3
「少年は、大きくなったら何になりたいの?」
点滴も取れてかなり自由に歩き回れるようになった日のお昼ごはんの時間、配膳されたサンドイッチを眺めながら佐々木さんが聞いた。例によって今にも手が伸びてきそうだったので、慌てて一切れを口に放り込んでから考える。
「目指してるのは医者、かなぁ」
「なれるなれる! かしこいもん!」
「僕より頭のいい子供なんてたくさんいるよ」
「そうかなぁ、いい線行ってると思うけど」
無責任に賛同されて、僕は少しばかりムッとする。これでも悩んでるんだよ、医者になるのに必要なのは、学力ばかりじゃないんだから。
「……そういうの、井の中の蛙って言うんだ」
井の中の蛙大海を知らず、と僕は唱えるように続ける。
「あー、それね」
ベッドの端に腰掛けていた佐々木さんが、僕の足を避けつつ身体を伸ばす。どうでもいいけど、入院患者の前でここまでリラックスするのって、看護師としてどうなのかなぁ。
「それさぁ、続きがあるの知ってる?」
「続き?」
「『されど空の青さを知る』ってね」
「空の青さ……」
「そ。君の視点だからこそ、たどり着ける景色もあるってこと」
井戸の中からだからこそたどり着ける、景色。
僕は頭の中で佐々木さんの言葉を繰り返してみる。やっぱり井戸の中は井戸の中でしか無いようにも思えるし、逆に何かすごい事のようにも思える。それがどんな良いものなのか、どんなすごい事なのか、考えてみたけれどあまり良く分からなくて少し困ってしまった。
佐々木さんの言葉をちゃんと理解するには、僕はまだまだ色んなものが足りないのだ。たぶん。
入院してからよく考えるようになったけれど、僕は早く大人になりたい。たくさん本を読んで、たくさん勉強して、たくさんご飯を食べて、それからよく寝て。早く大人になりたい。大人になって、立派な医者になって、僕みたいな病気の子供を勇気づけたり治したりしたいし、お母さんがあまり働かなくても良いようにしてあげたいし、それに。と、僕は佐々木さんの横顔をチラリと見る。
もしかしたら、そう、もしかしたらだけど、医者になれば佐々木さんと同じ病院で働く事が出来るかもしれない。そしたら、たぶんすごく忙しいはずだけど、たまには今みたいにご飯の時間を一緒に過ごしてお話したり、できるのかも知れない。
「少年、ピクルスは食べられる?」
「もちろん」
差し当たっては好き嫌いせずに何でも食べること。
そう思って、実は初めて口にしたピクルスとやらは想像とは違ってて。酸っぱくて微妙な歯応えで、思わず顔を顰めそうになったけれど、バリバリと噛んで飲み込んだ。大人になるには痩せ我慢というのも必要な事なのだ。たぶん。
退院の日、佐々木さんは病室に姿を見せなかった。
とても残念だけど、きっと今日はお休みのシフトなのだろう。
お母さんと一緒にナースステーションに挨拶に寄った時、そこに居た看護師さんに「佐々木さんによろしくお伝えください」と声をかけた。
看護師さんは少し驚いたような顔をしてから、ちょっと屈んで僕と目線を合わせて「すごくしっかりしてるのね。退院しても元気でね」と言って笑った。
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