第2話 西の真実

女皇歴1188年8月17日

大陸横断鉄道トレド線車内


「ふぁぁぁぁぁ」

 ライゼル・ヴァンフォート伯爵は車窓を眺めながら大きなアクビをした。

 右手はせわしなく扇子を動かしている。

 従者の少年騎士は隣席にもたれてすっかり熟睡している。

(こんな日差しの強い日によく居眠りが出来るものだ)

 先程から何度となく居眠りしかけながら、その都度強い夏の日差しに阻まれて叩き起こされてきたライゼルは羨ましいと言いたげな視線を彼に向けた。

 パルム中央駅を出発してから丸二日が経過した。

 ゼダ西部の中都市アルマスを“過ぎ”、大陸横断列車はゼダの西の果てトレドを目指して走り続けていた。

 ヒマを持て余したライゼルはおもむろに地図を広げた。

 見慣れた女皇国の形を指でなぞってみる。

 その西の最果ての街トレド。

 そのすぐ隣は隣国メルヒンであり、メルヒンの東の果てにあたるカパーニャがトレドの次の駅となっている。

(それにしても・・・)

 ライゼル・ヴァンフォート伯爵は何度繰り返したか分からない問いかけを繰り返してみた。

(自分は一体どうしてこんな馬鹿げた手紙に心を動かされたのだろう・・・)


 それは彼がパルム中央駅を出発する2日前に遡る。


女皇歴1188年8月15日

パルム ヴァンフォート伯爵邸 


 ヴァンフォート伯爵邸には珍しいことに家族たちが一同に介していた。

 息子たちにせがまれてライゼルはしぶしぶ居心地の良い小汚い私室から庭園に引っ張り出された。

 ようやく乗馬から解放された夫を労うこともなく、彼の愛妻メリッサはパラソルの下で本を片手に紅茶をすすっている。

「“虫干し”はお済みですこと?」

 視線を向けることさえしない妻一流の皮肉にライゼルは口許を歪めた。

「まったくコイツらが誰に似たのか知りたいものだよ」と、先に戻って馬たちの毛繕いをしている愛息たちに視線を向けて苦笑いする。

 どうしたわけかライゼルの息子たちは揃いも揃って運動神経に恵まれていた。

 同輩たちから「子種が違うのでは?」とからかわれたことを思い出していた。

 貴族としては当然のたしなみである“乗馬”に連れ出されたライゼルは息子たちに遅れること20分でようやく妻メリッサの待つ庭園に戻ることが出来た。

 乗馬が冗談の次に苦手な彼にしてはかなりよく頑張った方だ。

 冗談は苦手だがブラックジョークはパルム一と言われている。

 つまり、単に人を馬鹿笑いさせるのは苦手だが、そこに皮肉や揶揄、悲哀を混ぜ込まずにはいられない質だった。

 根が正直で真面目なのだ。

 ちなみに三頭の馬たちは借り物だ。

 それもライゼルが政治顧問となっている女皇家からの借り物なのだから本当に皮肉な話だ。

「俺の夜の生活に満足できなくて、子種をどっかから搾り取ってきたのか?ま、それも俺の不徳の致すところだが」

「あら、今頃お気づき遊ばしたのですか?」

 そんな筈はない。

 セオドリックもピエールも聡明な父によく似ていた。

 余人が聞けばさぞ刺々しく仲の悪い夫婦のように見えるであろうその光景こそが伯爵家の円満な日常風景であった。

 メリッサの毒舌はライゼルにも匹敵する。

 彼が妻メリッサを愛する最大の理由は物事の本質を射貫く、痛烈な皮肉とその毒舌とがたまらなく快いからである。

「お爺様ですよ、父上」

 長男のセオドリックがすかさず合いの手を入れる。

「父上とは違ってお爺様は乗馬が巧みでらっしゃる。手綱捌きには見習うべきものがありましたよ」

(見たこともない癖に)とライザーは皮肉っぽく微笑んだ。

「まぁ、父上は女と馬を乗りこなすことにかけては一流。家運を傾けることには超一流であられたからなぁ」

 ライゼルのブラックジョークにセオドリックとピエールは笑い転げる。

 メリッサも苦笑を堪えきれなかった。

 ヴァンフォート伯爵家はライゼルの父、エドワードの代でその財産のほとんどを浪費してしまった。

 エドワードの女道楽は激しく、ライゼルには異母弟妹がそれこそ山のようにいた。

 慰謝料や養育費として家財が一つまた一つと消えていく様を“一人息子の”ライゼルは苦々しく見ていたものだった。

 パルムの屋敷と伯爵の爵位までも差し押さえられる寸前まで追い詰められたヴァンフォート家はエドワードが周囲の忠告に従って隠居したことでどうにか盛り返した。

 皮肉な話、メロウィン女皇自身からエドワードが隠居するよう暗に命令され、その後メリッサの実家モナース家が経済援助し、ライゼルが倹約と書籍を巡る収入で家政を建て直したことでヴァンフォート伯爵家は少しだけ盛り返した。

