第1話 メリエル戴冠とパルムの密会

 1188年7月4日

 トレド要塞


 ディーンの剣皇戴冠式も酷く地味でアルマスのホテル・シンクレア会議室で幹部たちだけで密かに執り行われたが、メリエルの戴冠式はもっと地味だった。

 トレド要塞の外に雪の降りしきる中、地下礼拝堂においてメリエルは戴冠式に臨んでいた。

「エウロペア女皇メリエル・“メイヨール”だとぉ」

 列席したフェルナン・フィーゴ大佐は一応はナカリア騎士団の正装に身を固め、内縁の妻シェリー・オランド副長にもマダムパトリシアの用意したドレスを着せてはいたが、他の列席者たちとて軍服姿と適当に見繕ったパートナー役を配していただけだ。

 西風騎士団の正装をすると男映えが光るアルバート・ベルレーヌ大佐も同様で、ゼダ国家騎士団の黒軍服に身を固めたレウニッツ・セダン大佐の隣に並んではいたが、二人ともフィーゴと違い、自分の騎士団から綺麗どころの女性を見繕いやはりマダムパトリシアの用意したドレスを着せていただけだ。

 アルバートはやもめだというし、セダンには妻子もいたがゼダ東部の田舎アエリアでセダンの両親たちと暮らしている。

 剣皇ディーン、紋章騎士ルイスは久々に二人並んだ姿を見せた。

 しかし、二人とも黒と白の軽装甲冑に正装用のマントを纏った姿であり、とても貴人の戴冠式に臨む姿には見えない。

 着付けと仕立てのためにマダムパトリシアは例によって赤子連れで列席していたが、アリアス・レンセン中尉や亜羅叛、公明と紫苑やティリンスは来ていない。

 バスランもアルマスも一日だけとはいえ、全員が居ない状態になど出来ない。

 そして、その実、メリエルに万一の事があればかわりに紫苑が担ぎ出される。

 それが現状だったし、今も城外では龍虫との激しい戦闘が繰り広げられていた。

 トレド近郊一帯の寒冷化により龍虫の活動自体は鈍り、鈍った分だけベルグ・ダーイン隊やノートス隊でも凌げるようになっていた。

 ミシェル・ファンフリート大佐もいない。

 城外で戦闘指揮しているからだった。

「せめて、王冠だけでも格好がついただけ幸いか」

 トリエル・シェンバッハも女皇騎士団を代表する白軍服姿でバスランからメリエルの王冠を持参して見目麗しい愛妻ジョセフィン・シェンバッハと参列していた。

 その王冠というのもガエラボルン宮殿の跡地探索時に発見した金製品と宝石とで耀公明があり合わせにしつらえたものであり、よく見ると貧乏くさいし野暮ったい。

 司祭正装しカナリアイエローのショールを纏う法皇ナファド・エルレインが跪くメリエルの頭上に恭しく王冠を載せる。

 参列者から一斉に拍手と歓声が沸き起こったがエウロペア最大の帝国君主の戴冠式としては地味で冴えない。

 王冠を被った純白のドレス姿のメリエルは参列者全員に向き直った。

「皆の者聞きなさい。これが私たちの置かれた現実です。私は今日まではゼダ皇太子皇女の名目で絶対防衛戦線守将となってきましたが、今日からは違います。エウロペア女皇国女皇メリエル・メイヨール。それは正に現在のゼダ女皇国こそがかつてメイヨール公国に簒奪された偽物の皇国であり、真の皇国とは皆さんを鳩合した人類絶対防衛戦線そのものである正に幻影の帝国に過ぎません」

 その一言に参列者全員に緊張が伝播した。

 メリエルは自分は道化役なのだと誰より自覚していた。

 小娘の肩書きがエウロペア女皇となったとて「敵」にとってはそれこそ失笑する程度だろう。

「この王冠も偽りなら、私も偽りの女皇。私の後見諮問役としてゼダ先皇メロウィン・メイダス陛下と、女皇摂政アローラ・スタームが控えている。それでも私はただのメリエルです。皆さんの神輿として担がれるだけであり、幻影の帝国人民とは底冷えする仮設テントで明日をも知れぬ不安な暮らしをしているベリアの難民たちと、寒空の下にあるトレドの地下居住区で手に息を吹きかけている多くの市民たち。しかし、国家元首とは本来は国民の意思統合の象徴でしかないのです。だから、こんな小娘が酷い三文芝居さながらに戴冠式を執り行ったとて、彼等の空腹や不安が解消することもない。むしろ皇国西部戦線の最高司令官『剣皇ディーン』の方が余程頼もしい。彼の活躍の方が明日への希望に繋がる」

