第4話 黒い小水と黒い咳
翌日からライゼルはのぼせあがった頭を冷やすためだと称して外で読書に耽っていた。
《ナコト写本》の内容がライゼルの頭の中を駆け巡る。
すべて頭の中に入っていると語っていたナファド・エルレインもなにか重大な事実を見落としているのかも知れない。
《ナコト写本》は未完成の書物だった。
預言と襲撃周期とが書かれ、其処に戦闘記録が事細かに書き加えられていた。
可能な限り正確な座標と正確な時刻。
おそらくは剣皇騎士団たちは今起こっている戦闘すら分単位の正確さで書き加えているのだろう。
取り敢えず今現在の状況に最も酷似した「キエーフ防衛戦」が一番参考になる筈だ。
気象兵器の乱用により最終的にキエーフは壊滅してしまったが、遺構から写本は回収されていた。
そして共倒れしたとはいえ、唯一龍虫を撥ね除けている戦いだった。
読み進めるうちに頁の端に小さく「黒い咳?」「黒い小水?」と殴り書きされていた。
なんのことだ?
医療関係の情報だ。
医師たちが一番把握しているだろう。
ライゼルは人々の中に昨日の青年を探したら、なんのことはない自分のすぐ近くでやはり寒さに震えていた。
ライゼルはすかさず身を寄せた。
「キミ、いいかい?」
「なんでしょうか、ライゼルさま」
「キミじゃ不便だ。名前を教えてくれ?」
「はぁ、キース・フォレストです」
青年はもじもじしながらも名乗る。
「じゃあ、キース。このキャンプに病院はあるかい?案内してくれないか」
「どこかお身体を痛めましたか?すぐにも医師を呼びますが?」
「いや、そうじゃないんだ。確認したいことがあって、あっキミでもいい黒い咳と黒い小水というのに心当たりはないか?」
キースは何故そんなことをと思いつつも心当たりがあることに気づいた。
「黒い咳の方はまったく、でも黒い小水の方だったら」
先ほど子供が用を足したあとがそのまま残っていたのでそちらを指さす。
白い雪の中に真っ黒な小便が凍結しかかっていた。
ライゼルは飛びつくように近付くや、膝をついてその黒い小水の氷をまじまじと眺めている。
「すぐに医師を呼んでくれ」
「いや、黒い小水は皆そうなのです。龍虫から逃げる途中で用を足すと尿に黒いモノが混じっているのです。だからといって急に健康を害したりとかは・・・」
「そうじゃないんだ、キース。コレが正にナノ粒子なんだ。人体を害する有毒物質だけれど今は極温下で無毒化しているようだ。医師を早く呼んでくれっ!」
「はいっ」
ただごとではない様子のライゼルに気圧されてキースは慌てて医師を呼びに行った。
その医師は忙しいと一度は断ったもののキースの口からナノ粒子という単語が出たので大慌てですっとんできた。
「貴方が昨日到着されたライゼルさんですか?ナノ粒子ですって」
龍虫の分泌物であるナノ粒子が人体に毒なのはわかっていたが、解剖技術が未熟なせいで物質としてはまだ特定出来ていなかった。
フォートセバーンでも有機物の上に積もる砂がナノ粒子ではないかと思われたが、生物兵器の龍虫が毒性があるものを再取り込みするとは考えにくいと思われていた。
キエーフ防衛戦は800年近く前の出来事だったので黒い小水の現象は確認されても意味は判明していなかったのだ。
当時はまだナノ粒子の持つ意味さえ掴めていなかった。
「ああ、健康体の尿から異物として排出される。つまりこれは健全なことなんだ。そして物質ならば必ず構造がある。顕微鏡で調べればもっと詳しくわかる」
「ああ、奇跡だ。学界で発表したら・・・」
その医師にも功名心はある。
確かに学界で発表したら次の日からは英雄の仲間入りだ。
「センセイ、気を確かに。それより“黒い咳”についてなにかご存じですか?」
冷静さを保つライゼルに我を取り戻した医師は咳払いして自己紹介した。
「失礼しました。ジョセフ・バーンズです。ご存じのようにナノ粒子が原因による喘息、肺病症状は患者の多くにみられますが黒い咳というのは見聞きしたことがありません」
「バーンズ先生、比較的症状の軽い患者さんをお借りしてもいいですか?どうしても確かめたいことがあります」
キースはなにかとてつもない出来事に遭遇したのだと感じた。
確かにライゼルの言う通りに昨日とは違う今日になった。
