8-3

 話を切り出そうともだもだしている私を見かねて、洗い物中の聖子ママは、シンクに一番近いカウンター席に「まこちゃん、ちよっと来てくれる?」と座るよう促した。

「今日もお疲れ様。永瀬さんのことだけど、気に病むことないわ。むしろまこちゃんはきちんとお仕事をしてくれているだけだもの」

 半ば心を見透かされたように、優しい言葉をかけてくれる。その表情はいつも通りの穏やかさだ。

 そのおっとりとした雰囲気に飲まれて、言わなければいけないことを放り出してしまいそうになる。が、それではいけないと私は背筋を正す。

「聖子ママ、話があります」

 自分の話がきちんと要領を得ているのか、聖子ママを嫌な気分にさせないか、考えたけれどもどうしようもなく、思うところをすべて洗いざらい話した私一人気分が軽くなっていくようで申し訳ないと思った。

 しかし聖子ママの表情は柔らかいまま変わらない。

「話してくれてありがとうね」

 多少なりとも怒られると思っていた私は、豆鉄砲を食らった鳩みたいになった。

「この仕事してると、たくさんいるの。連絡もなしにいきなり次の日から来なくなっちゃう女の子。昨日までニコニコ飲んでいた子が、いきなりね。連絡をしても、返答なし。着信拒否ならまだ可愛いものよ。むしろ、無事に帰って、着信拒否の操作ができたんだなってわかるから。少なくない量のお酒を飲むし、男の人から特別な思いを持たれることも多いこの仕事だから、無事に帰れたってことがわかりさえすればいいの」

 そう言う聖子ママの顔と声が穏やかで、辞めると言って少なからず嫌悪感を示されたり、引き止められるのではないかと構えていた私は、どこか安心したような、寂しいような気持ちになった。


 私はドレスを脱ぎ、ハイヒールからスニーカーに履き替える。

 外に出ると、新鮮な空気に室外機の熱風を混ぜ込んだような生ぬるさが肌を包む。夏の夜は、肌を灼く太陽こそないが、吸い込んだ空気が体内からゆっくりとクーラーで冷えた体を溶かすみたいだ。

「戻ってくるんじゃないよ」

 店から少し離れた駐輪場にいたかりんさんに声をかけられる。

 暗い中で見るかりんさんは、くまがひどいように見えた。かりんさんは私に、白い封筒を渡してきた。

「私の漫画が売れたらそれ、プレミアつくよ」

 便箋にサインらしきものがいくつか、並んで書かれていた。

「サインの練習したやつ」

 へへへ、といたずらっぽく笑う顔は、クマがあってもやっぱり少女のようだ。

「じゃあ、絶対売れてくださいね」

 かりんさんは何も答えなかったが、変わりに私をまっすぐ見つめた。

「もう戻ってきちゃだめだからね」

 夜の仕事は多分、性に合ってる。

 だけど、やればやるほどに自分が嫌いな自分になっていく。

「かりんさんは、ずっと続けるんですか」

「私は多分この仕事向いてないけど、今のところここ以上に折り合いのつくところが見つからないんだよね。現時点では、これでいいと思ってる」

 きっとこの仕事に限らず、すべての仕事がそうだ。みんなそれなりに折り合いがつくところを落とし所にして、それぞれが戦っている。私はたまたま、そういう場所が一時的にトルマリン(ここ)だった。

 これからは、もっと違う落とし所を模索しながら生きていく。

 かりんさんは「元気でね」と言って、自転車に乗ってとてつもないスピードで帰っていった。

 私は、自転車を押して家までゆっくりと歩く。

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