 一斉に視線を注がれた黒縁眼鏡のディーンがメリエルに恭しく最敬礼する。

「幻影が幻影に終わり、我々がここに潰えるか、それとも幻影が虚構の女皇国すら飲み込み、正に“大エウロペア連合女皇国”となるかは皆さんの双肩に掛かっています。こころを一つに、思いを一つに、未来への希望をその手に掴む日に、この幻の大帝国は自然消滅し、貴方方は本当の祖国と其処に住む家族たちのために力を尽くすことになるでしょう」

 フィーゴはシェリーやアルバートに視線を向け合わせ、メリエルの真意とはあるいはと確認して頷き合った。

 龍虫戦争を単なる迎撃撃退戦に終わらせるつもりなどなく、ベリアに国家を再建するプランをも織り込んでいく。

 むしろ、トリエルの方が眉根を寄せて険しい表情を浮かべる。

「理想はそれでいい、しかし現実は俺達が無駄に潰えないので精一杯か・・・」

「あなた・・・」

 夫トリエルの苦しさをよく知るジョセフィンは夫の小さな肩をそっと抱く。

「それでは重要人事を発表します。真女皇騎士団団長はオーギュスト・スターム卿」

「はっ」と進み出たオーギュスト・スタームは恭しく一礼した。

「真女皇騎士団団長としてスターム卿には即時、龍虫迎撃隊の指揮を命じます。また重ねてお願いしたい議がございます。直ちに取り掛かりなさい」

「はっ、女皇陛下」

 《太陽の騎士》オーギュスト・スタームはそうして戴冠式会場を去った。

 すぐに野営地でスタンバイしているアモン・ダーインでトレド城外での戦いに加わるのだ。

「真女皇騎士団副司令トリエル・“メイヨール”卿」

「えっ?トリエル・メイヨールだって」とトリエルは唖然とした。

「どうしましたトリエル・メイヨール卿?」

 メリエルは唱和も一礼も忘れ呆然としているトリエルに追い打ちをかけた。

「はっ」とトリエルは進み出て慌てて膝をつき、メリエルの言葉を待つ。

「トリエル卿には引き続き、バスラン要塞最高司令官を兼任し戦線防衛司令としての任を命じます。戴冠式終了と共に帰陣してください」

「畏まりました」

「続いて同じく真女皇騎士団副司令にエルビス・レオハート・ヴェローム卿」

 公王エルビスとアリョーネの女皇騎士団司令ハニバル・トラベイヨとは同一人物だが、真女皇騎士団では同じ副司令というのにトリエルは呆気にとられた。

 トリエルの視線の先でヴェローム公国国家元首の威厳持つハニバル・トラベイヨが恭しく片膝をついて一礼していた。

「はっ」

 ハニバルが戴冠式会場に来ていたことにもトリエルは気づいていなかった。

「レオハート公には“兄”オーギュスト卿の補佐役を命じます。また、パルムのアリョーネ女皇陛下の護衛補佐役としての役割も期待しています。大変な役所となりますが今後の戦局は貴方方の働き如何にかかっています」

 メリエルは公王エルビスの手を取り、身を屈めて真剣な眼差しを併せた。

「肝に銘じましょう。忠臣は二君にまみえずなどは余人の戯言であり、メリエル女皇陛下がアリョーネ女皇陛下と並び立ち共に戦う以上、私たちとてお二方の信任に応えてみせるのみです」

 エルビスの言葉にトリエルは唖然とし、他の参列者たちもザワついた。

 オーギュストとエルビスが実の兄弟だということも知らなかったトリエルが一番動揺していたかも知れない。

「私からは以上です。真女皇騎士団とは剣皇騎士団とは指揮系統が別であり、私の直轄騎士団という意。与力となる者は追々、女皇摂政アローラ・スタームからの要請があります。既に剣皇騎士団麾下の者たちは引き続き、その任にあたってくださいませ」

