅すつもりなのかもしれない。


「……忙しいんだ、俺。もう行くから」


「ちょっと、待てって! お前、金盗られたんだろ!? 仕事できるのかよ?」


 僕は勢いよく振り返った。こいつ、見てたのか。


「まぁまぁ、そんな怖ぇ顔すんなって! すまん、俺にもどうにもできなかったんだよ」


 責めてやろうと開きかけた口を閉じる。素直に謝られると、別にあんたのせいじゃないし、って思うじゃん。それも計算のうちなら、相当嫌な奴だけど。


「あいつらのこと、知ってるの?」


「まぁ、この辺りじゃ有名な悪ガキグループだよ。リーダーがヤバい奴でさ」


「……誰も捕まえないの?」


「それが結構厄介でね。警察ヤードは逆に逃げ回ってるよ。使えねぇ連中だ」


 荒っぽい口調で言う。警察ヤードが当てにならないのはよく知っている。だって、お母さんを殺した犯人を捕まえられなかったのだから。

 鼻にしわを寄せて毒づく赤毛の少年に、少し親近感がわいた。


「で、俺に親切にしてくれたのはなんで? 罪悪感?」


 それでもこんな憎まれ口調になってしまうのだから、僕はほんとに性格悪いね。

 少年は僕をじっと見た。


「金盗られて泣いて、腹減ってリンゴを盗んで、この世の終わりみたいな顔で逃げる。典型的な犯罪小僧が生まれる瞬間を見ちまったんだ、気になるだろ?」


「泣いてない!!」


 やっぱり見られてた。いや、泣いてないよ。リンゴのことだよ。


「ちょいちょい、待てってば! 悪かったよ、怒んなよ! 俺と同じ、親なしのひとりモンかと思ってさ!」


 僕は足を止める。

 ちらり、と振り返る。

 優しい、思わず見入ってしまうような青緑の瞳が僕をまっすぐに見ていた。


 この時は思ってもみなかった。

 その瞳の温かさに惹かれてしまったことを、後悔する日がこようとは。



 赤毛の少年は、名をショーンといった。

 生まれはアイルランド。大飢饉で食えなくなって、ロンドンへ移住してきたらしい。両親はコレラ病で何年も前に天国へと向かったんだって。


「ルイ、おまえ何歳だ?」


「もうすぐ九歳の八歳」


 変な言い方になった。でも、本当だし。


「じゃあ、俺の三つ下か。協力して稼ごうぜ! 兄弟」


 僕はショーンと一緒に仕事をするようになった。

 市場では信用第一。悪いうわさはすぐに広まるから、今後は花一本盗むなと説教された。拾っていいのはクルミの殻くらい。

 ショーンは顔が広くて、果物を売る以外にも、街で色んなものを拾ったり回収したりして売った。犬のうんこが売れることを知ったときは衝撃だったよ。


 ハンナのところへはあまり行かなくなった。最後に会ったのは十日前くらいかな。借りていたかごを返したんだ。

 すごく古くて安物だけどからだに合う服を着て、髪も結って、おわん型の帽子をかぶる僕を見て、ハンナは


「順調そうね」


 と言いながら目は笑ってなかった。

 たぶん、ちょっと寂しいんだと思う。なんてね。


 ショーンはとにかくよく働く奴だった。

 神様を信じてるけど、日曜に教会に行くことはなかった。お祈りよりお金稼ぎ。僕はショーンのそんなところもいいなと思ってた。



 夏も真っ盛りのある日、ショーンは僕を街の西側へと連れて行った。

 西に向うほど、建物も歩く人たちの服装も立派になっていく。ウォーターループレイスというその場所は、着飾った人々で市場近辺とはまた違う活気に満ちていた。


「ショーン、こんなところで何の仕事すんの?」


「まぁ焦るな。ユーエキな情報をゲットしたんだ! ルイ、ひと稼ぎできるかもしれないぜ?」


 自然と足早になるショーンとはぐれないように歩いていると、目の前に人だかりができているのが見えた。


「いた!!」


 ショーンが指を鳴らす。

 人をかき分けていくと、その中心にいたのはひとりのおじさん。


 緑の光沢のある長いコートに、赤い膝丈のキュロット、ふちのついた黒い筒状の帽子。ずいぶん目立つ格好だけど、ひときわ目を引くのは肩に斜めにかけられた太い革のベルトだ。V.R.の大きな文字の両側に、でっかいネズミの絵がある。なんかかわいい。


「いよっ! ジャック・ブラックの旦那!!」


 ショーンの声援におじさんはちらりとこちらに目を向けた。

 でもすぐに目の前に立つ女の子に帽子を取っておじぎする。すると、その帽子の中から小さな黒い生き物が顔をのぞかせた。


「ネズミだ!」


 女の子が身を引きながらも笑顔になる。

 ネズミはおじさんの腕を上っていき、肩までくると毛づくろいを始める。帽子をかぶったおじさんが両腕を上げると、袖から、コートの中から、ネズミがどんどん出てくる。

 おじさんのからだをひとしきり這いまわったネズミはまた服の中へともぐっていった。

 すげぇ。ネズミって人に懐くの?


「さて、お嬢さん。ネズミが何匹いたかわかりますかね?」


 おじさんの問いに女の子はちょっと悩んで首を振る。


「さぁみんな。出てきて挨拶するんだ」


 おじさんの声を合図に、一匹ずつネズミが出てくる。伸ばした右腕に一列に並んで、チューチューと鳴き始めた。


「五匹!」


 女の子が声を上げる。

 拍手と歓声が起こり、おじさんがとった帽子の中に硬貨が次々に投げ込まれる。


「え、ショーン。まさか仕事ってこれ……!?」


 ノンノン、とショーンは指を振る。


「ジャック! 景気はどうだい!? おっと失礼、聞くまでもないか!」


 見物人が去っていくなかショーンは駆け寄っていき、おじさんを右手で指しなが左手を自分の胸に当てる、大げさなポーズをとった。

 

「紹介するぜルイ! この紳士はジャック・ブラック! 女王陛下御用達のネズミ捕獲人ラット・キャッチャーだ!」




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