ロンドンサバイバル~ヘタレな僕の復讐~
やなぎ まんてん
第1話 救貧院からの脱走 (3,500文字)
怖い夢を見た日には、自分のことさえ呪ってやりたくなる。
荒れた家の中。倒れたろうそくのわずかな灯り。
耳を打つ自分の鼓動と切れぎれの息遣いの音だけが聞こえる。
開け放たれたドアの向こうは何もない。のっぺりとした黒だ。じっと見ているうちに、その黒が迫ってくるようで僕は目をつぶる。
床に着いた膝にじわりと何かが染みた。見ると黒い液体だった。
これは血だ。
僕は知っている。
視線をずらした先に何があるかも知りながら、僕はやっぱり目を向ける。
――お母さん。
美しい黒髪を床の上に広げ、頭から血を流すお母さんに向かって手を伸ばす。
死なないでお母さん。
僕、ひとりになっちゃうよ。知ってるでしょ?お願い、置いていかないで。
ドアから吹きこむ冷たい突風に顔を上げる。
そこには大男が立っていた。
つばの広い帽子をかぶったその影が片手を上げ、何かを向ける。
僕じゃなく、倒れたお母さんに。
鈍く光る金属――拳銃だ。
「やっ、やめろぉぉぉ――!!!!」
叫ぶ僕の鼓膜に銃声が響いた。
「――うわぁぁっ!!」
目が覚めた。
全身汗びっしょりだ。
からだを起こし、涙を拭うと今度は鼻から水が垂れ落ちた。鼻をすすると背中に痛みが走った。
鞭で打たれたせいだ。
きっとみみず腫れになっているし、血も出ている。
「いつつ……」
真っ暗でとてつもなく寒い。ここは救貧院の中の独房だ。
冷たい石床の上でよくもまぁ眠れたもんだよね。普段はなかなか寝つけないってのに。
ちくしょう、からだ中が痛い。悪夢にうなされて当然だ。
でもあれは夢であって夢じゃない。
お母さんは殺された。
六歳だった僕は孤児として、この救貧院に入れられた。
「ぐすっ。お母さん……」
伸びた黒髪に手をやる。お母さんと同じ、自慢の黒髪。
ここに来た時にはばっさりと切られてしまった。
抵抗して暴れ過ぎたせいで、なにかと目をつけられ、罰を加えられるようになった。周りの子供たちも僕を避け、意地悪するんだ。まぁ、それは僕に愛想がないせいなんだけれど。
でもそんなことはどうでもいい。
一番許せなかったのは、お母さんからもらった髪飾りを取り上げられたこと。
ここでは皆同じ服を着ている。
なにひとつ、自分の物を持っていないんだ。
皆同じように痩せこけて、同じ目をしている。
「ふん、起きていたかルイ! 丁度いい、起こす手間が省けた」
声に驚いて振り返ると、役員の男がドアの小窓から僕を見下ろしていた。太った、意地悪そうな顔だ。そして実際にひどい奴だった。目が覚めていなかったら蹴り起こされていたところだ。
「出ろ。じきに朝だ。だが朝食なんて期待するんじゃないぞ。わかっているな?」
がちゃん、と鍵を開ける音がしてドアが開く。
役員の男は一歩踏み入れると、僕の髪を乱暴に掴んだ。
「うぅっ!!」
「からだをさっぱりさせてやろう。全身の虫を落としてから、その馬の尻尾のような髪をそぎ落としてくれる。がっはっは!」
なにがさっぱりさせてやろうだこの太っちょめ。
広場に連れ出して、冷水を浴びせるだけじゃないか。そうしてまた鞭で打って、何の役に立つかわからない木くずを作る仕事を休みなくやらされるんだ。
頭を掴まれたまま引きずられるように歩く僕は、悔しいけれど唇を噛むだけ。言い返したところで、鞭打ちの回数が増えるだけだから。僕はまだ子供だから、大人たちには敵わない。今に見てろと思いながら、いつもぐっと我慢してきた。
でも。でも今回は耐えられなかった。
前回の断髪から一年半が過ぎ、やっと髪が肩にかかるまで伸びていた。
ブリキの器に入った、水みたいに薄いオートミールの粥にぼんやりと映る自分の姿を目にする度にお母さんのことを思い出した。
僕はお母さんによく似ている。目なんてほとんど同じなんだ。
『あんたは私に似てよかったわね、ルイ。父親に似ていたらうねうねのくせっ毛にケツあごよ』
そう言ってお母さんは自分の大事な髪飾りを僕の手に握らせた。長かった髪を突然顎くらいまで切って帰ってきた日だった。きっと今の僕はお母さんそっくりなはずだ。
シラミが湧かないようにと、思い出したように
無茶苦茶に暴れるうちに、棒で殴られ取り押さえられた。見せしめに子供たちの前で鞭打たれたうえに、独房に入れられた。
「まったく忌々しい小悪党よ!