 てっきり茅の外に追いやられたと思ったフィーゴたちベリア組はそうではないと気づいた。

 剣皇騎士団は特記第6号に基づく龍虫迎撃駆逐共同部隊であり、真女皇騎士団は別の目的を持った組織だった。

 そこに敢えてトリエルを加えた真意もトリエル・シェンバッハ大佐なりゼダ皇弟トリエル・メイル皇子では果たせない役割が生じるという意味だった。

 そして、メリエルには東西の剣皇を従えるつもりがない。

 彼等は彼等で自分は自分。

 フェルナン・フィーゴが真っ先にその意味に気づいた。

「女皇陛下、発言宜しいか」と手を挙げる。

「なんなりと、フェルナン・フィーゴ大佐」

 頭上に王冠を輝かせたメリエルは柔らかく笑みをたたえる。

「まさかとは思いますが、陛下は龍虫や《虫使い》と戦う剣皇騎士団と、《虫使い》との秘密同盟を模索し、その為の交渉役として真女皇騎士団を興されたのですかっ!?」

 冗談ではないというフィーゴの熱を帯びたその眼差しに、メリエルは邪な笑みを浮かべた。

「仮にそうだとしてなにか不都合が?」

 ディーンまで人の悪い笑みを浮かべ、ルイスはどういうこととキョロキョロしている。

 参列者たちからざわめきが広がっていく。

「私たちは命掛けで龍虫や《虫使い》と戦い既に多くの同胞を死なせている。なのに、彼等と和す?あるいは秘密同盟を結んで共闘する?」

 フィーゴの言い分こそもっともな話であり、列席していたラームラント首長たちも頷き合っていた。

 メリエルはそれを軽やかに笑って説いた。

「既に敵がそうしているではないですか。『剣皇カール』の対峙する『敵』とは共生大国ルーシアを後ろ盾とした反ネームド分子たちです。あちらは既に傭兵騎士団エルミタージュとして『戦闘兵器』としてのハイブリッド種を送り込んでいる。龍虫を操り、騎士を揃えてこちらに敵対しようとしている。だとしたなら、私たちも志を同じくする《虫使い》と和して、戦時秘密同盟を結んで彼等に対抗する。バラバラに戦ったのなら間違いなくそれぞれ潰されるだけです」

 戴冠式でその役割を果たした法皇ナファド・エルレインは左右からディーンとルイスに挟み込まれていた。

「法皇猊下はしばらく女皇陛下と行動を共にして頂きますよ。勿論、安全面を考慮してのことです」

 ニッコリ微笑んだディーンの目は笑っていなかった。

「それでは女皇陛下がエウロペア女皇に戴冠した真意とは正に、共生大国ルーシア、傭兵騎士団エルミタージュ、ルーマー教団との戦いに《虫使い》氏族たちを巻き込む?」

 各国騎士団、《虫使い》氏族、共生大国ルーシアのハイブリッド種が入り乱れたエウロペア大陸全土を巻き込んだ大きな戦いとなる。

 それは正にかつてあった「大戦」の再現だった。

「既に大佐の居られたナカリア王国は事実上消滅し、メルヒン王国とてラームラント首長連合とて、国土を喪失している。それで終わったら大戦と十字軍の二の舞です。それで良いのですかフェルナン?それで亡きセリアン国王の信任と約束を果たせると?それに彼等がその程度で終わらせてくれるとお考えですか?少なくともフェリオ連邦王国全土もルーシアに呑み込まれてしまいますよ」

 その通りだとフェルナン・フィーゴは膝をついてがっくりとうなだれた。

 第一回幹部会で開示された話というのはそうした意味だった。

「だからですよ、フェルナン。人類絶対防衛戦線や“大エウロペア連合女皇国”とはネームドとネームレスを“人類”と規定して、その未来のために戦うのです。そうした趣旨であれば、今は融和的な《虫使い》氏族たちも趣旨に賛同して是非共に戦いたいと心変わりするかも知れない。そうなれば彼等もまた志を同じくする者という私たちの味方につきます・・・いいえ、ついて貰わないと困るのです。私たちの完全勝利とは《白痴の悪魔》たる《龍皇》との決戦も想定した戦いになり、その裏面で発生する人民革命においても私たちはその一定の道筋を立てなければならない。ですからこの戴冠式もまた“今はただの茶番”なのです。私が真のエウロペア女皇となり、龍皇を打倒した後にエウロペアを再生させ、そして時を待ち静かに消え去る。既に新しい時代の超大国との総力戦なのです」

