第1話 じいちゃんが死んだ
おそろしく冷え込んだ日だった。昨日までは汗ばむくらいだったのに……。そんな季節の変わり目。年寄りがよく死ぬ日。
私の祖父も例外ではなかった。昨日深夜、祖父が急変したと病院から電話がかかってきた。私は、財布と携帯電話だけ持つと、タクシーですぐに病院に向かった。歩いても10分。でも、ほんのわずかな差が何かの分かれ目になるかもしれないことを、よく知っていた。
料金は電子マネーで支払う。昔なら用意しておいた
自動でドアが開くのを待ちきれず、私は飛び出す。夜間用出入口に行くと、顔なじみの警備員がすべてを察した顔で「さっさと行け」というように、顎を動かした。
私はありがたくそのまま中に入ると、エレベーターを待つ時間も節約して階段を上った。5階。この古い病院には4階がないから助かる。
「じいちゃん!」
そう叫びたいのをぐっと我慢して、祖父の個室に入る。個室とはいえ深夜だ。他の部屋では患者がひとときの休息を得ているに違いなかった。
「よかった、間に合いましたよ」
祖父のベッドの横に立っていた看護婦がかすかに笑うと、私のために場所を空けてくれた。
「じいちゃん」
私は、そっと呼びかけた。手どころか鼻の穴にまで管をはやしている祖父が、うっすらと目を開けた。見えているのか、私には分からない。でも、私のことを認識したのは、はっきりとわかった。
「夜遅くにすまんな」
祖父が笑ったような気がした。
「今言うことかよ」
私は、少し涙を浮かべていたかもしれない。気をきかせてくれたのか、個室はいつの間にか二人きりになっていた。
「朝までは、もつと思ったんじゃがの。なかなか思うようにはいかんな」
そう言うと、瞬きして、ふっと息を吐いた。
「何でそんなこと言うんだよ」
もう涙声になっていた。骨の上に皮膚が張り付いたような細い手を握る。冷たく、わずかに振動していた。
「昔ならとっくに死んどるはずなのに、今はすごいのう……。孫が来るまで死に神を待たせとるわ……」
じいちゃんの目から、水分が流れ出す。
「朝まではじいちゃんが一緒にいてやるから心配すんな。朝になれば、父さんと母さんも来るじゃろ」
私は首を振った。
「無理しなくていいよ。つらいだろ。ちゃんと覚悟できてたし、大丈夫」
精一杯笑う。
私の両親、特に父親は、仕事でほとんど家にいなかった。だから、私はおじいちゃん子だった。
「バレとったか。そろそろ体が痛うてかなわん」
じいちゃんが笑った気がする。
「……まだまだやりたいことがあったが……、おまえに託すしか……、なさそうじゃな……」
「その話は入院前に済ませただろ」
私は、ほんの少しだけため息をついた。
「気が重いけど、なるべく努力するよ。じいちゃんの最後の仕事だもんな」
笑ったつもりだった。なぜか、顔中がぐしゃぐしゃだった。
握った手にわずかに力が入った。
「じゃあな、じいちゃん」
お別れの言葉。
ピー。ピー。
甲高い警告音が、繰り返し流れる。看護婦が慌てて部屋に入ってきて私とじいちゃんの間に入ろうとした。
「延命措置はいらないです。じいちゃんの遺言なので」
私は静かに言った。あらかじめ話してあったが、看護婦としての使命感が体を突き動かしてしまったのだろう。看護婦の体から力が抜け、私と反対側のベッドの横に行くと、「よく頑張りましたね」と、じいちゃんの顔を優しくなでた。白衣の天使とはよく言ったものだと、その顔を見て、私は感心していた。
医者がゆっくりと入ってくる。こちらはもう延命措置をするつもりはないのだろう。ゆっくりと、じいちゃんの首筋に手を当て、目に光を当てると、そっとじいちゃんのまぶたを閉じ、腕時計を見た。
「ご臨終です」
厳かに告げられた。こういうのは、機械的に淡々とこなしてもらった方が気が楽だというのを、知識ではなく、経験として初めて実感した。こちらも落ち着いて、対応ができる。
「朝には両親が来ると思いますので、それまでお願いできますか?」
「わかりました」
あらかじめ考えていたとおりにお願いし、私は部屋の外に出された。看護婦がもう一人やってきて中に入った。医者は私に一礼すると、「休憩室で休まれますか?」と、優しく聞いてきた。
「できるだけ近くにいたいです」
そう答えると、ロビーにあった長椅子を部屋の前までもって来させてくれた。そして自由に使っていいと言い置き、去って行った。一人にしてくれたのはありがたかった。
私は長椅子に腰掛けると、ゆっくりと深呼吸をした。病院特有の匂いが肺に流れ込んでくる。 病室を何度か看護婦が出入りをしていたが、そのたびに私に気を遣っているようなまなざしを向け、一礼をしていった。
いい病院だったんだな。そんなことをぼんやりと思っていた。私の横に綺麗にたたまれた毛布が置かれていた。私に気を使って置いてくれたのだろう。ありがたく私は毛布に顔を埋めた。そして、思いっきり泣いた。
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