第3話 手にした仕事  (3,300文字)

 僕が英語を使い慣れていないのは、お母さんとしか話すことがなかったからだ。

 お母さんは清という国から海を渡ってきたんだって。ロンドンからずっと東にある国で、船で来るのは大変だったと、よく寝る前にお話ししてくれた。


 お母さんから英語も教わったけど、あまり好きじゃなかった。

 近所の子供たちも嫌いだった。だって遠くからこっちのことじっと見てくるだけなんだもん、嫌な感じだよね。


「お花買ってください! スミレが出始めましたよ!」


 でも花売りの仕事を始めたら、そうは言ってられない。

 最初は小さな声で、ひと束一ペニーですと花を差しだすだけだった。

 誰も買ってくれなかった。見えていないみたいに無視された。


「ちょっと、そこの旦那さま! 花束買ってくださいな! 私、病気の妹がいるんです! 哀れな妹のために、どうか一ペニー!!」


 よく通る声のする方を見れば、花束の入ったかごを抱えた女の子が立派な格好の男の人をどこまでも追いかけている。セントポール大聖堂周辺にいつもいる花売り娘のひとりだ。病気の妹が本当にいるかは知らない。でもたまに妹が母親になっていたりする。

 僕だって負けてはいられない。


「奥さん! スミレ買ってください! 僕まだ五歳なんです! 昨日から何も食べていないんです! ねぇ、ほら、いい香りでしょ?」


 声をかけた男女二人組の、女性の方が立ち止まる。悲しそうに僕を見て、連れの男性の袖をくいと引っ張る。

 僕は勝利を確信。満面の笑みを浮かべる。

 五歳というのは嘘だけど。

 商売というのはちょっと工夫がいるみたい。


「マーガレットおばさんに褒められたよ。僕はなかなか筋がいいって」


 早朝、いつものようにパブの裏手でハンナとおしゃべり。


「へぇ、すごいじゃない。じゃあもうここに来なくても平気なんじゃないの?」


 トーストをかじろうと開けた口が空気を噛む。

 毎朝ここでトーストのおこぼれをもらう習慣は続いていた。もちろんお金は払ってないし、約束をしているわけでもない。

 僕がここに来ると、ハンナも来る。

 でも確かに、考えてみれば不思議なことだった。ハンナには僕に優しくしなきゃいけない理由なんてない。


「あははっ! 冗談よ。固まってんじゃないわよ、そんな少しのトーストぐらいで」


 冗談、なのかな。いたずらっぽく笑っているハンナに、僕は引きつったように笑ってみせ、パンをかじった。

 内心はどきどきしていた。

 もしかしたらハンナは本当に、僕にもう来ないで欲しいと思っているかもしれない。


「よその子に食べ物あげてることばれたら、お父さんに怒られるの?」


 出会った時にハンナが言っていた、父親のことを思い出した。

 僕のせいでハンナが叩かれるようなことがあれば、ごめんでは済まない。


「まぁ、そうね。うち、お母さんが家出しちゃったの。他の男の人の所へ行っちゃったのよ。娘を置いて無責任だって、お父さんは怒ってた。それでお父さん、なんだか人に厳しくなって。貧しい人にも『本人の責任』だとか言って、お水を恵んであげることすらしなくなったの」


 うつむいて話すハンナの横顔は弱々しく感じた。母親に見捨てられたなんて、かわいそう。

 代わりに僕より小さい頃から働いてきたんだろう。しっかり者の顔の下には、いつも泣きそうなのを我慢している女の子がいたに違いない。――今のように。

 僕はとっさに、隣で膝を抱えるハンナの肩に手をかけた。


「ハンナ。俺、頑張る! たくさん稼いで、正々堂々、お客としてお店に入ってみせるから。 ハンナのためにいっぱいお金を使うよ!」


 だから。

 だからね。

 元気をだして、と言いたいだけなのに、うまく言葉がでてこない。


 ハンナにはいつもの強気な調子でいて欲しい。弱いところを見せてくれたことはちょっと嬉しいのだけれど。こっちが不安でどきどきしてしまう。

 お母さんも、たまに悲しそうな顔をすることがあった。

 そんな時僕はなにも言えなくなった。例え普段話しているお母さんの国の言葉でも。


「ふふっ、ばかね! そんなことにお金を使うんじゃないわ。でも、ありがと」


 ありがと、の部分を恥ずかしそうに小さく言う。お礼を言われるようなことはできていない気がするけど、ちょっと大人になれたようで嬉しくなるね。

 大人といえば。


「ねぇハンナ、俺八歳になったんだよ」


「へぇ、あんた五月生まれ?」


「そう、五月一日」


 さも今思い出したように言ったけど、実はずっと八歳になったことを黙っていた。ハンナにはまだ七歳の子供だと思っていて欲しかった。我ながら甘えんぼだとは、言われなくてもわかってるよ。