 つとめて静かに語りかけるメリエルにフェルナン・フィーゴは今まで感じたことのない畏れを抱いた。

「女皇陛下・・・」

「フェルナン、シェリー、アルバート、それにラームラントの首長の皆様がた。未来を、子供たちを護りたいと思う私についてきてくれますか?」

 メリエルの柔らかな問いかけにもざわめきは収まる気配すらなかった。

 はっきりとした答えも返ってこない。

 だが、フェルナン・フィーゴだけは“女皇陛下”について行くと決めていた。

「シェリー、俺が道化になってもついて来てくれるか?俺はセリアン国王から銅騎士団を託された意味を今日正に思い知った。ナカリアの未来を託されたということ。それが今日まで全然わかっていなかった。半端者の騎士たちを育ててやることも出来ず、物資輸送任務や増援部隊派遣に忙殺されている。けど、アリアスとかいう若造がかわりにやってくれている」

 騎士因子だけ持つ真っ白な素材であるナカリア銅騎士団はアリアス・レンセン中尉が実戦部隊として自分の手足とするべく入念に鍛え上げていた。

 訓練の内容やアリアスの訓示は指導教官としてセリアン国王が選んで加えた古参の騎士たちが代表のフィーゴに伝えてくれていた。

 アリアス・レンセンはまずバスラン要塞を護るというのは新型機ポルト・ムンザという道具を揃えるための時間稼ぎであり、騎士と真戦兵が揃い次第戦線をベリアに押し上げる。

 そのあとはメルヒンもラームラントもナカリアもなく、奪われたすべてを奪い返すのだと言い放っていたという。

 実戦訓練で戦死者を出しながらも、僅か数ヶ月でナカリア銅騎士団はひよっこたちではなくなっていた。

 ひょっこたちにも鋭い嘴や爪があり、それで戦える。

 輸送任務でバスランに向かう度にフィーゴもその目で確認していた。

 まるで少し前のミィと同じようにその瞳の奥に怒りを宿し、野生動物さながらの獰猛な騎士たちへと変貌を続けていた。

 剣皇ディーンやアリアス中尉にはナカリア銅騎士団を西ゼダ防衛のために使い捨てるつもりなど、はなからなかった。

 そして、クシャナド・ファルケンから預かり、ディーンとルイスに委ねたミィ・リッテ少尉がいずれは彼等を率いて戦う。

 その戦いの舞台はナミブだ。

 だから、ディーンは鏡のセカイでわざわざナミブを再現した。

 そしてはなからミィ・リッテの大技が炸裂するのはナミブ砂漠だと剣皇ディーンは考えていた。

 フィーゴが実際に見てきた幾つかの事実を繋ぎ合わせたその先で必ず祖国ナカリアを奪還させるという根拠は隠れていた。

 それにはまず不快にもファルベーラ、オレロスを使う裏切りの売国奴どもを蹴散らすのが先だった。

 そのためになら恨み骨髄の《虫使い》たちとも共闘すると女皇メリエルは言う。

 敵だ味方だその手段など選ぶ余裕などない。

 シェリー・オランドにも分かっていた。

「一生ついてくかわりにいずれアンタの子を産んでもいいかい?今すぐじゃなく、それこそ“私たちの子供たち”が立派に育って、ナカリアの雄大な大地を取り返してくれてからの話さ」

 マッキャオ副長たる普段とは違い化粧して薄いシルクのショールで顔を隠すシェリー・オランドに惚れ直していたフィーゴは目から鱗が落ちたようになる。

「そうか・・・、自覚してなかったけれどアイツらひよっこたちが俺達の子供か?」

 シェリーはドレスの袖から覗く浅黒い肌の肘の先でフィーゴを小突いた。

「ほら頑張りなさいよパパ。勿論ついてくわよ。アンタもほっとくと“命捨てます”みたいになりかねないから、アタシがついてるんだし、マッキャオもクルーも皆、アタシたちの大切な子供さ」

 イアンやトリエルにあり自分になかったものにフェルナン・フィーゴは今ようやく気づいた。

 父性愛だ。

 二人には子供たちがいてそれぞれ成長していた。

 常に家族を意識して家族の許に帰ると決めて戦っている。

「なるほどな、《ナミブのハゲワシ》はずっと俺の出自に対する当てつけと中傷だと信じていたが、どうもそうじゃないらしいな。親鳥マッキャオを駆り、雛鳥たちをまとめて面倒見て、それぞれ自分で獲物を捕らえて自立出来るとこまで空から見守るか」

