第12話 幕末

 文久3年7月2日

 磐梯は文久3年に起きたことをノートに取ってあった。

 文久3年2月8日 浪士組が江戸を出発。


 文久3年2月23日 京都に到着。


 文久3年3月12日 会津藩預かりになり、壬生浪士組と名乗る。


 文久3年3月25日 殿内義雄刺殺。


 文久3年6月3日 大坂相撲の力士と乱闘。


 文久3年8月13日 大和屋焼き討ち事件発生。


 文久3年8月18日 八月十八日の政変。御所の警備に出動。


 文久3年9月13日 田中伊織が暗殺される。


 文久3年9月18日 芹沢鴨、平山五郎が内部抗争で粛清され、平間重助脱走(異説あり)。


 文久3年9月25日 隊名を新選組と改める。


 文久3年9月26日 御倉伊勢武、荒木田左馬之助、楠小十郎が長州藩の間者として粛清される。


 文久3年10月 岩城升屋事件。大坂の呉服商、岩城升屋に押し入った不逞浪士を撃退。


 文久3年12月27日 野口健司切腹。


 磐梯は6月末に浪士組にスカウトされた。

 磐梯のリボルバーの残弾は残り5発、予備の弾丸は持ってこなかった。

 既に粛清されているはずの殿内義雄が生きている。

 天保元年(1830年)、上総国武射郡森村(現在の千葉県山武市)に土屋忠右衛門の子として生まれた。土屋家は森村の名主を務める家柄。


 江戸の昌平坂学問所で学問を究め、屈強剛権な体格で、剣術に優れていたという。その後、下総国結城藩士となった。


 文久3年(1863年)、清河八郎発案の浪士組に参加し、役職(目付役)を与えられるが何らかの落ち度で降格。京(現在の京都市)に上りいざこれからという時に、清河は浪士組を率いて江戸へと帰って攘夷を行おうとした。多くの者がこれに賛同し、清河に付き従ったが、殿内は鵜殿鳩翁から、家里次郎と共に浪士組内の壬生村での残留者の取りまとめを任される(殿内と家里は、募集する側の責任者だったので、名簿に記載されていない)。壬生には芹沢鴨・新見錦・平山五郎・粕谷新五郎・平間重助・野口健司ら(水戸藩出身者)、近藤勇・山南敬助・土方歳三・永倉新八・原田左之助・沖田総司・井上源三郎・藤堂平助ら(試衛館道場の者)、斎藤一・佐伯又三郎ら(京で参加した者)、根岸友山・清水吾一ら(根岸派)が集まり、壬生浪士組(後の新選組)を結成する。


 最初の壬生浪士の筆頭格だった近藤・芹沢・根岸らは既にそれぞれ派閥を形成していたが、殿内と家里は江戸幕府の信用で筆頭格になったので派閥らしいものはなく、旧知の根岸らと近かったとされている。


 殿内は近藤に憎まれていたとされ、自前の派閥を形成するために旅に出ようとする際、近藤らにしこたま酒を飲まされ、京都四条大橋にて闇討ちに遭い死去した(文久3年5月近藤書簡、近藤勇と沖田総司に襲われ、沖田に殺害されたという)。殿内は、旅姿で刀は袋にしまった状態であったという。これが壬生浪士組最初の粛清とされる。享年34。


 近藤との確執の原因は諸説あり、殿内自身の人間性に問題があったとする説、近藤の野心の犠牲者になった説、芹沢派による粛清説などがある。殿内斬殺事件は、橋の上に倒れた殿内の姿を描いた絵として描かれている。

 

 八坂神社で磐梯はゴロツキたちに囲まれた。輩は匕首や短刀を手にしていた。磐梯はリボルバーでゴロツキの1人を撃った。銃声を聞きつけた殿内と家里に残りの奴らは斬り殺された。

 近田の野郎、俺を置いて1人でどこかに行っちまいやがった。きっと、今頃新見と俺を馬鹿にしてるに違いない。磐梯はクシャミが止まらなかった。

 2020年、京都府警の刑事部屋で杉山が「新見課長、磐梯さんってメチャクチャ足が臭いんですよ」なんて言ってるなんて磐梯は知る由もない。

 

 磐梯は、近藤達を殺すように殿内に頼まれた。

 殿内がいなかったら今頃、三途の川を渡っていたかも分からない。

 水戸グループも近藤たちのことは蛇蝎の如く嫌っていた。

 密談をするために角屋って料亭を用いた。

 天正17年(1589年)、豊臣秀吉によって柳馬場二条に傾城町「柳町」が開かれ、初代徳右衛門が角屋の営業を始める。慶長7年(1602年)、柳町は突然の移転を強いられ、角屋も六条三筋町へ移転を余儀なくされた。


 さらに寛永18年(1641年)、再度柳町は移転となり、角屋は二代目徳右衛門によって現在地の島原へ移された。なお、六条三筋町の所在地(新町五条下ル)は現在も角屋が所有している。


 明治5年(1872年)まで営業した後、お茶屋に編入された。昭和60年(1985年)まで「松の間」を宴会に使用。


 昭和27年(1952年)、島原が開かれて以来現存する唯一の揚屋の遺構として国の重要文化財に指定された(ただし「松の間」のみは大正末期の火災後の再建で、重要文化財には指定されず、2012年に登録有形文化財に登録)。


 江戸時代中期には島原でも俳諧が盛んになり当時の角屋当主(七代目、俳名徳屋)は与謝蕪村を師として招いている。その蕪村がここに残した「紅白梅図」は国の重要文化財として当美術館に展示されている。 他、天明年間前後に制作された円山応挙、石田幽汀などの襖絵も残っている。


 幕末には久坂玄瑞、西郷隆盛などの勤王の志士が密議を交わしたり、豪商からの資金調達のために接待に使用されていた。


 また、新選組もここでの遊興を楽しんだ。特に芹沢鴨との関わり合いは深く、文久3年(1863年)6月ここで暴挙をはたらき、その際に出来た刀傷が今でも残っている。また、芹沢が殺害される直前にここで酒宴を開いている。角屋の前には「長州藩士久坂玄瑞の密議の角屋」、「新撰組刀傷の角屋」の石碑が建てられている。 


 庭内には名物の「臥龍松」という枝の長い松が生えていたが枯れてしまい、現在の松は2代目にあたる。


 現役時代を通して「揚屋」「お茶屋」であったため、太夫や芸妓を抱えていたことはない。しかし、現在角屋春秋会(角屋保存を支援する人々の会)会員向けの「角屋鑑賞会」(年2回)の開催時のみ江戸時代後期の太夫の衣装を着けた(現代の太夫の姿とは若干異なる)「八千代太夫」と呼ばれる女性がお茶のお点前や舞を披露している。

 

 芹沢はしこたま酒を飲んでいるが顔が赤くなっていない。余程強いんだろう。

「土方の野郎、俺よりわけぇのに態度がデカい」

 芹沢は三味線の音色に聴き惚れながら言った。

 

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terrible〜酷〜 10万 鷹山トシキ @1982

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