第5話 文久3年6月
文久3年6月21日
田中新兵衛はまだ
公知は、江戸時代後期の公家。姉小路公前の子。官位は正四位下・右近衛権少将。朔平門外の変で暗殺された。維新後に生前の功により正二位を追贈された。
天保10年12月25日(1840年1月9日)、公卿・姉小路公前の子として誕生。安政5年(1858年)、日米修好通商条約に反対し、廷臣八十八卿の指導者として活動した。文久2年(1862年)9月、右近衛権少将となり、幕府への攘夷督促の副使として、正使三条実美と共に江戸に向かい、勝海舟と共に江戸湾岸の視察などを行う。
のちに国事参政となり、三条と共に攘夷派の先鋒となったが、文久3年(1863年)5月20日の夜半、深夜朝議からの帰途、京都朔平門外の猿ヶ辻で3人の刺客に襲われる。扇を振い、刀を奪うなどして奮戦して撃退するも、頭と胸に重傷を負い、帰邸後の翌日21日未明、自邸にて卒去(朔平門外の変)。享年25(満23歳没)。墓所は京都市上京区の清浄華院。
文久3年の主な出来事っていやぁ、8月18日に起きたクーデターが起きた年だ。
1863年(文久3)8月18日,孝明天皇と中川宮(朝彦親王)が画策し,薩摩・会津両藩が加わって,京都から尊王攘夷派の中心であった長州藩と,それと結ぶ急進派公卿とを追放した事件。 62年から京都を制圧し朝意を左右していた尊攘派は,63年8月13日,天皇に強要して攘夷親征のための大和行幸の勅を出させた。
あ〜!早く違う時代に行きたい。出来ることならバブルに行きたい。幕末は人が人を殺すなんて当たり前の時代だ、磐梯のリボルバーの残弾は残り5発、予備の弾丸は持ってこなかった。
旅籠、三条木屋町にある池田屋に泊まることにした。池田屋事件が起きるのは来年だ。
幕末の京都は政局の中心地として、尊王攘夷(尊攘)・勤王などの各種政治思想を持つ諸藩の浪士が潜伏し、活動していた。会津藩と薩摩藩による「八月十八日の政変」で長州藩が失脚し、朝廷では公武合体派が主流となっていた。尊攘派が勢力挽回を目論んでいたため、京都守護職は新選組を用いて、京都市内の警備や捜索を行わせた。
5月下旬ごろ、新選組諸士調役兼監察の山崎丞・島田魁らが、四条小橋上ル真町で炭薪商を経営する枡屋喜右衛門(古高俊太郎)の存在を突き止め、会津藩に報告。捜索によって、武器や長州藩との書簡などが発見された。元治元年(1864年) 6月5日早朝、古高を逮捕した新選組は、土方歳三の拷問により古高を自白させた。自白内容は、「祇園祭の前の風の強い日を狙って御所に火を放ち、その混乱に乗じて中川宮朝彦親王を幽閉、一橋慶喜・松平容保らを暗殺し、孝明天皇を長州へ動座させる(連れ去る)」というものであった。しかし、自白したのは自分の本名が古高俊太郎であることのみ、という説もあり、古高について述べられた日誌には自白内容の記述がされていないことから自白は本名のみであった可能性も高い。
これにより、尊攘派の浪士らが時をおかず会合を行うとみた新選組は、会津藩に報告のうえ徹底した市中探索を提案。5日夕刻、会津藩の援軍を待たず単独で三条〜四条方面の捜索を開始した。
亥の刻(22時ごろ)すぎ、近藤隊は池田屋で謀議中の尊攘派志士を発見した。近藤隊は数名で突入し、真夜中の戦闘となった。20数名の尊攘派に対し当初踏み込んだのは近藤勇・沖田総司・永倉新八・藤堂平助の4名で、残りは屋外を固めた。屋内に踏み込んだ沖田は奮戦したが、戦闘中に病に倒れ戦線から離脱した。また1階の藤堂は油断して鉢金を取ったところで額を斬られ、血液が目に入り戦線離脱した。
