星野浩二様

俺は深呼吸して目の前の物を覗く。それはおとぎ話にしょっちゅう出てくるような、不思議な、つかみどころのない、しかしそれでいて繊細な、子供であった。



 子供が嫌いだ。苦手ではない。嫌い、だ。細かい理由を挙げること、つまり人により是非とする箇所が異なる理由を挙げることは、そこに付け込み、さも反論したかのように、したり顔の人が出てくるのでやめる。

 大まかな、少しばかりの論理を重ねられた理由としては、世がその子供の無邪気さが全くの善で、打算的な思考に浸っている大人が悪とするところである。これは時代によるかもしれないが、少なくとも現在はそのようなパラダイムである。どうして生きる術を知って行き、その過程で必然とまでされた学術を用いた思考や行動が、ミスを少なくするためのパターンが、勘から生まれた素敵な答えよりも悪とされてしまうのか。いや分かる。汚い泥を掻いた網で見る世の中よりも、塵一つない水中ゴーグルで見た世の中の方が美しく見えそうである。いや実際には美しく見える。子供の記憶は大人のそれよりも美しい。しかし、世の中を少しでも叩いてみるがいい。大体は泥が舞うのだ。だからこそ俺たちの網は汚いし、それが世の中。泥を泥としてみることに何が悪い。リアリストで何が悪い。

 そう考えると悪いのは子供ではなく、泥を多く被った世の中の、謙遜と嫉妬から生まれたその考えである。

 ならば少しジャンプして嫌いの範囲を広げるならば、大人が描いた、ある一種のプロバガンダのような絵本や童話だって嫌いだ。気持ち悪い。お前らが一番打算的であろうが。何が純粋だ。

 しかし俺は知っている。それはあくまでもプロバガンダであり、現実ではない。そういう子供がいるということは記憶からするといない。だから俺は今日まで怒りを感じるだけに留まれていたのだ。

 ではここで俺の嫌いとする箇所を振り返ると、実は子供というよりもそれを作る社会であり、そもそもとして嫌いというよりも怒りを感じてしまう。だから「子供が嫌い」と突っぱねるのは少々手荒く思われるかもしれない。しかし俺が断固として嫌いというのは理由があり、まぁそれが細かい理由に当たる。怒るだけでは済まない。一種の恐怖からくる嫌悪感。今日、確かに子供にそれを感じたのだ。確かに。


 俺は目の前に横たわった自転車を、呆然と眺める。後輪のタイヤがフレームからはみ出ており、中から腫瘍のようなゴムが飛び出している。俺の自転車だ。水田の堤を漕いでいたら急にパフんと音がなり、何かと気づくは遅し、倒れた。俺はそのまま堤の脇に生えた雑草のマットに倒れ込み、起き上がり、今である。日は暮れている。己のプライドが、人に話しかけることをやめさせ、かれこれ三十分。しかしそうでなくても通りの少ないこの道に、俺は助けを求める事もできずに呆然としていたのであった。

 家からは十キロメートルといったところか。俺は友人との用で、ここから家の反対方向にさらに数キロ離れた場所で半日を過ごしていた。一時間一本の電車に乗り遅れた俺は急遽として祖父が偶に乗るとこを見かけるこいつに跨ったのだ。祖父に合わせる顔がないからではなく、ただ単純にその距離に呆然としている。

 俺はとうとう堤の斜面下方向を前にして座り込んでしまった。視界に入る、名のある物体たちは個性を無くして全てが黒く見え始めた。焦燥感が再度煮えてきた。がまたしも収まった。スマホの充電はないので迎えもない。歩くしかないのだ。そう結論付いても一度畳んだ足は起きあがろうとしなかった。