バーンズにも意味が通じたらしい。
バーンズはライゼル、キースを伴って診療所のテントに戻り、喘息症状の比較的軽い8歳前後の男の子を外に連れ出した。
さすがに診療所のテントの中は石炭ストーブによる暖房で温められていた。
気温計が15度を示している。
「よしっ、いいかい坊や。おじさんがやる通りに真似してゆっくりと深呼吸してくれないかな?」
ライゼルは両手を左右に広げてゆっくりと深呼吸する。
男の子も真似して深呼吸した。
「キース、時計があるなら大体の時間でいいから計測してくれ」
「わかりました。10秒経過・・・20秒経過・・・」
おおむね30秒経たないうちに男の子が急に咳き込みだした。
「いいぞ、坊や。苦しかったら全部吐き出すんだ」
咳き込みだした男の子はやがて少量の血と共に黒い物質を吐き出した。
「コレだっ!コレが黒い咳の正体だっ!」
氷点下3度の冷たい空気を深呼吸で一気に吸い込むことで冷やされた肺が収縮する。
その後、咳き込むことで肺が膨張する。
そのときに咳の中に混じって肺の中の異物が排出される。
男の子はしばらくコホコホとやりながら口の中に入った異物の残りカスをペッ、ぺと吐き出した。
そして、不思議そうな顔をした。
「バーンズせんせい、なんでだろう?おじさんの言うとおりにしたらいきがくるしくなくなったよ」
バーンズとライゼルは視線をあわせてガッチリと握手した。
予想通りだ。
バーンズは大慌てで看護婦たちを集めた。
「外に出られる方は外に出て深呼吸をしてください。看護婦達は皆を支えてあげて」
最初はなんでそんなことをと渋っていたが、ライゼルの到着を知っていた何人かが試してみた。
そして、あの男の子とほとんど同じ時間と同じ反応そして結果として黒い咳を吐き出した。
「ウソでしょ、呼吸がすごく楽になった」
「ホントだ。すごく軽いし咳っぽくなくなった」
たちまちに我も我もとなった。
ライゼルはその光景に笑みを浮かべた。
そして、キースに向き直った。
「黒い咳を採取しろっ!」
バーンズもすぐに理解する。
貴重な検体だ。
「此処には顕微鏡はないが軍の野戦病院にはある筈だっ、看護婦達も手袋をしてシャーレに黒い咳を採取するんだっ。集まったら野戦病院に持っていくぞっ!」
たちまちにして難民キャンプ内が騒ぎになった。
キャンプの出入り口を固めていたゼダ国軍の歩哨たちが何事かと様子を見に来る。
一方、バーンズとライゼル、キースの三人は輸血用カバンに検体を詰め込めるだけ詰め込みいそいそと入り口に歩いてくる。
「たいへんだ、大変な発見だ。すぐに野戦病院に案内して欲しい」
「バーンズ先生、どういうことですか?」
「キミたちも言う通りに試して欲しい。そうすればどういうことかすぐに分かる」
歩哨たちは怪訝顔で言われたとおりにした。
黒い咳は出るには出た。
だが、量が少ない。
それでも兵士たちは不思議そうなかおをしている。
「あれっ、さっきまで咳っぽかったのに」
「なんか楽になった」
兵士達の反応でバーンズとライゼルは視線を合わせる。
「内気温と外気温の差だ」
「肺の収縮膨張の運動で人体から剥がれ落ちるということか・・・」
詳しい実験はとにかく設備の整った場所で行うべきだ。
だが、今は一刻も早くこのことを皆に伝える必要があるし、ナノ粒子を調べるべきだった。
「キミたちは任務が終わってテントに戻ってしばらく暖をとってからまたやってみなさい。多分、さっきよりも黒っぽい咳が出る」
「いままで有効な治療法なんて何一つなかったのに特効薬もなしにこんなことが出来るなんて・・・」
改めて小脇に抱えていたナコト写本に視線をやったライゼルはこのとんでもない本の真価を思い知った。
軍営地内に通された三人は野戦病院のテントに入った。
龍虫の活動が鈍っているせいか野戦病院内では時折咳の音が響くだけだった。
「バーンズ先生、いきなりいったいどうしたというのです?」
「内科医の先生はおられるか、とんでもないものを発見した」
バーンズは医師たちの診療机に輸血用カバンを置き、カバン内のシャーレの山からひとつ取り出す。
「ナノ粒子だ。もっと詳細に患者と検体とを確認すべきだが、まずは物質を顕微鏡で確認してみないと」