 引き続きマッキャオで戦うことにかわりなどないが、下で戦う子供たちへの目配りを欠かすなだ。

 ルイスやマイオといった跳ね返りどもを鍛えてきた《鉄舟》もそれを暗に教えていたのだろう。

 オンナ孕ませて子供が出来たから父親になるんじゃない。

 そこに未来の象徴たる子供たちがいるから父親になるのだ。

「いままでアンタの内縁の妻に甘んじていたのも、アンタに親になる自覚なんか少しもないから不安だったからよ。女皇陛下に好きに発言し、好きに飛びなさい、フェルナン。女皇陛下もそのつもりでアンタのことを“フェルナン”と敬愛を込めて呼びかけたのさ」

 女同士で通じ合うものがあったのだろう。

 フェルナン・フィーゴはそれですっかり腹をくくった。

 だが、どうも自分たちとは同じようには考えられない連中もいるらしい。

 無理も無い。

 少し前のフェルナンだって斜に構え、現実を見ないで理想を語るのを馬鹿らしいと思っていたクチだ。

「大風呂敷にも程があるけどな」とトリエル・メイヨール新副司令は大喝した。「けどよ、ディーン、メリエル陛下、メロウィン陛下、アローラ姉さんがそれで行くというなら、俺は命を投げ捨ててても大義に殉じてやるさ。家族護って家族と共に戦う。大いに結構な話じゃねぇか。今は頭数足りてねぇけどよ、隠れている連中だってわんさといる。それに《砦の男》がまだ来てねぇ。こんだけひでぇ現状をひっくり返すには《砦の男》の知謀が必要になる。どんだけ考えたかわかんねぇが、俺とディーンにアリアス加えても今は無理だ」

 ガエラボルンで緒戦の口火を切ったトリエルが無理と断言する。

 だが、同時に《砦の男》がいるなら話は違うと断言したも同じだ。

「《砦の男》?そんな人いるんですか」とアルバート・ベルレーヌ大佐がその場で戸惑う全員を代表した。

「ボクが“招待状”を用意はしましたよ。あの人は最後のエドナ杯を確認したあと、決断すれば必ず来ます。そして、剣皇として要請します。メリエル、ナファド、来ると決まったらお迎えにあがって欲しい」

 《砦の男》本人はそんな話がトレド要塞で交わされていたことなど知る由もなかった。


 女皇暦1188年7月5日

 ヴァンフォート伯爵邸


 トゥドゥール・カロリファルは些か緊張した面持ちで門をくぐった。

 そこは彼のよく知るある場所と雰囲気があまりにも酷似していた。

 細かい意匠の違いや、色遣いのセンス。

 なにより、作られた年代の違いは明白だ。

 それなのになぜだか、初めて訪れた気がまったくもってしない。

 古いが丁寧に管理された石畳を歩きながら、トゥドールは思索を巡らす。

 広く大きな中庭であるにもかかわらず、使用人たちがほとんど目に付く場所にいない。

 案内に立つ御者だけが黙々と先を行くのと、高齢の庭師がバラを手入れしている他には人の気配がまるで感じられない。

(そうか、やはり、そうだったのか・・・)

 御者の案内で玄関を通され初老の執事の挨拶を受けたとき、トゥドールの抱いていた印象は確信へと変わった。

 きらびやかな物が何一つとして見あたらない。

 掃き清められたが如くこざっぱりとしたホールには齢数百年を経た青磁の壺がかろうじて置かれている程度。

 花さえも飾られておらず、ある者にとっては陰鬱な印象さえも与えかねない。

 そして、申し訳程度の調度品しか置かれていない廊下には伯爵家歴代当主の肖像画が並んでいる。

 だが、それらにしても埃を被らぬ程度であった。

 前当主エドワードの肖像にトゥドールはちらりと一瞥をくわえた。

(お互いに厄介な人物を父にもったものだ)