 さらに三十分はたったであろうか。ついに歩こうと決意したその時であった。

「そらをみてみなよ」

 俺は泥臭いガキに話しかけられた。


 もう一つ俺の嫌いなものを挙げる。田舎だ。これは特筆に値しないだろう。みんながそう思っているはずである。なので省く。

 そんな田舎が嫌いな俺の前に現れたのは、これでもかというくらい泥で覆われた子供であった。臭い。一目見た時は泥と夜のせいで積まれた土嚢が喋ったのかと思った。汚い。しかし再び発せられる「そらをみてみなよ」という甲高い声と、僅かに覗く白い顔が、それが子供だと分からせた。

 しかし見れば見るほど人間とは思えない。己の知る限りの知人友人全員に見せたい程であるが、生憎俺は抽象的にしか表現できない絵というものが嫌いなので、写真を撮ろうと思ったが、スマホの充電が切れていることを思い出したので、的確に口承で伝えようと観察し始めることにした。

 泥でカサを盛られているので正確ではないが、てっぺんは俺の腰なので身長は一メートルといったところか。それと…泥が全てを覆っている。いや、それしか言えないのだ。一メートル強はあろうかと思われる土嚢は、目が闇に慣れたとて、土の塊にしか見えないのだ。

「そらをみてみなよ」

「わかった!わかったから!」

 ただ、土嚢と違う点は、てっぺんから十五センチほどに周りより少し薄い色をした箇所があり、そこがパクパクと動くのである。


 …


 俺はこれから今起きている事実を列挙していく。あくまでも事実であり、百人見ても頷けるような事実である。

 俺は今、空と遠くの山と田の色が全く同じように見えてしまうくらい、夜中の今、哀愁漂う自転車を傍に漠然とした不安を抱えながら田の堤に腰を据えている。そんな時、鶴の一声のような甲高い声が俺の肩にかかり、振り返って見れば泥が全身を覆う子供がいたのだ。その子の発す言葉は「どうしたの?」や「大丈夫?」や「誰かそこにいるの?」ではなくただ一つ「そらをみてみなよ」であったのだ。

 俺は田舎の空がつくる素晴らしい灯りを見ながらも、時折として少し下を覗く。確信はないが、おそらく子供もそらを見上げていた。

 俺は心ではなく頭から確実に、ある一つの感情が舞い上がって来たのを感じた。その感情はいずれからだ全身を刺激し、ふつふつと鳥肌を立たせた。恐怖である。遭遇したことのない、聞いたことのない、未知という恐怖。名も知らず、対処も知らず、常套な行動がない。


 山から吹き下ろす生ぬるぅい風が背中をなで、Tシャツを翻した。額に滲む汗をふき取ろうとするも腕が上がろうとしない。まるで血が通っていないようである。


 空の様子は全く違わないのに、子供に話しかけられた後は、全くそこに何かしらの形容詞が入る隙間はなくなってしまった。

 これは例外である。マニュアルなんてない。俺は何度目かのその結論に至った後、諦めて子供に話しかけた。それでもできるだけ目の前の異物に刺激を与えないようなセリフを捻り出したつもりである。

「綺麗だね。星」

「あの中にぼくのいえがあるんだ」

 恐怖は骨の髄まで染み渡った。



 まるで会話が繋がらない。繋がらないというより、意味がわからない。しかし聞き返せない。下手に反抗しようものなら俺にも泥を覆わせるつもりではないだろうか。はたまた田に溺れさす気であろう。俺は土嚢に迎合する。

「そりゃまぁ…遠い所から来たんですね」

 子供に世間話調の会話の意味があるかは分からないが、推察や偏見から生まれたような発言を廃するとなるとこのようなセリフとなった。この異物から「ちがうよ」なんて冷めた声は聞きたくないのだ。

 甲斐あって

「そう。だから帰りたくても難しいんだ」

 と初めて会話が成り立った

 俺は安堵したのも束の間、今ある流れを逃すまいと次の会話をあろうことか何も考えず続けてしまった

「そうなんだ実は僕も家がここから遠くてね困っちゃってるんだ。その。お母さんとかお父さんとかいるかな。道知りたくて」

「家にいるんだ」

「じゃあ連れて行ってくれないかな」

「だから家に帰るのは難しいんだって!」

 しまった

 土嚢は「話聞いてないだろ」と俺に冷たい声を投げかけた。井戸につき落とされる感覚に近かった。どうしようもない失態が、ただそこにあった。

 化物は黙っている。いつ爆発してもおかしくないだろう一触即発の状態だ。取り繕わなければ。

 しかし焦りが募る一方で、怒りが心の底から確かに沸々と湧いて出ていた。どうしてこうなったのか。こうなる羽目になったのか。俺が何をしたというのだ。何も悪いことなんてしていない。

