8-2
火曜、翌日休みだという鹿野さんが同伴したいと言うので、商店街にある居酒屋で六時から二人で飲んでいた。
八時に聖子ママから『永瀬さんがいらっしゃってるけど、かりんがなんとか相手してる!出勤は予定通りで良いから気を付けて来てね』とLINEが来た。気持ちがこの上なくザワザワした。悪い予感がした。
起こってほしくないことほど起こるし、悪い予感こそ当たる。
永瀬さんは仏頂面で奥のボックス席で、かりんさんと向き合って座っている。テーブルの上にはスマホが表向きに置いてあって、ストップウォッチが表示されていた。
それまで決して不機嫌な顔を見せなかった永瀬さんが、怒りに数滴悲しみを垂らして混ぜたような表情を顔に塗り付けて、チンチラ生地の椅子の上でまるで地蔵のように固まっている。
私はかりんさんにお礼を言って、永瀬さんの隣りに座った。かりんさんは心配そうな顔で「お邪魔しました」と席を外す。
「同伴だったんだね。聞いてなかったからびっくりしたよ」
どうしてたかが客との同伴を、たかが客に言わないといけないの? 何を理由に、ただの客のあなたにそんなことを言われないといけないの?
私は言いたいことを全部飲み込んで、悲しそうな顔を作った。
「ごめんなさい……」
苛立ちで絞り出した声がまるで泣きそうな震え声に聞こえたのか、永瀬さんは「いいんだ、僕こそごめん」と焦る。
「私もすっかり売れっ子になっちゃったみたい」
気まずい雰囲気を払拭するために、明るい声で笑い飛ばそうとしたが、裏目に出た。永瀬さんの顔が曇る。
「やだよ……」
小さな蚊の鳴くような声で、そう聞こえた。小さい声だが、聞き返すまでもなかった。
「じ、じぶんを、売り物みたいに、言っちゃだめだ。そういうことは言うもんじゃない」
あまりの必死の形相と要領を得ない発言に、私は困惑した。
働いている以上、自分の時間やスキルを提供する対価としてお金をもらっているのだから、自分が売り物であるということについてはなんの間違いもなければ、そこに後ろめたさを感じる必要もないはずだ。何よりわたしは、そういうつもりで発言したわけではない。
ただ反論しても焼け石に水というか、火に油というか、今の私の語彙では永瀬さんを納得させたり安心させることは難しそうだ。
「ごめんね、今日はちょっと、もう帰ろうかな」
最早ほとんどただのジャスミン茶の薄いジャスミン茶割を一気に飲み干して、聖子ママに向かってチェックと言った。
ずっとこちらのやりとりを気にしてくれていた聖子ママは、すっ飛んできて会計を済ませた。
苛立ちはもう収まったらしいけれども、代わりにすっかりしょんぼりした様子で「じゃあ、また」と言って永瀬さんは帰っていった。
せめて最後は嘘を言わないであげようと、私は「お気を付けて」とだけ返した。
カウンター席の鹿野さんの隣に座るとまた面倒だった。
若者らしくつやつやした顔に浮かべるにやけ顔に、無性に苛立つ。
「まき……あ、まこちゃん、大変やな。修羅場って感じ?」
白々しく偽の本名を呼ぶ顔が間抜けだ。その間抜けなニヤケ顔で「なんか飲みなよ」と言うので、「じゃあビールもらっていい?」と聞く。馬鹿な若者は「仕方ないな」とアホ面でふんぞり返る。
私の時給は、この馬鹿の、ヴィトンのエピの鞄に無造作に突っ込まれたモノグラムの 財布から出ているのだ。
洗い物をせっせとしているかりんさんが、一瞬こちらを向いたような気がした。
「あんなおじさんの相手もしないといけないの、大変だね〜」
訳知り顔でそう言う鹿野さんの頭に水を、脳内でかけてみた。
いつか実際に体が想像と同じ動きをしてしまうのではないかと、いつも少しドキドキしていたけれど、ついぞそんなことは起こらなかった。私の理性を褒めたい。
「お酒飲まなきゃやってらんない」
私はそう耳打ちして、小さなビアグラスを掲げて鹿野さんに乾杯した。
しばらく他愛のない話をして、鹿野さんはその間に三杯の水割りを飲んだ。
酒好き、なのに酒に弱い、なのに調子に乗って飲む鹿野さんの酔っ払い方はいつも同じだ。ろくな大人ではない。
「まきちゃんまきちゃん」
ねちっこい声で呼ばれる名が本当の名じゃなくて良かった。
「今週末デートしよ」
「いや無理」
できるだけ笑顔ではっきりと発音する。相手は酔っ払いだし、爽やかにきっぱり言ってしまえば納得してもらえると思った。
「無理ってなんで」
さっきまでへべれけの顔をしていたのに、冷水を浴びたように目を開いている。
「ごめんなさい、用事があって」
ばっさり力技で断るより、波風を立てずに済ませる方を選んだ。それがせめて、聖子ママたちにかける迷惑を最小限にできる方法だと思った。
酒に飲まれた馬鹿野郎が「なんだよ」などと言いながら、猿のおしりみたいな真っ赤な顔をするので笑えてくる。
鹿野さんはそれから二度トイレにかけこみ、十一時過ぎには腑抜けた白い顔で帰っていった。
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