 そうしてヴァンフォート伯爵家はメリッサの実家であるモナース家とモナース家の出資先であるベルシティ銀行に大きな借りを作ってしまった。

 そもそもモナース家を斡旋してライゼルの窮地を救ってくれたのが後にベルシティ銀行の総帥となる男で、リーナ一族に婿入りしたパトリック・フェルベールと、そのパトリックを入り婿させたパトリシア・ベルゴール、そして今は亡き摂政皇女殿下である。

 ライゼルの父親は「成り上がり者のモナース一族が」と散々に罵倒したものだったが、不愉快だろうが自慢の息子さえも差し押さえられた事情は正に彼自身の不徳にあった。

 ライゼルは先代女皇メロウィンの寵愛により10代で既に婚約させられていたのだが、ようやく正式な婚姻にこぎつけたのはほんの4年前のことである。

 隠居後も伯爵家の内情に遠慮無く口出しする誰かさんが猛反対したことで、ライゼルとメリッサは事実婚状態から抜け出すことが出来なかったのだ。

 そして、4年前にようやく正式に夫婦となったときには息子たちはそれぞれ10歳と8歳になっていた。

 道楽者の祖父を「お爺様」などと敬称で呼んでいるのはセオドリックたちの痛烈な皮肉である。

 なにしろエドワードが4年前に亡くなるまでライゼルの長男セオドリックは伯爵家の跡取りとしてさえ認知されず、エドワードが数多く抱えていた“庶子”扱いだった。

 なんにせよ文字通りの疫病神が亡くなったことで伯爵家は平穏と安定を取り戻した。

 ただ、彼が残した遺産は家族たちに例外なく宿った毒舌と、ライゼルの奮闘も空しく残った莫大な借金だった。

 メリッサとセオドリックたちが居心地の悪い伯爵邸に週に2度しか居ないのもいまだ残る借金の影響で不便極まりないからだ。

 それでいてライゼル自身が家族と暮らせないのは彼自身が草案に携わった貴族税による。

 すなわち「有爵貴族はその保有する別邸および領地に対し、資産価値に対する年率2%を課税する」というものだ。

 この税の特例措置を受けているのは事実上公国として独立しているヴェローム公爵家だけであるが、実は貴族税とは異なる形で国庫財政を支援している。

 ヴェローム公爵が筆頭理事たるヴェローム銀行の発行株式の半分以上。

 つまり有価証券と配当金とがゼダの国庫財産だった。

 さすがに半独立国一国に対して課税したならば2%とはいえとんでもない金額になり、毎年それを収めろということになれば戦争になりかねない。

 ただ、お目こぼしはそれだけで他は容赦なく取り立てろというのがライゼルの方針だった。

 なによりまず「自分自身も含めて」という所がいかにも彼らしい。

 貴族税は別邸別荘に対してだけなので、居宅に関しては非課税対象となる。

 税法を成立させたライゼル自身が税金対策の為に不便な伯爵邸から離れられないというジレンマに陥っていた。

 もっとも彼としてもモナース家に家族を置いていた方がなにより気が楽だった。

 セオドリックたちが“乗馬”をせがむのも自分たち家族を縛り上げるヴァンフォート家に対する“当てつけ”である。

 運動神経こそ良かったが血の半分は財界一族らしく投機的な素養に恵まれ、頭脳明晰な二人はその父と同様に読書や議論に耽ることを好む。

 それで日頃から運動不足の父への気遣いも踏まえた上で、自分たちも乗馬と剣術に励むのだった。

「あー、まったく頭が痛い」

 ライゼルのボヤキ節は止まらない。

 というのも彼が遠慮無くボヤけるのは愛する妻と息子たちの前だけであるからだった。

「また親父の借用書が出てきたよ」

「まだあったんですか?」

 メリッサは心底驚いた顔をした。

 死後も次々と発見される借用書の山に、夫がいちいち丁寧な対応をしてきたことを彼女はイヤというほど知っている。

 メリッサの実家モナース家もエドワードのお陰で大分傾いてくれた。

 現在は兄のアランが家を継いだが、妹の嫁ぎ先のために財産は一つまた一つと減り、現在は屋敷が2軒とベルシティの株式がそこそこといった程度になっている。