僕を睨む太っちょの頬には小さなガーゼが貼られている。昨日僕が引っ搔いてやった傷だ。
「気味の悪い小僧め。死んだ母親は確かアジア人だったか。強盗相手に戦ったらしいな、新聞の記事を覚えているぞ。ふん! 野蛮な女だ!」
馬鹿にするような笑いを含んだ声に、息が止まる。
心臓から喉にかけて、冷たいなにかが走る。
頭の奥から熱がじわじわと込みあげてくる。
「お母さんを……馬鹿にするな……!」
「んん? なんだ、英語を喋れるのか? 外国の言葉で喚くことしかしないと思っていたぞ。がはははは!」
太っちょは立ち止まり、僕の頭を掴む手をひねり上げる。髪が軋み、音を立てた。このままじゃ切られる前に根っこから引き抜かれてしまう。
痛みにうめく僕に太っちょの脂ぎった顔が迫る。
「悔しいか? だがこの状況も、お前自身の責任だ。しかし妙な奴よ! 金目の髪飾りはともかく、髪の毛に異常な執着をみせるとは。顔だけじゃなく、もしや中身も女か? がふふっ」
髪飾り。お母さんの形見のことだ。
「返せ……髪飾りを返せ!」
「ふふん。
「なっ!? なんで、勝手に……!」
「当然だろう! 一体自分の立場をなんだと思っている? お前が飯を食えるのは神と女王陛下のお慈悲があるからだ! まぁそう悲観するな、ロンドンにはすべてがある。街中ひっくり返せば見つかるだろうさ。できれば、な! がははははっ!」
怒りで唇が震えてくる。
神のお慈悲? こんな世界を創った神なんてろくでもない奴だ。神なんているものか。いるのは汚い人間たちだ。
「ああああああ!!」
僕は膝を折り、反動つけて飛び上がった。太っちょの顎めがけて思いっきり頭突きをかますためだ。
がちん、と音と共に衝撃が頭の中を揺らす。瞼の裏に緑色の光が一瞬見えた。
「ご!! ぐおお……」
太っちょが尻を着いて倒れる。球体のような腹から生えた両脚が宙をもがいている姿が落としたランプの灯りに照らされている。
「うう、逃げなきゃ……」
やってしまった。ここまでやったら、鞭打ちなんかじゃ済まない。永遠に真っ暗闇に閉じ込められるんだ。骸骨になるまで。
くぐもったうめき声を背後に聞きながら、ふらつく足を動かして僕は壁伝いに狭い通路を歩いた。指先にドアが当たると、手探りでドアノブを探して掴んだ。
廊下に出ると、窓から早朝の青い光が差し込んでいた。
誰にも遭遇しないことを祈りながら出口を目指す。
まるで地獄のような環境であっても、ここは監獄じゃない。目のくらむような背の高い石壁に囲われているわけでなく、あるのは鉄の柵だ。
門にはやはり鍵がかかっていた。
両手で柵を掴み、ジャンプする。足をかけ、さらに上の部分に手を伸ばす。
柵が軋む金属音が辺りに響き渡るのも構わずに、死に物狂いでよじ登った。今にも足を誰かに掴まれそうで、焦って手が滑る。上ばかりみていたものだから、柵の反対側に移る時には下を見て思わず息をのんだ。地面が遠い。
後ろを振り返ると、木々の間から救貧院の窓が見えた。風にざわめく木の枝が僕を捕まえようとしているみたいだった。
急いで柵の先端をまたぎ、滑るように下りる。錆びた部分に手が引っかかり、小さく声をあげて離してしまった。
「ひゃっ」
尻から落ちた僕はすぐに立ち上がり、一直線に走りだした。ただただ、怖かったんだ。
離れることだけ考えて、息を切らしながらひたすら走った。
長い橋にさしかかると、冷たい風のせいで耳と鼻がちぎれそうに痛かった。
「ふぅっ、ふぅあっ」
大きなテムズ川は黒く光っていて、吸い込まれてしまいそうな感覚になる。見ないように顔を上げていた僕の視界の右側に、ドーム型の影が映る。先端には十字架が立っている。昔お母さんが教えてくれた。セントポール大聖堂だ。
泣きそうになって、唇を丸める。余計に苦しくなった。
神様なんて信じるもんか。大嫌いだ。
僕のことを助けてくれない神様なんて。
お母さんを救ってくれなかった神様なんて。
お母さんを僕から奪った、あの大男だって。
ロンドンなんて、世界なんて――大嫌い。
僕はこれから、何のために、どう生きていけばいいの。
教えて、お母さん。
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