襲撃を受けた宮部鼎蔵ら志士たちは応戦しつつ、現場からの脱出を図った。裏口を守っていた安藤早太郎・奥沢栄助・新田革左衛門達のところに土佐藩脱藩・望月亀弥太ら浪士が脱出しようと必死で斬りこみ逃亡。これにより奥沢は死亡し、安藤・新田も1か月後に死亡した。望月は負傷しつつも長州藩邸付近まで逃げ延びたが、追っ手に追いつかれ自刃した。同じく戦闘の末に脱出に成功した土佐藩・野老山吾吉郎の調書が、2009年に高知県が購入した土佐京都藩邸資料(高知県立坂本龍馬記念館蔵)から見つかり、事件前後の様子が明らかとなった。太刀や袴を失い、同僚の石川潤次郎が現場で闘死していたことにも気づいていなかったことから戦闘の激しさが偲ばれる。
新選組側は一時は近藤・永倉の2人となるが、土方隊の到着により戦局は新選組に有利に傾き、方針を「斬り捨て」から「捕縛」に変更。9名討ち取り4名捕縛の戦果を上げた。会津・桑名藩の応援は戦闘後に到着した。土方は手柄を横取りされないように、一歩たりとも近づけさせなかったという。
この戦闘で数名の尊攘派は逃走したが、続く翌朝の市中掃討で会津・桑名藩らと連携し、20名あまりを捕縛した。この市中掃討も激戦となり、会津藩は5名、彦根藩は4名、桑名藩は2名の即死者を出した。
その後新選組は、夜のうちに帰ると闇討ちの恐れがあるために夜が明けるまで待機し、翌日の正午、壬生村の屯所に帰還した。沿道は野次馬であふれていたという。
桂小五郎(のちの木戸孝允)は、会合への到着が早すぎたため、一旦池田屋を出て対馬藩邸で大島友之允と談話しており難を逃れた。
相部屋になった中年の旅の者は全国各地を歩いてるらしい。
「
追分宿は、中山道六十九次のうち江戸から数えて二十番目の宿場。
現在の長野県北佐久郡軽井沢町追分にあたる。北国街道(北陸道)との分岐点でもあり「追分」の名はこれに由来する。元禄時代には旅籠屋71軒、茶屋18軒、商店28軒を数え、飯盛女も最盛期には200~270人もいたとされるほど栄えた。また、民謡に多く見られる追分節の発祥の地である。旧脇本陣の油屋は、堀辰雄や立原道造、室生犀星らに愛され、堀辰雄の小説『菜穂子』、『ふるさとびと』に登場する牡丹屋という旅館はこの油屋がモデルである。
姉小路公知が死ななかったこともあり、令和に突如、姉小路プルートって怪物が現れた。🌪
竜巻が現れ、その竜巻に乗ってプルートは異世界からやって来た。
「たった今からこの私がこの国のボスだ!」
プルートは火炎魔法や雷撃魔法を駆使して国会議事堂を占拠した。
廃墟で見つかった死体は顔を焼かれていた。
犯人がバーナーか何かを使って判別不能にしたのだろう。
「もしかしたら、一条杏花かも」と、近田。
「その可能性は捨てきれませんね」
杉山は眠そうな顔をしながら言った。
「先輩を監禁した犯人による仕業ですかね?」
そう言った月島の腹が鳴った。
近田は腕時計を見た。もうとっくに正午を過ぎていた。
「多分な……」
「磐梯さん、無事だといいな?」
杉山が月島に言った。
死体が研究所に搬送され、近田たちも府警に戻ることになった。
伏見警察署刑事課の刑事部屋で
仙道は江戸川のことをどことなく江口洋介っぽいと思っていた。
仙道は江戸川からよく、及川光博に似てるって言われてる。
「あっ、そうそう11月17日って将棋の日なんですよ」
「仙道はいろんなことに詳しいな?キムタクと神田うのが親戚だなんて知らなかった」
刑事部屋のドアがノックされた。
「はい〜?」と、江戸川が間延びした声を出してドアを開けた。
庶務課の
「江戸川ちゃん、お客様が来てるわよ。コロナなんだから換気しなくちゃダメよ」
「根来さんって唐沢寿明に似てるよな?」と、仙道。
「よく言われるわ〜、コイツが悪いんです」
根来は昔、唐沢が出てたCMの真似をした。
何のCMだったっけか?仙道は気になって仕方なかった。
客はケバい中年女性だった。
「メロンを探して〜!」
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