 それでも伯爵邸よりは大分マシだった。

 冗談のような話、あまりにライゼルが気の毒であるため、死後4年経ついまだにエドワードの作った借金を内緒にしている人たちも大勢いたほどだった。

 しかもそうした人物ほど伯爵家の内情に詳しくライゼルに好意的である。

 その一人がパトリック・リーナだったが、パトリックに借金の総額を聞くことは、剛胆で鳴らすライゼルにも恐ろしくて出来なかった。

 それこそ孫であるセオドリックの代までかかっても返済不能な額ではないかと容易に推察された。

 パトリックが決して言わないのを良い事にライゼルは知らん顔を決め込むことにしていた。

 中原史に名を残し、黒衣の貴公子トゥドゥール・カロリファルにとって父の仇にして最も厄介な政敵で《13人委員会》理事かつ皇室政治顧問ライゼル・ヴァンフォート伯爵を最も苦しめたのは他の誰でもなく彼の実の父親だった。

「まぁたまの“虫干し”も悪くないし、こうして家族水入らずに過ごせる日があるだけマシだと思っているけど・・・」とライゼルはいつものボヤキ節を響かせる。「時々、なにもかも放り出して逃げたくなるよ」

「ご冗談を」といってメリッサは苦笑する。「貴方は何人の貴族たちを失脚させてきたかご存じの上でおっしゃっているのですか?貴方が逃げ出したところで彼らの彷徨える生き霊たちは地上の果てまでどこまでも追って行くことですよ。・・・というより、地方に逃げたら逃げた先に、破産させられた彼等が顔を引きつらせて手ぐすね引いて待っていますわ」

 そうだった。

 “殺された貴族たち”のほとんどは爵位を剥奪させられた後、中央たるパルムを追われて地方領主に鞍替えさせられていた。

 そしてそのほとんどが「知事」「市長」「地方議員」として宮仕えで生活費を稼いでいる。

「そうですよ、父上」とセオドリックも加わる。「父上ほどの“貴族嫌い”はいないというのに、他の誰よりも“貴族の義務”と“信用”とを重んじておられる」

 二人の言葉と少し前にこの屋敷を訪れた若造に一喝した事を思い出し、ライゼルは力無く苦笑した。

 誰よりも太く重たい鎖を首に巻き付けて足掻いているのはライゼル自身である。

 家族を愛するが故に死ぬに死ねない身を抱え、貴族たちを次々と破産に追い込みながら、自身もまた破滅の一歩手前で精一杯踏ん張っているのだ。

 いや、もはや意地の張り合いのようなものである。

 カロリファル公爵家の家臣たちなどはたとえ給金を受け取らなくとも「ヴァンフォート家よりも先に潰してなるものか」と言ってせっせと倹約に励んでいると聞く。

 いまだヴァンフォート家を支えている家臣たちはボランティア同然の安い賃金で働いている。

 皮肉にもそれが他へ漏れたせいでライゼルはもっぱら吝嗇家・・・つまりは“ドケチ”だと世間には思われている。

「ドケチでも守銭奴でもいいから、せめて心安らかに家族と暮らしたいものだよ」

「まったくです、父上」とセオドリックが苦笑する。「父上ほどの御方がこんな国に飼い殺されているなんて中原史に残る悲劇でなくてなんだというのでしょう」

 女皇国ゼダをつかまえて“こんな国”呼ばわりするのはおそらく彼らだけであろう。

 宮仕えの給金など安いものだったが、それでも出仕しないよりは大分マシだった。

 賄賂を送る筈の相手は多額の賄賂のかわりに借用書の束を破り捨てる。

 その度にいらぬ借りが出来た。

 ヴァンフォート伯爵がいつ“夜逃げ”するかを賭けにしている宮廷雀たちもいた。

 ライゼルは悔し紛れに“夜逃げだけは絶対にしない”に原稿料をかき集めた持ち合わせを全額賭けており、そのお陰でしばらく一人勝ちを続けている。

「ったく、ただでさえ物不足のところに来て、あの小僧がおっぱじめた戦争と西の不可解な動きのせいで、今やパルムの物価は天井知らずだと来ている。私がいようがいまいがこの国の財政はズタボロで、古着屋さえ見向きもしないほどの継ぎ接ぎだらけだ」

