第4話 少年犯罪グループとの遭遇 (3000文字)
「マーガレットおばさんがどこに住んでいるかは、あたしも知らないのよ」
ハンナは不安げに、
マーガレットおばさんがいつもの場所に来なくなってから三日が過ぎていた。
付近の場所を捜し歩いてみたけれど見つからず、思い切って花売り娘たちに聞いてみたりしたが皆首を横に振るだけだった。
「どうしよう……」
こんなこと今までなかった。非常事態だよ。
マーガレットおばさんは高齢だ。病気にかかっている様子はなかったけれど、何かあったのではと胸がざわつく。そして僕は三日も仕事をしていない。何か手を打たなければならなかった。
「コヴェント・ガーデンに行ってみたら? もしかしたら、マーガレットおばさんもいるかもしれないし」
後半は可能性が低いことを悟りながら、僕はハンナの提案にうなずいた。
コヴェント・ガーデンは野菜や果物を扱う市場だ。マーガレットおばさんはそこで花の買いつけをしていて、僕も一度一緒に行ったことがある。
こうなったら、自分で仕入れに行くしかない。
市場周辺の道は、踏みつぶされた野菜で緑色に染まっていた。
市場の中では、オレンジやじゃがいも、人参の山。でも漂う臭いは玉ねぎ、玉ねぎ、玉ねぎ。感覚がバグってくる。あちこちで積まれた野菜や果物のごちゃごちゃな色に囲まれて、なんだか目も回りそう。
人間の数も半端じゃない。大きな荷物を背負う商人と荷車にど突かれながら歩いていると、やっと野菜じゃない色が目に入った。スミレやモスローズなどの花を荷台に積んだ商人がいる。
かごを手に近づく僕を見て、日焼けした顔の中年の男は指を一本立てた。
「十二束で一シリングだ、坊主」
「もうちょっと安くならない? 六束だけでもいいんだけど」
僕の手持ち金はきっかり一シリング。これでもし売れ残ってしまったら、明日の仕入れができないかもしれない。
「だめだ。嫌なら他を当たれ」
これは粘るだけ無駄だね。
「わかったよ。あの、おじさん。マーガレットおばさんって知ってる?」
「知らん、知らん。おっと、嬢さん、今日はモスローズが綺麗だよ!」
横から来た顔なじみらしき女性の方を向いてしまう。僕の相手をする暇はないってさ。
仕方なく、他の商人のもとを見て回ったけれど、どこも相場は同じだった。花の鮮度とか、種類が違うだけみたい。
僕はズボンのポケットからシリング銀貨を取りだした。一シリングは僕が売るひと束一ペニーの花束、十二束分の売り上げ。
路上で売ってる豆のスープ、焼きじゃがいもを食べるのを我慢して、こつこつ貯めた銅貨を、マーガレットおばさんが一枚の銀貨に両替してくれたのだ。
頑張った証。その銀色が嬉しかった。
その全財産を使うのだから、慎重に仕入れ先を選ばないと。僕は銀貨を握りしめた――ところで、後ろからどん、という衝撃がきた。
「うわっ!?」
僕は前へつんのめり、バランスを取ろうと足を踏みだした。
が、運の悪いことに地面は、散乱する踏まれたキャベツの葉ですべりやすくなっていた。僕は顎と胸をキャベツの地面に打ちつける形で転倒した。
「ぶべっ!」
転んだ拍子に、握っていた銀貨を離してしまった。すぐに膝を着き、目の前を転がっていくシリング銀貨に手を伸ばす。
掴み取ろうとした時、手を何者かの靴に踏みつけられた。
「あっ!!」
靴を履いた人物の手が、僕の銀貨を拾い上げる。
「だめだ! それは僕の――」
見上げながら叫ぶ僕の声は、背中にのしかかってきた重みで途絶える。
「うぶっ!」
「わはは! うわーい、キャベツで滑っちまったー!」
誰かが僕の背中に尻を乗せて笑ってる。走り去る何人かの笑い声と、足元が見えた。
背中がふっと軽くなる。追いかけなきゃ。
「ううっ、待て……!」
僕は痛む胸を押さえながらすぐに立ち上がる。
