2-9

 実家で寝泊まりし始めて、丁度一週間が経った。

 帰ったその日に宿代として母に三万円渡し、家事も大部分担当していたが、大の大人が実家にひきこもり続けることに罪悪感を覚え始め、真琴は外を散歩することにした。


 水曜日の夕方のこと。

 近所の商店街は、自分の記憶の中のそれと随分違うような気がした。

 大阪環状線沿線だが、最寄りの駅の利用者数はそう多くない。そうはいっても大阪なので、人が少ないわけではない。

 真琴の記憶では、その商店街は人や物がやたらに多くて、ひたすら雑多で、あまり好きな場所ではなかった。たまにすれ違う知り合いに気付かない振りをするので忙しく、相手から話しかけられたときにはしどろもどろになるのが常だった。

 今、真琴は、明るく賑やかで活気にあふれた商店街を眺めている。飲食店の前を通るたび、知った顔を探している。知った顔でなくても、とにかく誰でもいいから喋りたい気分だった。

 同じ街のあまりにも違うように感じられる町並みに、真琴は胸を弾ませた。


 商店街は光を灯し始め、いそいそと夜の支度をはじめる。

 アーケードを横に抜けた真琴は、ようやく辺りが暗くなっていることに気付いた。帰宅途中のサラリーマンも散見している。

 商店街から少し外れると、住宅と、もう何年も閉めているのであろう個人商店が入り交じる町並みになる。

 その町並みの中に、鈍く光る古びた看板を掲げた「ラウンジ トルマリン」の扉が、換気のためか開け放されて、薄暗いシックな店内が覗いていた。

 まるで、平凡な町並みにぽかりと空いた、異世界に通ずる穴のようだ。真琴は蛍光灯に惹かれる蛾の如く、その穴に吸い込まれた。

 間接照明で全体的に薄暗い店内は、入ってすぐのところにあるカウンターに六席、その後ろに背の低いソファで囲われたボックス席二つ、更に奥にももう少し大きいボックス席が三つを備えており、外観に対して、想像がつき難いほど広い。椅子はすべて同じ臙脂色のチンチラ生地で統一されている。カウンター内のビンが棚の照明によって下から照らされ、キラキラと光る。

「いらっしゃい。あら、アルバイトの面接ご希望かしら…」

 薄紫の着物を着た小柄な女性が、カウンターの中で小首を傾げた。

「いえ。一人ですが良いですか」

 着物の女性は品の良い笑みを浮かべて、「ではこちら、どうぞ」とカウンター席の奥から二番目を手で示した。

 真琴は酒好きだが、バーで飲んだことすらない。家で一人晩酌するくらいしか経験がない。

 人見知りの彼女には、見知らぬ人間とカウンターを挟んでごく近くで対面するなど、考えるだけで卒倒しそうだった。

 しかし今の真琴は、見知らぬラウンジだかスナックだかよくわからない店に入るなり、初対面の女性に向かってアルコールを所望している。

「どうぞ」

 アラベスク模様の黒いフェルト生地のコースターの上に、グラスが置かれる。

 真琴の目の前にはその他にも、清潔な香りのするおしぼりと、薄紫色の花びらのような形の小皿に載ったナッツがチャームとして置かれていた。

 休み休みでもひたすら商店街を行きつ戻りつ歩き続けた真琴は、渇きを一刻も早く癒したく、ハイボールを流し込んだ。

「生き返る……」とひとりごちた真琴に、着物の女性は小さく笑う。目尻が垂れて、より一層柔和な表情になる。

「お若いのに、お酒が好きなのね」

「ええ。二十歳のお祝いに生まれて初めてお酒を飲んだとき、両親を恨みましたね。こんなに美味しいものを今まで隠しやがって、って」

「あら、立派に親御さんの血を受け継がれたのね」

 真琴はにこやかに、どうもと答えた。


 グラスが三分の一ほどになったころ、女性はグラスの結露をハンカチで拭きながら「次も同じので?」と声をかけた。

 真琴は「はい。お願いします」と言って、目の前に水滴が拭き取られたグラスが置かれるなり、残りをグイと飲み干した。

「こういうお店って、ママにもご馳走すると格好がつくんですよね」

「あら、こういうお店って。えっと、あなた……」

「真琴です」

「真琴さん、はじめてなの?」

「はいもちろん」

 女性は目を丸くして小さく高い声を上げ、大げさに驚くふりをした。

「よく入ってこれたわね」

 いつの間にかまたコースターの上のグラスは満タンになっていて、空になったチャームの小皿は消えていた。

「あと、私はママなんて立派なもんじゃないわよ。形式的には間違ってないんだけど……まあ、雇われママね」

 そう言いながら揺れる手の動きがコミカルで、真琴は不意をつかれて笑ってしまう。

「可哀想な雇われママに、一杯ご馳走してくれるのかしら」

「フフ、どうぞどうぞ」

 聖子ママがビールの缶を開けたところ、真琴は手を伸ばして缶を奪って、彼女の小さなビアグラスに注いだ。

「あら、お手数おかけします。ではお言葉に甘えて」

 いただきます、と乾杯した次の瞬間には彼女は小さなビアグラスの中身を一瞬で飲み干し、ニ杯目を手酌する。

「真琴さんはこの辺にお住まいなの?」

「はい。ここから歩いて二十分ほどのところで……」

 真琴は、あれ、二十分だったかな三十分だったかな、とふと不安になった。

 たったそれだけの距離をひたすら寄り道して二時間かけて歩いたのだ。本当はもっともっと遠くから来たのではなかったかな、と思った。

「そうなのねえ。普段は何をしてらっしゃるの?学生さんかしら」

「いえ、社会人です。あ、社会人でした。今は無職」

 その訂正に、気恥ずかしさや後ろめたさは一切なかった。真琴はむしろ胸を張っていた。

「ママ……は、雇われとのことですけど」

「ええそうなのよ。ここのオーナーが、まあ昔からの知り合いで。ちょっとしたことがきっかけで、店に立つのを任されるようになって…うん十年かしら」

 うん、の部分をことさら強調して言った。

 真琴はどこかで聞いたエピソードだなと思い、いやよくある話だしなとかぶりを振った。


 カラン、と音を鳴らしてドアが開き、赤ら顔の中年男性が三人入ってくる。

「せいこちゃーん、会いに来たよー」

「いらっしゃい、飯田さん、森さん。ちょうど私も会いたいと思ってたところ。あとそちらの方は……」

「こっちはたつお。たっちゃんって呼んだって」

「たっちゃんね。雇われママの、聖子です。トルマリンにようこそ」


 三人の赤ら顔は、カウンター席後ろのボックス席でご機嫌に飲んでいた。真琴もそこに混ざり、すっかり打ち解けている。

 赤ら顔のひとり、飯田は、いつの間にか現れた、ドレスを着た長髪で細身の女性を目の前にした瞬間鼻の下を伸ばして、大層ご機嫌な様子だ。

 「飯田さん」と書いたネームタグがかけられたハーパーは、来たときには半分あったのにもう空になろうとしていた。

 雇われママの聖子が一番ご機嫌で「ちょっとカウンターに来てくれるかしら」真琴に耳打ちした。

「なんやひそひそばなしか?!」

 聖子は上機嫌にウインクして「そうよ、今から女同士大事なひそひそ話をするの」と声を弾ませた。

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