「それです、父上」

 兄と父のやり取りを黙って聞いていたピエールがすかさず疑問を口にする。

「一体全体、“西”はどうなっているのです?」

「知らん」

 短く吐き捨ててライゼルはそっぽを向いた。

「父上ほどの方がなにもご存じないわけがないでしょう?」

「いや・・・」とライゼルは苦り切った顔で純粋な息子ピエールの眼差しを受け止めた。

「本当に“情報がなにも入ってこない”のだ」

「いつからですの?」とメリッサ。

「おおむね今年の頭からだ」

 ライゼルは読み付けている各新聞からトレド市場の相場が載らなくなった日を正確に記憶していた。

 ベルシティ銀行の新年の取引開始日が1月7日だったが、その翌日の朝刊に掲載されたのは、トレド市場の初値相場ではなく“諸事情によりトレド相場の掲載は見送らせて頂きます”の文字だった。

 その日のうちに新聞社に問い合わせたが「わかりません」と断られ、挙げ句に「伯爵こそなにかご存じで、隠しておられるのではないですか?」と腹を探られる始末だった。

 たまりかねたライゼルは7月のはじめに“若造”ことトゥドゥール・カロリファルを邸宅に呼びつけてその腹を探ったが、彼も、彼の背後にいる国家騎士団も西の事情にはとんと疎かった。

 なにか巨大な壁が西にある。

 だが、6月に入ってバスランで反乱軍騒ぎが起き、そちらに気を取られている隙に夏を迎えてしまった。

 政情不安を加速させかねない反乱軍騒ぎに関して、元老院は夏期休会中を理由になんの公式表明もしていない。


(ラクロアからは鉄道公社が断絶したという大陸横断鉄道トレド線を再開したとの報告も入っていないのだが・・・)

 そのトレド線に揺られていることに一抹の不思議を感じつつ、ライゼルは車窓の風景を眺めるともなしに眺めていた。


 夕刻になり妻と息子たちはパルム市内のアパルトメントへと帰って行った。

 誰しもまさかヴァンフォート伯爵の家族たちが揃ってアパルトメント暮らしだとは思うまいにとライゼルは家族を見送るたびに思う。

 皇立幼年学校と中等学校とにそれぞれ通う息子たちはヴァンフォートの名さえ名乗っていない。

 セオドリックは皇立貴族学校に進学するのは嫌だと散々に溢している。

 だから高等部に到るまで端っから行く気がなかったが、ヴァンフォート家が潰れてくれない限り、嫌々でも行かざるを得ない。

「父上と同じくエルシニエ予備門に入りたいですよ」

 それが可能な学力があるから言うのも無理ない。

「俺みたいに二度手間になるからやめとけ、まっ俺は余計な小細工なんかしたせいだがな」

 色々な意味でとてもやりにくいからだろう。

 子供の事を考えて手控えておけば良かったと今更に悔いる。

 もっとも名乗ったら名乗ったで様々な嫌がらせを受けるに違いあるまいと思うのだが、正妻と跡継ぎに肩身の狭い思いをさせている事実には変わりがない。

 モナース家当主である義兄アランの手前、ライゼルはそこに出入りすることさえ憚られた。

 難儀なことこの上ない伯爵家である。

 一人ぽつーんと残される寂寥感に落ち込み、いつものように飲めぬ火酒を煽って寝てしまおうとしていたそのとき、来訪者が訪れた。

 たった今、ライゼルの前の席で寝こけている少年騎士である。

 神殿騎士団に関してその存在ぐらいは知っていたし、現在の副団長であるミシェル・ファンフリートの名前やら顔ぐらいは知っている。

 神殿騎士団に団長が常時不在の事情というのも、“なにやら昔からの伝統”だというぐらいには知っている。

 だが、《13人委員会》の同志であるワルトマ枢機卿から聞き知る以上のことはライゼルも知らない。

 ファーバの紋章の入ったいでたち悪からぬその少年騎士は無言で一通の封書を差し出した。

 蜜蝋は見慣れぬ紋が刻まれている。

 なんだこりゃと目をこらすとそれはつい先頃バスランで大騒動を起こした張本人のものだった。

 ライゼルはなにか悪い予感を感じつつ封を切った。

 勿体つけた外装とは裏腹に中身はたったの一文だった。

『フェイルズ・スタームの名において伯爵家の抱える負債を一切引き受ける。かわりに委員会筆頭理事兼皇室政治顧問としての責を果たされたく、彼の者に同行されよ』

 蜜蝋として押された見慣れぬ紋章は剣皇紋だった。

 そして一文の後に添えられた連署にライゼルは驚きを隠せなかった。

(剣皇ディーン・フェイルズ・スタームまではわかる。だが・・・)

 その下のサインにはよく見覚えがあった。

 忘れようとしても忘れられるものではない。

 だが、この20年間どこでも見掛ける筈がないものだった。

 話に聞くディーン・スタームの素性が本当ならば、その事実は信じがたくとも事実である。

 だが・・・。

(なぜ、今になってアラウネ様に呼び出されることになるのだ?)