ナノ粒子という単語にバーンズ医師たちの突然の闖入を見ていた医師たちが一斉に席を立つ。
それで居眠りしていた医師も起きてしまい何事かとキョロキョロしている。
「ウソでしょ?」
「見せてくれ」
「どうやって取り出したんだ?」
医師達はかつての医学生のように興奮気味になっている。
それだけのシロモノだ。
箱に仕舞っていた顕微鏡を取り出すと一人の医師が駆け寄り、黒い咳の分泌物を調べる。
「コレがナノ粒子だって・・・?」
顕微鏡を持ってきた医師はひとしきり眺めるとバーンズに場所を譲った。
ライゼルは一歩さがった位置で医師達の様子を見る。
こうなるのも無理はない。
門外漢の自分ですら信じられなかった。
「あっ」と声を上げたライゼルは医師たちに声をかけた。
「取り出し方は説明しますので、一人一つずつシャーレを手に、そして日時と現在の時刻、テント内の気温を測ってご自分の名前を書いてください」
ライゼルの様子にひとしきりナノ粒子を確認したバーンズも大きく頷く。
これで被検体と分泌物の情報が正確に記録出来る。
例によって外に出ての深呼吸の後で咳き込み、自身が吐き出した血液唾液や咳の中から黒い物質が出てくるのを確認した医師たちはなにより自分自身が驚いている。
これは困ったことかも知れないとライゼルは一人考えた。
治療にあたっている医師たちもナノ粒子に深刻なまでに汚染されている。
だが、さしあたって対処方法は出来た。
問題はパルムなどの大都市部でどう応用出来るか?
情報統制下でこの貴重な情報を外に伝える手段がないということだった。
野戦病院内があまりにも騒がしくなったため、寝ていた患者たちが起きてしまった。
だが、それこそがかえって好都合だった。
外科的な治療を受けている者たちも同様に汚染されている。
冷たい外気に耐えられない重篤患者以外で方法を試しては慎重に検体を採取する。
方法を試し、反応をみる。
やはりつい昨日到着したばかりのライゼル以外は誰もが似たようなものだった。
一人の医師が思いがけないことを言い放った。
「今までナノ粒子はナノ・マシンの死骸だとされてきた。だが、そうではないのかも知れない」
「どういうことです?」
「つまり、これが休眠状態。そして龍虫の体内でまた覚醒状態に戻るのでは?」
ライゼルはその言葉に衝撃を受けた。
もし、その仮説通りだとすると人類と龍虫は切り離せない関係にあるのかも知れない。
そのとき、「何事かっ!」という叱責と共にディーンがやってきた。
副団長のミシェル・ファンフリートを伴っている。
「ライゼル伯なにがあったんです?」
「おそらくはナノ粒子だと思われる物質を特定したようだ。そのせいでこの騒ぎになった」
「なんですって?」
ディーンはたまたま空いていた顕微鏡に駆け寄って構造を確かめた。
いや、インテリだが彼は文系だろうから見たところで分かるまいに・・・。
ところが、ディーンはカッと目を見開いたまま、ガックリとうなだれた。
「やはり・・・やはり・・・あの黒い砂の正体は・・・」
うつろな目をしたディーンは騎士のかおでも、学者のかおでもなくなっている。
あまりな様子にミシェルが駆け寄って抱え起こす。
「陛下はこれを以前にご覧になられたことがあったのですか?」
「ああ・・・マギー姐さんの研究室でコレを見せられた・・・」
その一言に一人の医師が俊敏に反応した。
「女皇正騎士マグワイア・デュラン医学博士の研究室ですって?剣皇陛下、それは女皇騎士団は既にこの物質を発見していたということですか!?」
ディーンは興奮する医務官たちを宥めた上で簡単に説明した。
「そうじゃないんだよ、たまたま発見された不審な黒い砂を顕微鏡で調べたらコレとまったく同じだったんだ・・・。それ自体には毒性はまったくないよ。何度調べても毒性は確認出来なかったと聞いた」
「毒性がないのに深刻な健康被害が出る。つまりは免疫反応かっ!」
医学に詳しくないライゼルは免疫反応について全く知識がなかったが、医官の一人が分かり易く説明をしてくれた。
「免疫反応というのは人体の正常な機能です。つまり、なにかの弾みで体内に入ってしまった物質を外に出そうする活動のことです」
「それだと辻褄があうな。尿や痰に混じって排出される」