「そっ。もう大人ね」


「ねぇねぇ。おめでとう、って言って?」


「なによ、男らしいこと言ったかと思えば。中身は子供ね! まったくもう。……おめでとう、ルイ」


 その一言で僕は自然と笑みがこぼれる。

 七歳の誕生日は誰にも祝ってもらえなかった。救貧院の中で、温かい季節から寒くなってきた頃に、誕生日が過ぎたことに気づいたんだ。


「でもあんた、自分の誕生日を知ってるってことは、親には大事にされてたみたいね」


 ハンナは笑みを浮かべながらも、その瞳と声にはためらいが混じっていた。

 訊いているんだ。僕の事情を。

 僕にも幸せな時間があったことに安心しながら、しかし何か不幸が起こったのを予想しながら、僕が話すのを待っている。

 優しいね、この人は。


「殺されたんだ。俺のお母さん。……俺の――父親に」


 ハンナが顔を白くする。

 大丈夫だよ。時間が悲しみを癒すっていうじゃない? 全然癒えてなんかないけど。でも少しは人に話せるくらい落ち着いたんだ。話したことないけどね。


「お母さんは東の国の人なんだ。そこで出会った英国の軍人に恋をして、ここロンドンまで追ってきたんだって。その軍人が俺の父親になるわけだけど――、その男はお母さんと再会した後、すぐにいなくなったんだ」


 この話をしてくれた時のお母さんは、他人ごとのような口調だった。でもそれが強がりだったことは、今、痛いほどわかる。


「お母さんが殺されたのは、俺が六歳の時。その夜、銃声に驚いて二階のベッドから跳ね起きて、一階に下りた。そこで、倒れたお母さんと、そばに立つ大男を見たんだ――」


 瞼を閉じても浮かんでくる、その光景。火薬の臭い。脈打つ自分の鼓動。


「犯人の大男が消えた父親だってことは、証拠はないけど予想はついてる。事件の直前、お母さんはどうにかして父親に手紙を出してた。父親にとって、お母さんは邪魔だったんだ。それで……」


 言葉に詰まる。ごくりとつばを飲み込んだ。


「俺は誓ったんだ。絶対に復讐してやるって。ひとりでも生き抜いて! 軍人にだって負けないくらいに強くなって! いつかこの手であの大男を――撃ち殺してやるんだ!」


 お母さんにしたように。


「ルイ!!」


 ハンナの手が僕の手を抑えつける。握った拳はぶるぶる震えていた。自分でもびっくりするくらい、頭に血が上ってた。


「ごめん……!」


 謝らないでハンナ。やっぱり全然落ち着いてなんかなかったね。ハンナには話したいと思ったんだから、そんな顔しないで。

 頭の中で言いつつ、僕は鼻息荒く首を振ることしかできなかった。


 表の方から、商人の大きな声が聞こえてきた。今日は日曜日。

 すぐ近くのクレア市場でも朝市が開かれ、いつもよりさらに大勢の人々で賑わう。

「ハンナ、今日は忙しいでしょ? お父さんが捜しに来るよ。俺も今日は稼ぎ時だから、もう行くよ!」


 表の様子を気にする素振りのハンナに明るく言ってみる。

 ハンナはうなずいてから、真剣な顔で僕を見た。


「ルイ。お願いだから、監獄に入るようなことはしないで。まっすぐ頑張るのよ。あんたには……復讐なんかできないわ」


 まぁ、言われちゃうよね。


 その後も僕はマーガレットおばさんの指導のもと仕事を頑張り、月日は過ぎた。

 ハンナとはほぼ毎日会った。おかげでずいぶん英語の発音が良くなった。

 相変わらず野宿だし、服はぼろぼろのままだし、もちろんハンナの父親の店にだって入れてない。

 それでも救貧院の中にいた頃より、ずっと生きた心地がしてたんだ。


 地獄のような救貧院から逃げだして、一年が過ぎた。そして4月も終わりに近づいた頃。


 マーガレットおばさんが姿を消した。

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