桜の君

 部活の練習中、仲間とぶつかってしまい足を怪我したのは今日の午前中のことだった。あまりにも足が腫れるものだから、監督が慌てて俺を病院に運んだ。あまり痛みを感じなかったが、医者から骨が折れていることを告げられると、なんだかじんわりと痛いような気がした。

 俺はサッカーの推薦で、他県から単身、今の高校に進学してきた。学校近くにアパートを借り、下宿生活をしている。家族はまだ幼い弟がいるため地元に残っている。1年、一人暮らしを経験したが、まだこの生活にはまだ慣れない。朝起きてもご飯は用意されないし、自分で回さないと洗濯物は溜まっていく一方だ。家事は苦手だった。

 そんな時に、この怪我である。俺は家族と相談して、怪我が落ち着くまで入院させてもらうことにした。幸い今は春休みだ。学業に支障は出ない。部活の仲間には迷惑をかけるが、足を怪我していては、練習もクソもないので仕方ないだろう。


 一通り、入院の準備をして病室に案内される。親が気を使ったらしく、なんと豪華に個室だった。

 ベッドからは、中庭の様子が見えた。一面に敷き詰められた芝の中に、1本、大きな桜の木が生えていた。まだ桜の花は咲いていない。蕾が膨らんでいるくらいだろう。俺は柄にもなく桜の花が気になって、中庭に出てみた。


 もう夕暮れ時で、中庭にはもうほとんど人はいなかった。大きな桜の木は、間近で見るとやはり存在感があり、圧倒された。

「でけえな」

 ぽつりと、声が漏れた。

「この木は、病院よりも長くこの場所にいるんだよ」

 どこからか聞こえた声に辺りを見渡すと、木の向こう側から少女がぴょんと、顔を出した。

「お兄さん、ここに来るのは初めて? 足、怪我したんだね。痛そう」

「ああ、部活でちょっとな」

「へえ。あたし、部活とかしたことないから分かんないや。楽しい?」

「まあな。部活のために今の学校通ってるようなもんだし」

「ふーん」

 少女は少し考え込んだ後、クスッと笑いながら木の周りを歩き出した。

「お兄さんしばらくここにいるの?」

「まあ、怪我が落ち着くまでは」

「そうなんだ! あたし、りんっていうの! お兄さん名前は?」

「戸塚」

「戸塚」

「真似すんなよ」

「へへへ。戸塚! 明日も来なよ! りんの話し相手になって欲しいな」

「まあ、いいけど」

「本当! じゃあ午後2時にこの桜の木の下ね! りん、待ってるから!」

 そういうと、りんは病院の建物に向かって走っていった。

「何だったんだ……」

 不思議なやつだと思った。初対面であんなに話しかけてくるなんて。しかもこんな場所でだ。まあ、約束してしまったのだから、明日も、ここに来てやろう。


 次の日、戸塚が桜の木の下に来るとりんはすでにそこにいた。

「戸塚遅いぞー」

「いや、時間通り……」

 りんは自分を見るなり笑顔になった様な気がした。それからは、たわいもない話をした。自分がサッカー部に入っていること。そのために一人暮らしをしていること。練習中に足を怪我してしまったこと。

 りんは、戸塚の話を目を輝かせながら聞いていた。

「へえ。戸塚はサッカーが下手なんだね」

「お前、話聞いてたか? 俺はサッカーが上手いから今の学校に推薦されたんだぞ」

「でも、下手だから怪我したんでしょ?」

「お前、さては煽ってんな?」

「へへへ」

 りんは、わんぱくだと思った。まだまだ子どもらしさの残るくらいだ。こんなに元気なのに、一体何でここにいるのか、戸塚は不思議だったが、簡単に聞くことはできない。人に何の病気か聞くなんてよほど仲がいいか、無神経かのどちらかだろう。

 りんは、戸塚の視線に気がついたのか、ふと真顔になって、話し出した。

「りんはね、この桜が咲く頃にはここにはいられないんだあ」

「え?」

「驚いた? ごめんね、びっくりさせちゃったでしょう」

「まあ、うん。え、うん」

「ふふふ。目が泳いでるよ。大丈夫、死ぬわけじゃないよー。……ここの病院じゃ、りん病気は治せないんだー。だから、違う病院に行くの。明日」

「明日!?」

「いきなりでしょ。びっくりさせようと思って隠し隠しで話したの。だから今日で戸塚に会うのは最後なんだ」

「……そうなんだ。元気でな」

「うん。2日だけだったけど楽しかった! ありがとう」


 次の日、りんがいないと分かっていても戸塚は桜の木の下に行ってみた。木の周りを探しても、少し時間を過ごしてみても、りんの姿はそこになかった。



桜の花が咲き始めた頃、俺は退院した。足に着けていたギプスは取れ、足首にはサポーターが巻かれている。約2週間ぶりに部活に顔を出した。相変わらず土煙が舞うグラウンドにはサッカーボールが転がっている。

りんと話したのはあの1日きりだ。しかし戸塚の中にりんの存在が強く残っていた。


僕の知らないところで、彼女が今日もあのわんぱくな顔で笑っているといい。

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