「ナコト写本の記述ではかつての『キーエフ防衛戦』で黒い咳、黒い小水が確認されたということです。それで医学には疎い私はバーンズ医師に確認し、それらがこのトレドでも確認されていると・・・」
「それは変だ。わたしは写本の内容を把握しているがそんな記述が何処にあるというのだ?」とミシェル・ファンフリートはミロアの司祭でもあるため写本の内容を詳しく知っていた。
ナファドならもっと知っているだろう。
「正式な記述ではないのです。頁の隅にあった走り書き」と言ってライゼルは栞を挟んでいた頁のその部分を指し示した。
ここに小さな文字で黒い咳?黒い小水?と書かれている。
「確かに・・・」と確認したミシェルも認め、真っ青な顔になる。
「大変な見落としかもしれない・・・」と学生学者のディーンもそれを認める。
ミシェルは現在のトレドで一番の頭脳屋だし、ディーンはもともと史学生だが古文書の解読に関しては玄人だ。
一瞬の間があった後にディーンはポツリと呟いた。
「マズい、パルムも危ない・・・」
元は元老院議員であるライゼルも顔面蒼白となった。
既に議会内では出生率の著しい低下と肺病罹患者の著しい増加は常識だ。
あるいは既に敵の手の内の中にいる。
すぐにも前後策を講じる必要があった。
あるいは情報統制をやぶってでもこの情報に関してはパルムのみならず、エウロペア諸国に周知した方が良いかも知れない。
急遽、ディーンとミシェルはイアン提督のバルハラでバスランに向かうことになり、ライゼルも同行することになった。
ディーンの指示でバーンズ医師と野戦病院の医務官医師たちには現状では肺病もしくは喘息症状患者に対し、暖かい部屋から出て外気に触れては深呼吸をし、咳き込んだあとに黒い咳を吐き出すことと、体調不良の者たちには水分をなるべく多く摂らせて排尿を促す、というのを新たな診療方針として周知していくということになった。
そちらに関しては極めて効果的だし、秘密にする理由が見当たらない。
なにより、薬剤の不足で手の施しようがない重篤患者も多い中で、正に奇跡の朗報だったからだ。
ただし、ナノ粒子特定に関しては箝口令を敷いた。
避難民にしても兵士たちにしても医学を囓っていないとなんのことだか分からないので、対処法さえ広まってくれれば大助かりだった。
常ならば直立不動で艦橋に立つ剣皇ディーンはかつて外殻部隊エルミタージュの一員として極秘作戦に従事していたときのように、騎士待機室にミシェル、ライゼルと共に膝詰めになった。
イアン・フューリー提督には後で纏めて報告する。
「伯爵、私の推薦で幹部会に加わってください」とディーンは切り出した。
「同感です、陛下。元13人委員会理事かつゼダ元老院議員たる貴方の知見は、我々にとって極めて役に立ちます。昨日の今日でこれです」とミシェルも応じる。
「どうぞご随意に。ただし、もう伯爵とは呼ばないでください。職務のために身分を棄てるつもりです」
覚悟の置き処についてはディーンやミシェルたちと相通じた。
「では、なんとお呼びすれば良いのですか?」
「臨時執政官でも主宰でもお好きに、それかただのライゼルでお願いします。ヴァンフォートと呼ぶのもご遠慮ください。私にとっては忌々しい名だ」と言ってライゼルは小さく笑った。
「なんだか言うことがいちいちスレイと一緒で少し笑ってしまいます。アイツもスレイ・シェリフィス中尉とは呼ばせなくなり、アリアス・レンセン中尉と呼んでくれと。メリエルだけはいまでもときどきスレイと呼んでいますがアイツはメリエルなら良いと。今はバスランで防衛隊を指揮しつつ、大規模作戦準備中です」
ライゼルははたと思い当たった。
「それかっ、道理で昨日の到着時に群衆の中でアリアス様という聞き慣れない名を聞くなぁと・・・しかし、ダリオの遺児がなぁ・・・」
ライゼルの表情が複雑に曇る。
「スレイ・シェリフィスあるいはアリアス・レンセンのことはご存じですか?」
ミシェルの問いかけにライゼルは即答する。
「勿論ですとも。彼本人も、実の父親も、義理の父親も、義理の祖父も知っています」
13人委員会と元老院に名を連ねていたのだ。
ダリオ・レンセン中尉はかつての同志。
