山奥の温泉


ツーリングが趣味で、各地を旅行していると

その場所に行かないと知ることがなかったであろう秘境にたどり着くことがある。


桜が散り始めた4月。

山道を上り途中の喫茶店に入ると

そこにいた地元の老夫婦から

この先に地元民がよく使う温泉があると

聞かされた。


案内された道を行くと、

山の中に見た目は公民館のような

こじんまりとした建物がぽつんとあった。



中に入ると誰もおらず“入泉賃500円”とだけ書かれた紙が貼られた木箱だけが置かれている。



小銭をいれて“ゆ”と一文字白抜きされた暖簾をめくると、ガラス戸があり、

“あいてます”

と書かれた木札がぶら下がっていた。

裏面には

“おります”

と書いてある。



男女は分かれておらず、この札を使って客同士がかち合わないようにしているらしかった。


脱衣所で服を脱ぎ、がたつく引き戸を開ける。


たちあがった湯気によって一瞬視界がくもる。

外気と混じり白さが薄れていったところで、ぎょっとした。


大人3人入れるかぐらいの桐の湯船に、えびす顔の老人が浸かっている。


札には空いてると書いてあったはずではと

困惑していると、その人は湯から右手を出して

ゆっくり手招きした。



入っても良いということだろうか、

促されるまま隣に座る。



老人はにこにこと笑っている。


気味悪さを感じたが

地元の常連なのかとしれないと黙っていると

それは口を開いた。



「ここでな。

人間を眺めるのが好きなんだあ。」


え、と老人の方を向く間もなく

そいつは両肩を掴んできたかと思うと

ぐーっと湯の中へ沈めようとしてきた。



「やめろ!離せ!」


絶叫して腕を振り払い

ろくに体を拭かずに服を着て

脱衣所を飛び出し、

ガラス戸を閉めて押さえつけた。



肩で息をしながら震える手で戸を押さえているが、中からは物音ひとつしない。



恐る恐る開けると床が水浸しになった脱衣所があるのみ。

意を決して浴場の引き戸を開く。


が、そこには誰もいなかった。



「綺麗につかってくれないと困るんですよね。」


唖然としていると後ろから声をかけられ驚いて振り向いた。


そこには清掃員らしく、頭にほっかむりを被った中年女性が立っていて、怪訝な顔をしながら浴場に入り

「ったく。よそもんが来るといつもこうだよ。」とぶつぶつ文句を言いながらブラシをかけ始めた。


声が出せず、

だって変な奴がいて、と説明することも

謝ることも出来ないまま

後ずさりしてその場を立ち去る。



のれんをくぐる瞬間に、ふと後ろが気になって

振り返った。



ガラス戸には木札がぶら下がっている。

そこには“空室”と書かれていた。



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