 今更意趣返しでもあるまいと思う。

 政敵を葬り去ったのはローレンツや彼らに恨みがあってのことではない。

 そもそもライゼルは事件の起きた後になって陰謀の事実を知らされた。

 そりゃあ、当事者であるアラウネやオーギュストにしてみればぶん殴りたくなる相手だろうさと我ながら思う。

 だが、一体どこの誰がこの貧乏伯爵を必要としているのか大いに興味をそそられることだった。

 かくして、ヴァンフォート伯爵はタクシーで馴染みの家に寄り道した後に、遂にパルムからの“夜逃げ”を敢行した。

 ・・・と世間は大騒ぎになるだろうと思いつつ、ライゼルは神殿騎士の少年騎士に連れられてアルマス行きの列車に乗ったのだった。

 愛する家族たちには“まったく訳がわからないがスターム家が親父の借金を肩代わりしてくれるらしい”とだけ書き残してきた。

 それで大体の事情は察する。

 事情を詮索しても無駄だと気付いたのはアルマスで乗り換えをしたときだった。

 寡黙だと思っていた少年騎士が全く言葉を発しないのが、生来ではないかと気付いてのことである。

 さぞや可愛い声だろうにと思ったのだが、彼は申し訳なさそうに無言で首を振るばかりだった。

 旅の相手がそんな人物ゆえにライゼルはとにかくヒマを持て余した。

 トランクに詰めてきた書類と書籍は瞬く間に読み尽くした。

 そして、パルムでの政務から解放された以上、仕事に関する書類に目を通す必要がなにもないことに気づき、思考停止に陥った。

 約20年もの間、彼の頭を占めてきたのは父親と祖国の借金のことだった。

 それが取り払われる日が来ることを夢想し続けてきたライゼルはそれが現実のものとなったかも知れない今日を迎えて、ひどく居心地が悪いことに気付かされた。

 聡明な彼でさえ想像が及ばなかったが、まるで自らのアイデンティティーを失ったかのような大きな喪失感と虚脱感とが胸を埋め尽くしていた。

 駅売りの新聞をありったけ購入しても、その行間から何も見出せなくなっている自分に気付いたとき、ライゼルは自分自身を形作っていた肩書きと人生とがなににもたらされていたかに気付いてしまった。

 そして、たった一文にして彼の半生の苦悩を取り払ったことそれ自体がセスタスターム家からライゼルへの復讐ではないかと思うようになっていった。

 目まぐるしく回転を続けていたライゼルの頭脳はアラウネ・メイデン・ゼダの美しい顔を思い出すことで急停止した。

 なるほど、確かにフィンツ・スタームと名乗っていたあの天才騎士は彼女の面影をどこかに感じさせていた。

 女皇家の連枝ならではの気品と風格・・・だが、あの恐ろしいまでの騎士の技はなんだったのか。

 ライゼルは彼の手合いをパルムで何度もその目にしたことがあった。

 道楽とは無縁の彼にとってほぼ唯一の道楽と言えるのが騎士同士の手合いを見物することだった。

 200戦無敗を謳われたフィンツ・スタームの技は他の者たちを逸脱していた。

 彼が相手の命さえも奪う場面さえも何度か目にしたことがある。

 それを目にするとき、彼はなぜだかたまらず興奮を抑えられなかった。

 馬鹿げていると思いつつ、息子たちを連れて見物したこともある。

 セオドリックとピエールもスタームの技に取り憑かれた。

 なにより、ライゼル自身がフィンツ・スターム少佐の大ファンを自認していた。

 彼の技にはどことなく自分に通じるところがあった。

 貴族であり、貴族税を導入した張本人でありながら、貴族嫌いで税に辟易し、愛する家族ともまともに暮らせない不遇な自分と、天才騎士を謳われ、他の騎士たちを嘲笑う高度な技を駆使しながら、どこか不遇だったフィンツ・スターム。

 だが、そんな彼が歴とした皇家の血筋を引く貴公子で、剣皇に就任したと聞かされたとき、ライゼルはひどく失望した。

 落胆し、一ファンとして見守り続けたことがなんとも空しいことであるかのように思えてならなかった。

 誰よりそうなって欲しくなかったのだ。

(・・・そういえば神殿騎士団は剣皇騎士団と改称されたというが・・・)

 目の前の席で寝息を立てる少年の素性をずっと誤解し続けていたことに気付いて、ライゼルは頭を掻いた。

(どうも最近の情勢はとんと繋がらない。なんともチグハグな絵に見えて仕方ない) 