ライゼル、ラクロア、ビリーらは大陸横断鉄道建設工事の現場指揮や視察、法的対応に出ていたので、顔を合わせる機会こそ限られていたが、軍人組としてエイブ、ダリオ、カルロスの三人がパルム以東を中心に動いていた。
フェルディナンドに到っては盟友であり数々の改革案を上梓してきた親友。
ライゼルがパルムを去り、一番苦しくなったのは間違いなくヤツだ。
元老院議長だったヴェルナールも同様だ。
「逆にですが、剣皇陛下は彼のことはどの程度ご存じですか?」
真剣な眼差しをしたライゼルの問いかけにディーンは笑顔を見せる。
「大学の同窓生であり、メリエルや妻と共に召還された身です」とディーンは苦笑する。「有り体に言えば親友か悪友です」
「では、大学入学以前の彼はご存じないでしょう?レジスタンスの活動家まがいとして逮捕されかけたことが数度。家出で補導されたこともまたしかり。警察沙汰に関してはフェルディナンドが手を回していましたが、彼はスレイの養育に関しては相当悩んでいたようです。なにより生前のヴェルナール議長との折り合いがひどく悪かったとかで」
「彼にそんな過去が・・・」とミシェルは心底驚いた様子を見せる。
それに対してディーンはニヤっと笑った。
「要するに“革命運動家スレイ・シェリフィス”を警戒しろと?そんなのは出会った頃から分かっていましたし、ルイスがスレイの過去は徹底的に洗っています。それにこの間までパルムに居たライゼル様がよくご存じでしょう。トレドでの虐殺事件、バスランの武装蜂起、皇太子皇女メリエルの登場、ミロアの軍事介入と反乱軍と剣皇ディーンの交戦。そしてメリエルの女皇戴冠。それらすべてはアリアスにボクから頼んででっちあげた話です。アリアスは情報統制の抜け道を使ってデマを広めている。アリアスがパルムに居た頃から革命運動家として活動していたように、ボクも既に偽典編纂にかかっている。つまり、辻褄を合わせるための情報操作を既にしているということです」
「なんだと」とライゼルは目を剝き、ミシェルも愕然とした。
「一体どうやって?」
「戦線とその東とを繋ぐメリエルですよ。アイツは東に向かうたびにアリアスが人脈として持つレジスタンス幹部にせっせと手紙を運んでいる。そして、アイツのレジスタンス人脈はマスメディアと繋がっていますからね。特記第6号には引っ掛からないデマゴークの流布であり、剣皇たるボクが認可しています。本当は此処でなにが起きているか知っているトゥールやアリョーネ陛下、フェルディナンド・シェリフィス議員といった人たちにはそれで大まかな流れやらこちらでの動きとデマの持つ意味が伝わります」
ディーン、アリアス、メリエルの策士ぶりにミシェルとライゼルは呆れた。
三人とも多忙にしてそれぞれ忙しくしながら他の幹部にも悟られずに情報戦を仕掛けていたのだ。
「そういうことか。此処で戦争が起きているけれど伝わる内容は全て出鱈目。けれども最終的には辻褄が合うようにする。確かにベリア壊滅の話は公には出来ないが、西ゼダの状況はデマの内容を正しく読み解きさえすれば、相当に深刻な状態に陥っているのだと伝わるし、情報遮断されているのも“反乱軍”と“正規軍”陣営のいずれかの情報遮断だとなる」
ライゼルは自分まですっかりそのデマに惑わされていたのだと気づいた。
荒唐無稽なデマなどデマだとはじめから気づいていたので、逆にデマに隠された事実に気づけず、つい確実な情報を求めてしまった。
だからまんまと引っ掛かったのだ。
ライゼルが引っ掛かるくらいだから、それなりに頭脳に自負のあるほとんどのヤツらがまんまと引っ掛かる。
それで西部についてのトゥドゥールの冷静な態度もデマだと分かっていて「トレドの虐殺」・・・つまり龍虫戦争の最前線はトレド要塞になっているのだと、パルムに居ながら知っていたのだ。
「それでは陛下はこの先も続けていくおつもりなのですね?」
ミシェル・ファンフリートはなるほど有効な方法だと考えた。
何も聞こえてこないより、もっともらしいデマが広まった方が詮索されにくくなる。
そしてデマに真実が混ぜ込んである。
メリエルが皇太子皇女から戴冠したというのも、スターム少佐から改称したディーン・フェイルズ・スタームが剣皇だというのもミロア剣皇騎士団が西ゼダに展開中だというのも事実だ。