 階段を昇り二階へと案内されたトゥドールは自分が招かれている場所が応接室でなく私室だと聞かされて内心ひどく驚いた。

 私的には初対面の、しかも腹に一物も二物も抱えた若い男をかくもあっさりと懐深く引き寄せる。

 そんな大胆不敵な男の姿を一目見てやりたいという衝動に自然気持ちが高ぶっていた。

「旦那様、カロリファル公爵様がお見えになられました」

「お通ししなさい」

 その声を聞いた瞬間、トゥドールは密かに脳裏に抱いていた印象をたたき壊されていた。

「おじゃまいたします」

「結構。お互い相手を知らぬでもなかろう」

 短く機先を制するや、男はソファーを指し示した。

「まあ、座りたまえ、若き公爵殿」

 戸惑いと驚きの連続にトゥドールは今の自分がどんな顔をしているのかさえ分からぬほどに狼狽していた。

 そこはどうにも形容しがたい場所だった。

 天井まで堆く積み上げられた書籍。

 乱雑に散らばった新聞。

 座るよう示されたソファーの周囲にも本やら雑誌が乱雑に置かれている。

 埃と饐えた汗の臭いが辺りに漂う。

 そして、目に付くあらゆる本には走り書きやメモの類が乱暴に書き連ねられている。

 男は乱雑に積み上げられた書類と本の山を前にして腕を組みじっと視線を注いでいる。

(これはまるで話に聞いている・・・)

「書生部屋のようだろう」

 その男はニヤリと笑みを浮かべてトゥドールの反応を悪戯っぽく探った。

「いかにも君のお父上の仇敵、ライゼル・ヴァンフォート伯爵は四十路に入っても相変わらずの書生暮らしだ」

 椅子から立ち上がろうともせずにライゼルは早口にまくしたてる。

「まともな妻の貰い手さえなかった私だが、遅まきながら4年前に“正式に”妻を迎えた。だが、この通りの暮らしぶりだ。妻はすっかりあきれ果てて週に二度しか屋敷に戻っては来ない。ここより手狭な別宅にて幼い我が子らと暮らしているよ」

 実のところそれはライゼル流の皮肉だった。

 実態はすぐに判明する。

「お寂しくはないのですか?」

「それこそ逆に君に尋ねたいものだ。その年で仕事に明け暮れる生活を送り、まともな友人さえ一人としてない。恋人はおろか、浮いた噂の一つとしてない。それでいて屋敷に戻るのは毎夜午前様。寝て起きればすぐに次の日の執務に向かうだけの生活・・・そんな彩りに欠ける生活に、君は一体なんの満足を見出しているのかい?」

 問いかけのようで問いかけでないその言葉は更に続く。

「大方、国家の重責を担う責任感とそれを無情にもこの私に取り上げられた父上の無念を晴らすために、必死に毎日を送っている。まっ、そんなところだろう?」

「そうですね、否定はしません」

 言葉が上擦ってしまうのを自覚しながらトゥドールは視線を切らすまいとした。

「せめて君の政敵にして、父上の仇敵が退廃に満ちた煌びやかな生活を謳歌していたのであれば、君とて救われたかも知れぬな。そして、多少の甘えとて許された筈だ。あんな奴が毎日面白可笑しく暮らしているのだから、自分だって少しは・・・そう思う気持ちが芽生えても当然のことだと理解できる。だが・・・」

 そこで言葉を切り、ライゼルは鋭く尖った視線をトゥドールに注いだ。

「あいにくと私は君のお父上と議論を交わしていたあの時代からまったくもって変わっていない。それこそ、子供も得て結婚もし年も取ったが、ただそれだけのことだ。相も変わらず深夜まで本を読みふけり、人と会う必要があればすぐに出向き、元老院議員にして皇室政治顧問としての生活を足かけ二十年近く続けている。道楽としての騎士手合いの観戦以外はだよ」

 さもあろう。

 それがトゥドールの率直な感想だった。

「カミソリがその切れ味を失わないためには、毎日毎晩その刃を研ぎ続けなければならない。学生達の持ち出す稚拙な新学説などいつでも真っ向から論破できる用意がなくては、私が私でいる意味などないに等しい。その感覚が君にはわかるかね?」

「あなたの言われるその感覚はまるで・・・」

「そう。まるで『騎士』のようだろう。いつでも下からはい上がって来る弱卒たちを叩き潰せるよう、毎日毎晩鍛錬と訓練を欠かさず、心構えを崩さない。その姿勢こそが、余人をして達人と言わしめる要素に他ならない」

 トゥドールは内心ゾッとしていた。

 想像していたよりも遙かに聡明で遙かに危険な人物だ。

 ライゼルは自分をそれこそ生まれ落ちたときからずっと将来の仮想敵と仮定して自己の鍛錬を怠らなかったのだ。

 今、この場に及んでようやくにして彼を知り、彼と対決しようとしている自分がひどく幼く、ひどく惨めで、どうしようもないほど稚拙としか思えない。

 相手はずっと手ぐすねを引いて待ち構えていたのだ。

 いきなり懐深く誘い入れた理由は、その上で自分をバッサリやれる自信と自負があったからだということになる。

「まったく、それにしても。今更20年前のカビの生えた事案を持ち出して、それを強引に押し通すなんてやり方。それが君の父上の方針だとしたら、まったくもってやりきれん話だな」

