第9話 元婚約者
そんなある日。
グレイシアは王子との約束の時間より早めに宮廷に到着したので、庭園を散歩していた。庭園には瑞々しい花が咲き誇っていた。
「なんという名前の花でしょう……ふむふむ、インパチェンス……」
立て札に書いてある花の名前を読みながら、グレイシアは一人頷く。
令嬢なら花の名前はある程度覚えているものだが、グレイシアは物覚えが悪かった。花は綺麗だとはもちろん思うのだけど。
そんなグレイシアに話しかける人がいた。
「久しぶりだな」
びくり。グレイシアの肩が震える。恐る恐る顔をあげてみれば、そこには茶髪を跳ねさせた緑瞳の優男が立っていた。
ーー元婚約者のストレリツィ伯爵令息、クラッゾだ。
「……ッ」
逃げようと踵を返したグレイシアだったが、女の歩幅では長身の彼の歩幅には敵わない。ツカツカと近寄られ、アイビーの絡まるウッドフェンスに追い詰められる。脇に逃げようとしたところを、フェンスについた片手で阻まれた。
グレイシア付きの従者が何か彼に言おうとしたが、グレイシアはそれを手で制す。
見下ろしてくる彼を、グレイシアはまっすぐ見上げた。
「……お久しぶりです」
「相変わらず、姉妹と違って地味な女だな」
顔に影を落とすクラッゾは、グレイシアを見下ろして唇の端を吊り上げる。白いワンピースを着たグレイシアを上から下まで眺め、追い詰めた獲物を楽しむように目を細めた。
「あの白豚王子の婚約者になったんだって? よかったな」
「祝福のお言葉賜り恐縮ですが、婚約者ある身で他の殿方と話す趣味はありません。失礼します」
「まあ待てよ」
強引に彼から逃げようとするグレイシアの腕をクラッゾは掴もうとする。
素早く出された大きな手を、グレイシアはサラリと受け流して拒否した。
バランスを崩すクラッゾ。
「……はっ」
一瞬目を見開いたクラッゾはすぐに皮肉な笑みを浮かべた。
「そういう可愛げのないところも相変わらずだな。白豚王子なら尻に敷けるからお前みたいな女でも都合がいいだろ」
「はあ」
相手にするのが面倒なので、グレイシアは適当に返事する。
「あまりに強いから学歴を白紙にさせられた『氷砕の剛腕令嬢』が」
「はあ」
「いいか? 男はみんなお前みたいな腕っぷしが強いだけの馬鹿女は嫌いなんだよ」
「はあ」
「お前は都合がいいから王子にあてがわれているだけだ」
「はあ」
「これから白豚王子が人気になって来れば、お前は捨てられるんだよ」
「王子殿下はそんな人じゃないです」
言い返したグレイシアに、クラッゾはニヤリと口角をつりあげる。
「なんだ、本気で惚れてんのかあのゲーミングカラー白豚王子殿下に」
「不敬です」
「不敬、なあ……お前の存在自体が不敬なんじゃねえの」
クラッゾはグレイシアの顎を掴む。
グレイシアは歯を食いしばった。
「
「お前なんて、令嬢としての価値は無い。若さとちょっと顔がいいことと健康と家柄だけ、お前は味気ない食パンみたいなもんさ」
「
「言い返す言葉がそれか。……くく。氷塊の豪傑令嬢サマの語彙力は相変わらずだな」
ーーその時。
鋭く場を切り裂くように、グレイシアの大好きな声が響いた。
「ストレリツィ伯爵子息、我が婚約者に何をしている」
「これはこれは王子殿下。失礼」
クラッゾはパッとグレイシアから手を離し、大袈裟に肩をすくめ紳士の礼をした。
「彼女の顔に虫がついていたので取って差し上げていたのですよ。それではごきげんよう」
いけしゃあしゃあと笑顔で言い切った彼は、軽やかな足取りで庭園を去っていく。
グレイシアはホッと息をついた。
「……グリー、大丈夫か」
「ありがとうございます殿下。……彼はちょっと苦手でして」
「だろうね。君が抵抗できないなんて珍しいから」
グレイシアに手を貸す王子。二人は手を繋ぎ、庭園のベンチまで歩いた。
「彼を前にすると……彼の婚約者だった頃を思い出すのです。あの時は、私は本当に……出来損ないだと、彼からもストレリツィ家からも叱られ続けていたので」
学園を卒業してすぐ、グレイシアは花嫁修行としてストレリツィ家に通うようになった。
グレイシアは腕っ節は強いが令嬢としての能力は赤点だ。毎日のように嫌味を言われ、寝る間を惜しんで練習をしてもうまくいかず。呆れられ、時には手も上げられ。それに反発してはならない、普通の令嬢ならばこれくらいできるのだと根性で頑張った結果ーーついに家族に隠し通せないほど、体調を崩してしまった。
「私の出来が悪かったせいで、婚約破棄になって……父にも迷惑をかけてしまったのです。『こんな婚約だとわかっていたらすぐに解消したのに』と、父に悲しい顔をさせて……」
「……」
王子はただ唇を引き結び、隣に座るグレイシアの手をきつく握りしめる。
グレイシアははっと我に返った。
こんな弱音を吐いても、王子を困らせるだけなのに。
「あの……殿下」
「君は強いな」
王子の手はぽっちゃりしてふかふかで柔らかいけれど、グレイシアの手よりも一回り以上大きい。あったかくて優しくて、素敵だと思った。
「苦労してきたくせに、いつも平然として、僕の嫌味にだって顔色を変えないで」
「苦労だなんて……そんな……」
沈黙した二人の間を、蝶々が飛んでいく。
地味に傷ついた心のまま、グレイシアは思い切って王子に聞いてみた。
「シャーティ様こそ、私みたいな食パンみたいな女、どう思いますか」
「食パン?」
「元婚約者に言われました。食パンみたいだって」
「あはは。そうか、食パンか」
「それに淑女の手習はどれだけ頑張っても赤点でしたし、腕っ節の強さを隠すことを条件に全部平均点にしてもらった感じで」
「戦える食パン。ぶはは」
彼は突然笑い始めーー王子はグレイシアにとって、意外なことを口にした。
「食パンみたいに白くて柔らかくて優しくて、毎日会っても飽きが来ない綺麗な君にぴったりだ」
「……え……」
「食パンはすぐカビるけど、君は強いからカビも跳ね返すな。いやあ強い」
「……」
「そうか。そういうことか。君は自分が地味で強い女の子なのが、コンプレックスだったのか」
「はい。……実は」
「僕と似たもの同士だな。魔力が強くて、それでいて普通の暮らしができない。でもお互い、気にしてないならそれでいいじゃないか」
王子は言いながら、グレイシアの頬を撫でた。
その優しい掌にーーグレイシアは泣きそうな気持ちになった。
この人が愛しいと。
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