第2話 パブの娘  (2,900文字)

「もう、走れないや」


 僕は見知らぬ街の通りを小股で歩いていた。

 橋の先に行ったことがない僕にとって、川の向こうはまさに別世界だった。

 陽は上っていたけど雲の後ろからぼんやりと差し込むくらい。それはあっちとこっちも変わらないみたい。


 僕は建物がすっきりと並んだ広い通りから、狭い路地へと入った。

 広い通りは遠くまで見えすぎてなんだか怖いし、狭い通りの方が僕の街に似ていて落ち着ける気がしたから。狭すぎる気味の悪い通りは避けて、壁一面に看板やチラシが貼ってある賑やかな通りを進んでいった。

 人はいたけど、僕には目もくれずうつむいて荷車を引いたりしている。

 僕はちょっと安心して、どこか休める場所を探して建物の裏手に入り込んだ。


「これからどうしよう」


 地面に膝を抱えて座りこみつぶやいた。帰る場所はない。銅貨一枚持ってない。


「お母さん……」


 顔をももに埋め、お母さんのことを思い浮かべようとした。が、お腹がぐうと鳴るばかりでお母さんの顔は浮かんでこない。

 昨日の午前中に食べたお粥以来何も食べてない。オートミールは嫌いだったけど、今は乾いた喉と痛む胸の下を潤すあの濁った水粥が恋しかった。


 目を閉じたままじっとしていると、パキ、と枝を踏む音がすぐ近くで鳴った。

 どきっとして顔を上げると、女の子がじっと僕を見下ろしていた。

 僕よりいくつか年上だと思う。暗めの、少しうねったブロンドの髪を後ろで丸く束ね、寒いのにドレスの袖を巻くっている。透明なブラウンの瞳はきれいだけど、少しきつそうに見える。きりっとした目鼻立ちのせいかも。


「……なに? 俺になんか用?」


 僕は反射的にぶっきらぼうな態度にでる。

 この子はおそらく地元の子で、僕はよそ者。勝手に侵入しておいてこの言い草はないだろうけど、素直にごめんなさいとは言えなかった。


 女の子は険しい目で僕を見ていた。

 でもすぐに背を向けて歩いて行ってしまった。大人を呼ぶつもりかな。

 僕は大きく息を吸い込んで、また頭を垂れた。棒のようになった脚はもう立ってはくれない。


 しばらくして、また足音がした。

 見るとさっきの女の子が立ったまま、僕におわんを差しだしていた。ほのかに湯気が立ち、美味しそうな匂いが鼻に届く。

 食べ物を恵んでくれようとしている。

 手を出しそうになったけど、僕はふいと顔をそらしてしまった。あんな態度にでちゃったし、今さら気まずい。

 少しの間の後、女の子が身を屈めたのがわかった。


「いいから食べて」


 そんな言葉を期待して、顔を向けたのがばかだった。


 ばちっ。


 頬の下辺りに衝撃が走る。

 え、嘘。僕今はたかれた? 

 だけど狙いがはずれたようで、顎に当たった女の子の指の骨が鳴る音も聞こえた。どっちも痛いやつ。


「いっ……ええ?」


 体勢を崩し、目を見開く僕に女の子はまた手を振りかざす。きれいに技をきめ直す気だ。


「やめっ……!」


 とっさに腕で顔をかばう。なんだ、なんなんだ、僕がなにをしたっていうの?