ただし、ゼダ西部方面軍とは一緒になって戦っていて、内戦ではない。
「今ここで明かしたからにはお二人にも付き合って頂きますよ。極めて正確な情報が向こうに漏れているなら、鉄道路線で運ばれてきたあちらの新聞の報道でそれと分かる。けれど、こちらで用意したデマが広まっているうちは重要情報は漏れていないし、戦死者や犠牲者については“ゼダ内戦”のそれと見做される。さすがの母さんにも思いつかなかったボクらの仕掛けた情報戦ですからね」
ディーンの指摘にライゼルとミシェルも頷いた。
「それではミロアに関しても?」とミシェルは問い質す。
「ええ、ミロア法皇庁からの公式発表だとなればパルムの記者たちが幾ら追求したところで“法皇庁の公式発表だ”と押し切れる。つまりどんな内容だろうとそれを記事にして流布せざるを得ない。逆にしなかったなら、アリョーネ陛下の切り札であるナダル・ラシールたちパルムに展開する隠密機動たちの出番です。ボクらの情報戦にカウンターしようとしている連中こそ本当に怪しいから即刻排除しろとなる」
オールラウンダーとしてのディーンの真骨頂は諜報戦情報戦でも優位を得て、戦略家のアリアスと自由に動けるメリエルをも上手く使いこなすということだった。
そして戦線の実態について少なからず情報を得ている者こそ「敵」と相通じた「敵」だった。
一方で、パルムにおいて戦線の正確な情報を握っているのは軍資金出資者であり、西への部隊派遣を命令出来る女皇アリョーネと前法皇で枢機卿のワルトマ・ドライデンだけになる。
だから、法皇ナファド・エルレインはトリエルとアリョーネの情報ルートまでは統制出来なかったのだ。
こちらに関してもメリエルとその護衛のマリアンとがせっせとアリョーネに情報を持ち込んでいる。
ディーンたちが西に来てから情報戦諜報戦も意味が変わり、気づけばこちら側で操作出来る形になっていた。
ライゼルとミシェルはふうと大きく息を吐いて聡明な若者たちの頼もしさを再確認した。
「いずれにせよ、傭兵騎士団エルミタージュのアリアス・レンセン中尉相当官は頼みの綱です。作戦立案能力に関してはイアン提督と双璧を成す《百識》ベックスの愛弟子だとかで、私などは何度もハッとさせられるような鋭い切り口の作戦を立てるとても優秀な指揮官。レウニッツ・セダン大佐やアルバート・ベルレーヌ大佐もその手腕を認めています」とミシェルは苦笑した。
かくいう《鉄舟》ミシェルこそ、『剣皇ディーン』の片腕かつ人類絶対防衛圏の主参謀だからだ。
だが、そうなることが開戦前から判明していたので、研究分析されすぎていて裏をかかれることが多かった。
エルミタージュと聞いてライゼルはトゥドゥールの言葉を伝えた。
「少し前にカロリファル公から愚痴話を窺いました。フェリオの雇ったエルミタージュには東方遠征中に相当やられていて、なんとか彼等だけでも封じ込めたいが厄介この上ないと」
ディーンはこれにも冷静に応じた。
「それも骨抜きにはしてあります。《ナイトイーター》はこっちで引き抜きましたし、《蘭丸》とセリーナとがいまだ暴れている。エルミタージュセルについても大分判明しました。最終的にベックス爺さんたちも手を引けば遊撃作戦行動面での彼等は行き詰まる」
「となると、いよいよ本命となる敵が出てくるだろうとお考えなのですね?」とミシェルが尋ねディーンは深く頷く。
「トゥールの懸念は的中するでしょう。つまり、ゼダ東部方面軍ロムドス隊こそ『敵』の一角です。女皇騎士団調査室と外殻部隊エルミタージュで裏取りしてきましたが、やはり『敵』に回るでしょうね。その上で、ロムドス・エリオネア中将が何故裏切ったかについてもトリエル副司令が真相の一端に辿り着いている。あとはつついてみるだけですね。副総帥と連邦王の停戦協議が成立したら、彼等の化けの皮が剥がれる」
不敵に笑ったディーンはその後のシナリオも既に用意していた。
「謀略があるとは分かっている。ロムドスを動かした要因にも心当たりがある。なるほどな。それを契機としてマイオドールたちとメディーナたちをぶっこ抜く気か」