 ライゼルははっきり冷笑していた。

「君の手並みを見てやろうと外征を認可するよう、フェルディナンドに反対されながら、密かに働きかけをしてやったが、君は私のところに礼を言いにさえこない。なるほど、いざ戦争が始まってしまえば、君は後方司令官として常に動静に注意を払い、政治と軍事を結ぶパイプ役としてバランスの取れた振る舞いを求められるのだから無理からぬことではある」

(やられた)

 トゥドールは舌打ちするような思いを必死に堪えた。

 この男にかかってはなにもかもお見通しだったのだ。

「だがな、今度のことではっきりした。なるほど君は優秀な司令官かも知れないが、政治の舞台ではいまだお尻に殻をつけたただのひよっこだということだ。才能はあるだろうが、経験不足は歴然としている。老獪な元老院の有力者たちの首に縄をかけて思い通りに扱っているつもりであろうが、それはとんだ思い違いだ。連中の首にはすでに私の巻き付けた太い鎖がかけられている。無理に足掻こうとすれば首がポロリと落ちる仕組みさ。つまり、君と私の利害が衝突した時点で君は父上と同様に失脚の憂き目を見ることになるということだ。軍を手中にしているとかそうでないとかは全くもって関係がない。軍や騎士団でさえ、君の思い通りとは言い難いであろう。要所を押さえているだけで、その実掌握しているとは決して言い難い。だから、諸方面で破綻して君を苦しめているのではないかね?」

「ぐっ」

 トゥドールは悔しそうに口元を歪めた。

 事実その通りだった。

 中央司令部の騎士たちの間でも、トゥドールの威光が完全に浸透しているとは言い難い。

 むしろ、露骨な反感と嫌悪をもって迎えられている。

 理詰めの命令には仕方なく従っているものの、無茶な命令に付き合ってくれるほど成熟した信頼関係を築くには至っていない。

 ごく一部の例外を除いてはだった。

「そこまで分かっているのに何故私なんかと私的に会おうと思われたのですか?」

 トゥドゥールの問いかけにライゼルは眉根を寄せた。

「わからんか?まさか君まで分からないとは言わせないぞ」とライゼル・ヴァンフォートはトゥドゥールを鋭く睨んだ。「この国の西でなにが起きている?」

「トレドの件ですか?」

「如何にも」

「貴方も知らないのに私が知っているとでも思ったのですか?」

「軍事的な事態が起きていることはパルムの物価高騰で分かってる。だとすれば国家騎士団と国軍とを半ば掌握している君が全く知らないなどということがありえるかっ!」

 ライゼルはトゥドールの腹の底まで探るような視線を向け一喝した。

「さあ、巷の噂では反乱軍がバスランで挙兵したということですよ。それに四人目の剣皇が法皇と皇女の推認により、戴冠したという話です」

「そんなデマを君まで信じているのか?」

 出所不明なヨタ話に付き合いきれるかとライゼルははなっから無視していた。

「その皇女というのがアリョーネ陛下の正式な第一子にして本当の意味での皇太子皇女だという。彼女の名はメリエル」

 トゥドールは逆にライゼルを睨み返した。

「その話ぐらいならご存じでしょう?貴方個人も知らない娘ではない。なにしろ貴方は昔からパトリック・リーナを、あるいはパトリック・フェルベールをご存じだからだ。皇太子皇女メリエルとはパトリックの愛娘メルのことです。私の双子の妹というのもデマですね。パトリック・リーナから聞いて“違うな”と確信しましたよ」

 ライゼルはトゥドゥールを前にしてはじめて面食らった。

「なんということだ・・・」

 その反応でトゥドールは悟った。

 この男は黒幕でもなんでもない。

 自分と同じ道化だった。

 何者かの意図と思惑により、事後処理役だけをやらされ、かつての同胞たる《13人委員会》メンバーたちの憎悪と疑念とを我知らずその一身に引き受けたのだ。

 なにかを知っていたとしてもその全体像は知らないのだ。

「父の失脚にも貴方はほとんど関わっていない。教育者として右に出る者がいないレオポルト公が陛下の夫で皇女たちの養育役になるというのに賛成票を投じた。裏切りと言えばそれだけでしょう。そればかりか皇室政治顧問という肩書きの割に、貴方は女皇家というカーテンの向こう側の事情にはとんと疎い。おそらくそうなるように仕向けたのは父です」