 自分の勘働きがいよいよ鈍ったかとさえ思い詰めるほど、今年に入ってからの彼は冴えなかった。

(なにが《13人委員会》理事だ。知りたい事実はなんにも知らないじゃないか・・・)

 苛立ちながら考えに耽るうちにライゼルは寝入ってしまった。

 彼を乗せた列車だけがひたすらに西へと向かい走り続けていた。


 ライゼルが目を醒ましたとき、アルマスを出発した列車はトレドに向かうベルーナ渓谷の長いトンネルにさしかかっていた。

 かれこれ20年前にここに現地視察に来たことがある。

 その後、ライゼルは摂政皇女の名代としてメルヒン、ラームラント、ナカリアと西方諸国を旅した後、船で帰国の途についた。

 大陸横断鉄道建設において最大の難所がトレドとアルマスの間にあるベルーナ渓谷とトレドとフォートセバーンの間にあるファルガー渓谷だった。

 その二カ所を東西に貫くトンネルを掘るために莫大な予算と多大な人命が犠牲となった。

(そうか、最後にトレドを訪問したのは慰霊碑の除幕式だったな・・・)

 若手議員として除幕式で名前を呼ばれた工事犠牲者たちの名前を神妙な面持ちで聞いていたのがおよそ20年前のことだった。

 現在はそうした若手特有の地方の雑事からは解放され、パルムから動くことはほとんどなかった。

(なんの因果だろう?)

 ライゼルは自身を取り巻く運命の皮肉を思った。

 結果的に信頼の厚かったローレンツを裏切る羽目に陥ったのは、我が子らと父親、婚約者を思うがゆえの保身だった。

 ライゼルの引くに引けぬ事情は“それ”だったし、逆に言えば“それ”さえなかったら、ローレンツと運命を共にしていた筈だった。

 なんだかアラウネ事件の後はすべての憎しみを一身に背負い続けてきたように思えてならなかった。

 自分が当事者の一人、あるいは黒幕の一人と目されており、それが事実だとワグナスから知らされても、萱の外におかれているという意識は消えなかった。

 そのワグナスもかなり前に鬼籍に入った。

 アラウネが生きていたと知っても心が全く動かなかったのは、アラウネやオーギュストが健在であろうがなかろうが、自分には無関係のように思えてならなかったからだった。

 彼らの側にはライゼルへの根深い恨みつらみがあろう。

 だが、ライゼルの側にはなんの感情も感傷も抱くことが出来なかった。

 もともと選択の余地などなかったのだ。

 事実を受け止めて割り切るしかなかった。

 後ろ指を指されても居直るしかなかった。

 ローレンツが失脚した後になって、ローレンツ公が自分を失脚させようと画策していたことを知った。

(馬鹿な。こんな私ごとき男にかまけている場合でもなかろうに)というのがアラウネ事件発生当時の彼の偽らざる想いだった。

 月日は流れた。

 それとは知らなかったアラウネの息子と、それと知っていたローレンツの息子の時代に差し掛かり、彼も中年期に入っていた。

(いずれはセオドリック、ピエールたちの時代にもなろう。そのとき自分にはなにが残っているのだろう・・・)

 悪名?汚名?

 どうやら借金だけはキレイさっぱりなくなってくれるらしい。

 それだけでも有り難いことだなと思った。

 ガラス越しに深淵を見るうちになぜだか酷く憂鬱な気分になった。

 不思議と僅かに悪寒を感じた。

(馬鹿な夏の盛りだというのに・・・)