ロムドス・エリオネア中将たちの謀議を判明させると、彼等にとって邪魔になるのがマイオドール・ウルベイン中佐率いる黒騎士隊とベルゲン・ロイド隊長率い剣聖メディーナのいるフェリオ遊撃騎士団だった。
ドルトンとハノーバーで対峙している両隊が協力してファルマス要塞包囲中のロムドス隊を抑えにかかり、ロムドス隊を内偵しているシモン・ラファール大佐まで呼応すると、ファルマス要塞籠城中の『剣皇カール』も含めてそっくり絶対防衛戦線東部方面部隊となり、逆包囲網の完成となる。
逆包囲網を避けるとしたら特記第6号をチラつかせて盤面から西に追いやることになり、それこそがディーンの狙いだ。
トリエル・シェンバッハ副司令はロムドス隊を更に畳み掛けるための「漆黒部隊作戦」と「白鳥作戦」をも準備していた。
「だってもともとマイオドール・ウルベイン中佐は義母さん師匠の騎士だし《鉄舟》が東に送り込んでいた剣皇騎士ですからね」
「やれやれ、かなわんなぁ」とライゼルは頭を搔いた。
「まったくです」とミシェルも脱帽した。
「それよりです」とディーンは突然切り出した。「やはり、二人にだけは本当のことを打ち明けておいた方がいい」
「陛下、どういうことですか?」
「黒い砂についてですね?」とライゼルは悟った。
「ええ、私はあの砂に母と祖父、兄弟を殺され、父もまた・・・」
「ご冗談を」と言いかけてライゼルはハッと気づいてディーンに向き直った。「アラウネ様とオーギュストにはつい昨日再会したばかり、アルベオ殿もアエリアの学院長として健在。だからこそ聞き捨てならない」
ライゼルにとってその男は知己としては最高の存在だった。
家というものが間に入った際にパトリックが先に立ってしまうが、ライゼルが知の分野にて誰よりも優秀だと認めていたのは数ある同志たちの中でも誰あろうトワント・エクセイル先代公爵だった。
「でしょうね」とディーンは囁く。「父もライゼル伯はあるいはローレンツを超える存在だと常々」
「あなたの言う人々がトワントの妻と父、子、そして彼自身を指すのだとしたら?」
エクセイル家の事情には疎いと思われるライゼルはギルバートの名声には疎い。
その実、疎くなどない。
性格も人物も知りすぎるほどによく知っている。
「ずっと疑念だったのですよ。仮にも女皇家の公爵一族たるエクセイル家やカロリファル家の家人たちがナノ粒子に犯される筈がない」
「なんと・・・、そうかっ、だからトワントも13人委員会に名を連ねていたのか」
ゼダに5番目の公爵家があることはライゼルも噂の範疇では知っていた。
アラウネ率いる13人委員会の発足時に何故学界代表という直接国家と繋がらない人物が席次を持つのかだけを訝しんだ。
だが、それだけだった。
トワントの博識有能ぶりとあのローレンツをも虜にした出来た人格とを識るとライゼルはトワントの存在を少しも異質とは感じなくなった。
ばかりか、委員会内で最大のライバルはトワントかパトリックだとはっきり認めていた。
なによりエルシニエ組の中心は間違いなくトワントだった。
「ライゼルさまはご存じでしたか?貴方の妻、メリッサ・モナースも含めて13人委員会の主要メンバー全員が母とパトリシア侯爵がお膳立てした婚約者を娶った。それは万が一にも欠けることがないようにとの配慮です」とディーンは言い放った。「だからこそ、エドワード伯の放蕩のツケが貴方に及んでも安泰となりそうな、メリッサ・モナースに白羽の矢を立て、いずれ貴方が婚約はするだろうと睨んだ。性格的にもとてもお似合いだと少なくとも母は考えていたのです。勿論、既に相手がいる殿方に別の縁談をもちかけたりはしません」
それも違ったが、まあ別にいい。
大筋では合っていた。
皇分家筋と委員会メンバーの組み合わせでも際だっていたのがパトリック・フェルベールとセシリア・リーナの組み合わせだ。
民間最大銀行ベルシティ銀行の将来の頭取と筆頭株主一族とが一つになる。
良縁ここに極まれりだと当時は感じた。
自分もおこぼれに預かり、父の借金問題があってもメリッサ・モナースはそれで怯むようなヤワな女でなかったからこそ、ライゼルはとことん愛した。
ライゼル自身が本当に憎んでいた古き既得権の象徴こそが「父」だった。
じっさい、「父」はモナース家を成り上がり者として罵倒と妨害の限りを尽くし、ライゼルとメリッサを苦しめた。