 俺はちらりと自転車付近に無造作に投げられたリュックを見た。こいつのせいだ。元はと言えばこいつ、友人から預かった荷物のせいで俺は。こんな目に。くそ。金がないからってあいつなんかに頼らなければよかった。俺は視線を子供に戻す。どこを見ているのかはわからない。しかしこころなしか子供は前のめりになっている気がする。食って掛かる気だろう。気に食わないから俺が。爺さんだって悪い。もっと定期点検とか行っといてくれ。なんでそうもいつも俺を貶める。楽しいかそんなにも。俺は何もしていないじゃないか。いつもいつも。


 ?違う。そうだこれもあいつらの罠なんだ。そうだそうに決まっている。あいつら自転車をパンクするよう何か仕掛けたな。それで俺はこんな……じゃあこの目の前のガキも俺を嘲るための機械人形か。いや子役か。なんであっても良い。俺を嘲笑うためのカメラがついているはずだ。


 俺はゆっくりと棒のように固くなった右足を土嚢に近づけた。右肩に触れる。パきりと土の砕ける音がした。冷たい。しかし息を吐く音が聞き取れた。土と土を縫って出る、スゥっという空気の音が。コイツは生きている。こんな子役を買う金があるなら…いやあいつらがそんな恩義を売ることなんてない。早くカメラなりを回収してあいつらをコケにせねば。

 俺はもう片方の手を左肩にのせ「おい。過ぎるぞ」と特別低い声で脅した。子役はびくりと肩を後ろに下げたのでグッとこちらに引き寄せた。なんだ何も怖くないじゃないか。所詮は人間。取り扱える。どうせカメラを泥の中にでも隠しているのだろう。

 俺は泥を掻き始めた。怒りに身を任せ、爪を立てて犬が土を掘るが如く、ガキから泥を剥がした。ガキは抵抗するように後退りした。逃がすものか。俺は右手で、枝のように泥で凹凸のできているガキの二の腕を掴んだ。俺は掻き続ける。皮膚に当たった感触もしたが、泥だと言い聞かせて無理やり引っ掻いた。血であろうか。泥の匂いにツンと鉄の匂いがした。俺はニタリと口角をあげ、震える腕をさらに強く掴んだ。しかしどうであろうか。爪で掻く深さなんて高が知れているだろうが、ガキからは万斛の血の球が、血の川が流れてくるではないか。闇でも分かる赤黒い、泥の混じった血が。


 う


 俺はいつの間にか走っていた。子供を背に走っていた。田に突っ込もうがも山川に入ろうがただひたすらに脚を動かしていた。木にぶつかり転げばすぐに立ち上がり、地面に埋もれた岩に足をぶつけども血が出ども関係ない。息が上がりよろけるたびに目一杯空気を頬張り、汗の粒を四方に飛ばし、たっぷりと汗を吸ったシャツは減速させると思い脱ぎ捨てた。半裸の男が必死の形相で暴走するというのは傍から見れば己が化け物だとか、友人が預かった荷物を置いてけぼりしにしているとか、爺さんに面目ないとか、頭の中を一瞬通り過ぎたが、己を追っているであろう真の化け物の事を思うと心は意外にもすっきりとしていた。闇はき気持ち良いのだ。



 今朝未明。行方不明として捜索されていた星野浩二君五才が遺体として発見されました。発見された場所は〇〇〇〇で、不審な鞄があると土地の管理者から警察に通報があり、確認すると人間の頭部が入っていたとのことです。その後、病院で浩二君であると確認が取れました。

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