野菜と果物の山の間を駆けていく数人の少年たちがいる。
ひとりが立ち止まり、僕を振り返り見た。他の奴らが帽子をかぶっているなか、そいつだけはわさわさと茂るような黒髪を風に晒していた。薄い唇と目つきの悪い顔はいかにも悪党って感じだ。
そいつは僕と目が合った瞬間、にやりと口の端を上げた。その邪悪な顔つきに、僕は見覚えがあった。いい記憶じゃないのは、どきりとする心臓が物語ってる。
そいつはふいと顔をそらすと同時に走りだす。
僕は叫びながら後を追った。
待てよ、返してよ。その銀貨は僕が一生懸命働いて稼いだお金なんだぞ。それがなきゃ、僕は花を買えないんだ。
「待てっ! 泥棒! 返せ、僕の銀貨を返せぇっ!!」
後から振り返って思うと、僕、この時英語じゃなくて清の言葉で叫んでたんだ。英語で叫んでいたら、もしかしたら誰か捕まえてくれたかな。
「はぁっ、はぁっ。だめだ、見失っちゃった」
アーケードの中まで追ってきたけれど、暗い石柱の下では、押し寄せる人の波に押し戻されてしまうだけだった。僕はあえなく外にはじき出される。
「くそっ。くそぅ……!」
なんだよ、なんでだよ。なんで皆、僕から奪うんだ。
顔が熱い。涙がでそう。だめだ、さっきの奴らにみられたら笑われちゃう。そんなの、もっと悔しい。
ひっくり返すんだ。
この腐ったような僕の世界を。
誰にも笑われず、誰にも奪われないために。
泣かなくていいように。
そのためには、強くならなきゃ。
「マーガレットおばさんのこと、もう一度聞いて回ろう」
もはや望みはそれしかなかった。マーガレットおばさんは少ない量を安く売ってくれるし、慣れないうちはよく仕入れ金をツケ払いにしてくれた。
マーガレットおばさんにさえ会えれば。
僕はまた広場の方へと足を向けた。
すでに時刻は昼近くなのだろう、客の商人の姿が減りつつある。僕は激しい喉の渇きと、空腹を感じた。この三日間、早朝にハンナから分けてもらうトーストの切れ端と、街頭で買ったパイ一個しか食べていない。
つやつやした、赤いリンゴの山が目に入る。甘酸っぱい香りが意地悪く鼻先をくすぐる。
喉が鳴る。もう飲みこむつばすら乾いてしまったみたい。
僕はそろりそろりと積まれたリンゴに近づく。
商人は荷車を引くロバにリンゴを食わせてやりながらあくびをしている。
荷車の後ろ側に立って、リンゴを背に前を向く。
誰も見ていない。
後ろに手を回し、リンゴをひとつ掴み、そっと引き抜く。
背中からわずかにリンゴの山が動いたのが伝わったけど、ゆっくり背を離すとリンゴは崩れてはこなかった。
僕は左手で前に抱えていたカゴの下に右手のリンゴを素早く隠した。
そして目立たぬよう、通常の足取りでその場を離れる。
どきどきと心臓が脈打つ。速足になりそうなのを我慢し、目だけを動かして荷車から見えなくなる最短の道を探す。
カリフラワーの山を曲がり、トマトの山とカブの山を曲がり、そこでやっと後ろを振り返った。商人が追ってきている様子はない。
息をついて、荷台に何も載っていない荷車を見つけ、その陰に腰を下ろした。かごを置き、右手のリンゴに噛りつく。はやく食べてしまわなきゃ。固くて酸っぱいけど、噛むのがもどかしいほどお腹がそれを求めていた。
あっという間に芯だけになったリンゴの、わずかに残る果肉をかじっていた時。
僕の右肩を、誰かの手が掴んだ。
びくり、と大きくからだが跳ねる。
まずい。捕まっちゃう!
「わっ、うわわ!」
僕は慌てて前方へ手をつくように立ち上がると、そのまま脇目も振らずに走りだした。
「あ! おい!!」
後ろから呼び止める声がする。
『監獄に入るようなことはしないで』
出口に向かって走りながら、頭の中ではハンナの言葉が響いていた。
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