 目をぎゅっとつぶる。でも攻撃してくる様子がない。恐る恐る腕の隙間から相手をうかがい見る。

 眉を寄せたままの女の子の唇が動いた。


「意気地なし」


「え、なに?」


「食べるのも困ってるくせに、素直に人の好意も受け取れないのが意気地なしって言ったの!」


 張り手をくらった気分だった。

 叱られた。初対面の女の子に。

 目をぱちぱちさせる僕に女の子は、膝の横に置いておいたおわんを取って、押しつけるように差しだす。


「ぼろぼろの恰好をみればわかるわ! 理由は知らないけど、あんた放浪児でしょ! 意地張ってる場合じゃないわよ、ばかね!」


 ばかといわれているのに、腹も立たない。

 救貧院の役員のひどい言葉とは違って、どこか温かい。

 なんだか急に肩の力が抜けてしまって、僕はおわんを両手で受け取った。


「うん……ごめんなさい」


 女の子が大きく息をつくのを見て、僕はおわんの中身をすすった。具のないスープ。だいぶぬるくなっているけれど、美味しい。からだの隅々まで染みわたる感じ。


「飲み終わったらさっさと返して。お父さんに見つかったら怒られちゃうんだから」


 そう言って僕の手からおわんをぶんどると、女の子は足早に歩きだす。僕はその背中に向かって声を上げた。


「あの、ええっと、ありがとう!」


 彼女は振り返ると、怒ったような顔で「しっ!」と唇に指を当てたのだった。




「ねぇ、ここは君の家なの?」


 翌日、同じ場所で建物を指して言う僕を、彼女は口をへの字に曲げた顔で見ていた。


「……なんでまたいるのよ」


「それなに?」


 彼女は右手に持っていた包みをさっと後ろに隠して横を向く。


「べ、別に。あたしのおやつよ。あたしは朝はやくから働いているんだから! ちょっと余分に食べたっていいでしょ!」


「一緒に食べない?」


「なんであんたが言うのよ……。なんか開き直ってない?」


 言いながら僕の横に腰を下ろす彼女は怒っている風には見えなかった。


「ここはパブよ。あたしは店主のひとり娘。これは昨日の残り物」


 渡されたトーストの切れ端は、バターを塗った直後のようにいい匂いがする。受け取ってすぐに口に突っ込んだ。うん、甘じょっぱい。


「うっま! ねぇ、名前は?」


「あんたあたしの話聞いてる? まったく、もう。あたしはハンナよ。あんたは?」


「ルイ」


「そっ。歳は?」


「七歳」


 トーストを夢中でかじる僕をハンナは頬杖ついて眺めている。自分は食べないのかな。


「あたしの三つ下ね。五歳くらいかと思ったわ」


 そう感じるはたぶん女顔と言葉の発音のせいだ。英語は話し慣れていない。


「七歳ね。良かった、十分働ける歳じゃない! ね、ルイ」


 指をなめながら顔を向ける僕を、ハンナはにやりと笑みを浮かべて見ていた。




「そうなの、女の子みたいな顔だけどこの子は男の子よ! 甘ったれで図々しい子だけど、安くしてあげて? マーガレットおばさん」


 ハンナに連れてこられたのは、あの橋から見えたセントポール大聖堂の正面にある広場だった。柵のところで座りこみ、花がたくさん入ったかごを並べた婆さんとハンナが話している。


「ハンナが言うならいいよ。このおばばが面倒みてやろうねぇ。市場で仕入れるより安くしてあげるからねぇ。頑張って売るんだよ!」


 しわくちゃの顔でにかっと笑う婆さんに、僕はおずおずとうなずく。

 年寄りっていつもうつむいているイメージだったけど。こんなふうに笑う婆さんもいるんだね。


「かごはあたしが昔使ってた物を貸してあげる。失くさないでよ? じゃあ、あたしは戻るから。またね! マーガレットおばさん!」


 僕じゃなく婆さんに手を振りながら去っていくハンナ。

 別にいいんだけどさ。


 僕は花売りとして社会デビューすることになった。

 大聖堂を見上げる。恐ろしく背の高い石の柱。すべすべした青白さが不気味。正面のこの位置からは十字架の立つドームは見えなかった。

 両手でかごを握りしめる。


『ロンドンにはすべてがある』


 あの太っちょの言葉が頭の中に繰り返し響いていた。

 ひっくり返してやるんだ。この街を。僕の世界を。

 一人でも生き抜いて、強くなって。

 大事なものをこの街から取り返したら。

 お母さんを殺したあの大男に――いつか復讐するんだ!!




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