「父」亡き今となっては家人の誰もが死んだヤツなんかどうでも良いと考えてさえいる。
気の毒なエドワードの事でさえもだ。
現につい先日、セオドリックもピエールもメリッサもそうした態度でいた。
「モナースもリーナも二代前まで爵位なき皇分家ですよ。だから私は貴方が家族をトレドに招くという事についても反対しなかった。妻にいたってはオードリー・ファルメが実の母親です。その意味はライゼルさまならば当然ご存じでしょう?」
現女皇アリョーネの影武者として皇分家筆頭女系一族当主のオリビア・スレイマン以上に重用されるオードリー・ファルメの存在はライゼルは嫌というほどに知っている。
彼女がエイブ・ラファール国家騎士団少将の正妻なのも、シモン、ルイスの実の母親として“怪物腹”と称されたのも知っている。
「あの腹は剣聖を産むための道具だ」とさえ生前のローレンツは言い切っていた。
アリョーネ皇女の女皇就任以来、ラファール一族の栄達は約束されていた。
《アイラスの悲劇》でさえ、聡明堅実なエイブを失脚させなかった。
シモンが国家騎士団大佐に、ルイスが実母に次ぐ紋章騎士になったことさえもが当然の帰結だと皆、信じているし、だからこそセスタスターム家が見逃す筈がなかった。
誰もが知る剣聖直系筋のラファールこそ、アラウネの息子で剣皇候補序列文句なし1位のディーンの相手に相応しいと。
だからこそ、ライゼルは生理的嫌悪感を感じたが、ディーンの口ぶりでは本人自身がそう望んだのだとしか思えない。
だからこそなのだろうなとライゼルは思った。
トワントがエクセイル公家の跡取りなら、その妻にしたってあのウルザだ。
その実、ローレンツ・カロリファル公爵の実妹。
ややこしい名前がゾロゾロ出るせいで分かりにくいが、女皇家の血が濃い女性を先代女皇メロウィンはトワントにあてがった。
「皇室吟味役本人に」だ。
その方針をアラウネも踏襲した。
それほど重要視しながら、先代ギルバート3世の次にウルザが肺病で逝くなどという違和感は確かにあった。
序列的にトワントの方が先だと宮廷事情通のライゼルは当然おもった。
「口にしなくていい、いや貴方が口にして欲しくない。トワントの妻ウルザこそはローレンツが愚鈍で、世が世ならカロリファル女公爵だった。なのに彼女が肺病に斃れたと知ったとき、わたしはもっとおかしいと思うべきだった」
「ええ、そうですとも。五大公爵家の意味を門閥貴族どもに知らしめるために、メロウィン先皇陛下はわざと自分の片腕の妹という存在を義父トワントに与えた。なのに・・・」
女皇メロウィンの右腕がローレンツであり、左腕がライゼル。
アリョーネへの代替わりに際して右腕がローレンツからトリエルに交替した。
「母が先に逝った不条理にあなたは憤った。アラウネ皇女殿下は勿論、オーギュストもアルベオ卿もこの縁組かつ自分の実子を養子ならば万が一どころか億が一にも間違いが起きるはずがないと、しかし現に間違いが起きたのですね?」
ライゼルの言葉にディーンは畳み掛けた。
「ええ、そうですとも。私が過去にこの拳にて殺めたるはたった一人。なんとその人物とは我が家に8代も仕えた一族の末裔たる料理人の女性でした。当時15歳のわたしはためらいなど全くなく、この拳をもって彼女を誅殺した。その際に彼女の懐からこぼれ落ちたのが、あの黒い砂の入った小瓶です。父は母のようには私を咎めませんでしたが、当時は発症前だった父にだけ真相を打ち明けました。そして虫使い一派が我々の知らない間に懐深く潜り込んでいる事実に戦慄しました。その後、祖父と母とが相次いで亡くなり、父も罹患しました」
「なんということだ・・・」とミシェルは十字を切った。
ディーンの行為は未成年者で相手が使用人だとはいえ立派な傷害致死だ。
その件はトワント・エクセイルが別の形で処理をした。
しかし、そこでライゼルは大きく深呼吸してから、いっそう視線を鋭くして言い放った。
「やめだ。茶番は嫌いだっ!この三人だったら何を知っても、大丈夫だ。セプテム、“我が子ディーン”、俺たちの間で隠し事は一切なしだ」
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