 鳥肌の立った自分の二の腕を目にしつつ、それが心理的なものだと思い込もうとしていた。

 車内はまるで幻想的な絵の中の一部のようだった。

 ランプにぼんやりと照らし出された車内。

 目の前の座席でひたすら眠り続ける可愛げな少年騎士。

 そして、ふと視線を通路に向けたライゼルは信じられない人物を目にして体が竦むのを感じた。

「ヴァンフォート伯、どうぞお体が冷えます」

 そう言って厚手のコートを差し出したのは、よく見知った女性だった。

「君はパトリックの娘の・・・いや、メリエル皇女殿下?」

 メル・リーナ。

 いや、メリエル・トラント・メイデン・ゼダ皇女。

 子供の頃から知っている筈の娘であるのに、なぜだか急に存在が遠ざかったように思えていたその娘との再会にライゼルは激しく動揺した。

 もう一人、その傍らにいる人物をも見知っていた。

「違います。エウロペア女皇メリエル・メイヨール陛下です」

「エウロペア女皇だとぉ!それに・・・げ、猊下・・・」

 世の中には信じがたい事実がある。

 それをライゼルは今まさに実感した。

「さすがです。私を一目で見破られるとは」

 軽く会釈をした若作りに見える僧服の男は間違いなくミロア法皇ナファド・エルレインであった。

「剣皇陛下の勅命により、女皇陛下と共に貴方をお迎えにあがりました」

 女皇戦争の軸となる「三皇」とは法皇ナファド・エルレイン、剣皇ディーン・フェイルズ・スターム、そして史上初のエウロペア女皇メリエル・メイヨールだった。

 そして彼等の存在を知る者たちこそ人類絶対防衛戦線こと大エウロペア連邦女皇国の構成員たちだった。

「馬鹿な・・・」とつぶやいたきりライゼルは二の句を継げなかった。

 剣皇の使いと称して女皇と法皇が立っている。

 しかも、自分ごときの迎えに・・・。

「テオ、起きなさい。もうすぐ峠を越えます」

 メリエルが優しく声をかけるのと少年騎士が目を醒ましたのはほとんど同時だった。

 テオと呼ばれた少年は、安らかな眠りを覚まされたことに気付くや、慌てて荷物の中からコートを取り出した。

「そろそろ中腹を過ぎるあたりでしょうかね」

 ナファド法皇は言いながら自分も外套に身をくるんでいた。

 明らかに車内の温度が変化していた。

 夏なのに・・・以前はこうだったか?

 そうした当然の疑問を差し置いてライゼルの口から出たのはメリエルには意外な言葉だった。

「この子はテオというのですか?」

「はい、本名はセオドリック・ノルンというので皆からテオと呼ばれています。賢く優しい子です」

 メリエルは自身も白いコートを羽織りながら簡潔に説明した。

「息子と同じ名だ・・・」

 ライゼルは丸2日間旅を続けながら名前すら知らなかった少年騎士のことを改めて見つめた。

 生来言葉が話せないことしか分からない。

「既にお気づきかと思いますがこの子は言葉を話せません」

 そうつぶやいて、法皇は沈痛な面持ちを浮かべた。

「生まれつきの障害かなにかで?」

「いいえ、ごく最近のことです。それに遭遇して悲劇に見舞われて以来、この子は言葉を失いました」

 法皇はそう説明してから信じられない言葉を続けた。

「だから剣皇陛下はこの子を使者とするようお命じになりました。それに、使者としてパルムに赴く往復の間だけでもこの子は命を落とす心配がありませんから・・・」

(なっ)

 思わず不敬な言葉を発しそうになり、ライゼルは耳を疑った。

 それにしても先程から感じる違和感はなんだろう・・・。

 車内の温度が異常なまでに低いこと。

 それを予期していた二人。

 言葉を失った少年に残酷な仕打ちとも受け取れる「使者」の任を与えた剣皇ディーン。

「お気持ちはお察しいたします」女皇メリエルは更に沈痛な面持ちで狼狽するライゼルを見据えた。「あなたの中にあるすべての疑問はこのトンネルを抜ければ明らかになります」

 すべての疑問だと?

 待てよ・・・。

 途絶えた連絡。

 厳重に敷かれた箝口令。

 密かに復旧していた路線。

 そこに我が物顔で現れる神殿騎士団改め剣皇騎士団の関係者。

 ライゼルの疑問が一つの言葉と共に、それが信じられないほどの深い恐怖と疑問が氷解したことへの安堵。

 更にはそんな場所にのこのこ呼び出された滑稽さを伴って彼は我知らず、なんだか半笑いとも泣き笑いともつかぬ名状しがたい表情を浮かべていた。

「龍虫・・・ヤツらが既にベリアに襲来していたのか・・・」

 法皇は答える代わりにふぅと天を仰いで息を吐いた。

 それが白く染まっている。

 トンネルを抜けるとそこは雪国だった。

 信じられないことに、真夏のトレドに雪が降りしきっていた。

「間もなくトレドです。いえ・・・もはやその名を持つ都市は存在しません。ネームド人類存亡の要たるトレド要塞」

 女皇メリエルの言葉にライゼルは戦慄した。

「なっ、バカな。あっ、いえ失礼しました、陛下」

 メリエルは柔らかに笑みを浮かべた。

「すみません。顔を出すのはトレド要塞に入ってからにしようかとも思っていたのですが・・・、貴方がどんな悪態を私たちの前で見せようとも今だったら二人の胸だけに留めておけます。もう一人は物言えぬ少年です」 

 列車の外は猛吹雪だった。

「失礼ですが龍虫のことはどの程度ご存知ですか?」

「すみませんほとんど知りません。ですが・・・」

「?」

「同志たるワルトマ・ドライデン枢機卿からチラリと耳にしたことがあります。ミロアには寒さに弱い龍虫のために気象を操作する機械が切り札として密かに安置されていると」

 メリエルが伏し目がちになる。

 ディーンは自分がどうにかしてみせると反対していたがナファドが強行した。

 今となってはそうでもしなければならない事態の逼迫だとメリエルも考えている。

 長期戦を戦う兵站物資が心許ないので難民たちを切り捨てるという苦渋の判断だ。

「はい、使わざるを得ませんでした。《凪の季節》が終わり、少しでもヤツどもの侵攻を遅らせるためです」

(嘘だ・・・足手まといたちを口減らしするための口実)

 メリエルは膝を進めてライゼルを見据えた。

「差し出がましいかも知れませんが、龍虫についてわかっていることをざっとご説明いたします」とメリエルは話し始めた。

「なんの予備知識も持たずに彼らと遭遇した経験のある私ですから、今となってはなにもかもご存じでいらっしゃった猊下よりもかいつまんで説明できると思います」

 メリエルの言葉にナファドは深く肯いた。

「アレらは《虫使い》に操られて組織的に人を襲います。アレは恐ろしく獰猛にして狡猾です。中型種以上のアレ1体と戦うのに熟練の騎士数人が必要です。今のところ大型種のアレと一対一で互角以上に渡り合えるのは、トレド戦線においては剣皇ディーン陛下、ミシェル・ファンフリート大佐、剣皇陛下のご両親たるオーギュスト・スターム卿とアローラ・スターム卿だけです」

「オーギュストたちも既にトレドに来ているのですか?」

「はい、アローラ様・・・いいえ摂政アラウネ様と共に最前線で戦われています」

 既に打つべき手は打っている。

 それでいての劣勢。

「寒さが苦手で活動が鈍る。そして、卵を産み数は増え続ける。なにより毒を撒き散らし、その猛毒は大地を腐らせる。大戦前に出現した龍虫は三国を灰燼に帰して尚も猛威を奮った」

「はい、今度の出現ではファルガー渓谷以西の地域は・・・」

「つまり、既に蹂躙を許している。だから、でも、いやそれでもなぜ私が呼ばれる必要がある?」

「それは・・・」とナファドは言い淀んだ。

 かわってメリエルが女皇の威厳でライゼルに説く。

「私たちの把握している限りで50万人以上の難民が出ています。彼らは難民キャンプで死と隣り合わせの毎日を過ごしています。そしてベルーナの峠を超えようとする者は女子供を問わず銃殺するように命じています」

(は?命令者がメリエル女皇だと)

「皮肉にも私は友人3人と共に最初の遭遇の後に訪れた惨禍を目にしました。その事実を胸に秘めたまま、寄せ集めの軍隊で『人類絶対防衛戦線』を敷き、今もまだ絶望的でさえある戦いの最前線にいます。我が朋友ディーンは最高司令官の肩書きと共に」

 メリエルは目に涙を一杯に溜めながら必死に言葉を絞り出す。

「私や猊下に出来ることは最早、祈ることと折れないことだけです。勇士たちの無事の帰還を祈るのではなく、連日欠けていく死者を悼む祈りばかり捧げています」

「そういうことか・・・」

 ライゼル・ヴァンフォート伯爵の目に精気が漲り始める。

「えっ」

「剣皇となったディーンが私にさせたいことは50万人の難民をベルーナ渓谷の向こうに送らずに済ませる手立てを講じろということでしょう?そして、ここでなにが起きているかを誰にも悟らせずに、事態を解決する試みに参加せよってことですよね?ご自分が最前線でヤツらを釘付けにしている間に」

「・・・はい」

「面白い。その挑戦受けましょう。勝負の期間はまずはあと4ヶ月」

「さすがだ。本格的な冬まで持ち堪えるとよくおわかりに」

 ナファド・エルレインの顔が心持ち上気する。

「大方、気象兵器とやらを作動させて最前線基地であるトレドを機能させるまでのことはやっている。けれど、それより西はヤツらの蹂躙を許している。ベリアはとうに落ち、龍虫はラムダス樹海に潜伏しているということですな」

 困難な説得役を買って出た無力な二人はライゼルがあっさりと承諾したことに驚いた様子だった。

 一方のライゼルは・・・。

(すべてだ。これですべてが繋がったぞ・・・)

 ヴァンフォート伯の瞳の奥にはギラギラとした精気が宿っていた。

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