 ライゼルは目を剝いていた。

「ローレンツの仕業か・・・」とライゼルは古い記憶をまさぐるようにした。

「《13人委員会》のかつてのメンバーであの事件のあともパルムに残ったのは私と君の父上、そしてトワントとパトリック。それに転任に転任を重ねた結果のラクロアとエイブ、ローナンだけだ。しかし、どうして私にはなにも知らされなかったのだ?」

 トゥドゥールは父ローレンツの底意地の悪さを感じた。

 同志と称しながらもライゼルを常に茅の外に置いてきたのだろう。

「それはおそらく、貴方がアラウネ皇女亡き後にこの国に対してしてきた治績こそ、父が貴方に望んだことだからです。満身創痍のこの国を背負ってひた走れるのは貴方だけだ。父は病床で幼い私にこの国の歴史上で一番の政治家は貴方だと常々申していました。我が父ローレンツは貴方には余計なことを教えてはいけないと常々配慮していました。知れば生来潔癖な性格の貴方はそのことに心乱される。おそらくは委員会の本当の目的すら貴方はご存じではない。だから、私のような往事を知らない若造の腹まで、望んで探ろうとなされる」

「《13人委員会》の本当の目的だと?」

「国土強靱化計画遂行委員会。それが《13人委員会》の正式名称だと父は私には打ち明けたのです。なんのための強靱化なのかはいずれ判るでしょう。敢えて伏せた部分はトワント・エクセイル元教授がつぶさに知っていたと言えば貴方はすべてを理解する。西での不可解な動きとパルムに伝わるデマのすべてはそれです。なにより貴方は失念しておられる。私もまた一人の国家騎士です。だからこそ、今の話が私が貴方に伝えられる情報の限度です。それ以上のことは“私は知っていてはならない”」

「まさか・・・、そんなまさか・・・」

 ライゼルの狼狽にそれに関しては知っていたのだと確認した。

 本当の危機的事態の根源は東西の戦場にある。

「東征も本来の目的は終わろうとしています。そして、私は遠からずフェリオ、オラトリエスと休戦協定を結ぶ。それどころではないからです。地均しが済んだ以上、続ける意味もない。それになんとしても終わらせないと・・・」

 レウニッツ・セダン大佐やランスロー・ドレファス大佐とその部下たちが無駄死にすることになりかねない。

「もとより、遺恨やら領土的野心などないなら何故他国を侵犯する意味が・・・」と言いかけてライゼルの思考はもっとも嫌う単語に到達した。

「東征は“茶番”だというのか?」

「“口実”だと思うことにしています。“茶番”だというと私も腸が煮えくりかえる。現実に東部戦線で私の可愛い部下たちが戦死しているというのに、それが“茶番”だというととてもやりきれません」

 そう言い残してトゥドゥールは席を立った。

 自分にとってはなんの益もなかったが、少なくともライゼルにとって意味も意義もあった。

 だが、それだけのことだ。

 密会の意義や意味は別の誰かがみつけてくれる。

「最後に一つだけ教えてくれまいか?君に野心はあるのか?」

 ライゼル・ヴァンフォート伯爵の真っ直ぐな瞳に打たれ、トゥドール・カロリファル公爵はタメ息と共に言い放った。

「私個人にはない。貴方のご同類だ。身を清めるが如くに貴方の邸宅と私のそれとは酷く似ているので居心地の悪さはひとかけらもなかった。それ故にこそ貴方が自分の未来の姿なのだという確信にも近い印象があっただけだ」とトゥドール・カロリファルは不快に言い放ち。「うそ寒い邸宅に住まい。日々毎日をこの国の未来に捧げている。華美を好まない処か憎悪してさえある。父はどうやら私を貴方の分身にしたかったようだ」

「自分自身ではなく?」

 父ローレンツ・カロリファルの疲れた横顔を思い出し、トゥドゥールは愛する父の抱えていたライゼルへの嫉妬を思った。

 手腕や能力では決して勝てないと知っていたのだ。

「父は身を清くし、己を潔白だとしてただ私の父としてあった。それが本来の父ではないことに私は気づいていました。父はただただ国家の従僕としての貴方を手本としただけです。カロリファル家の先々代はそうした人物ではなかったようだし、父も本来はそうでない。むしろ貴方のお父上とご同様だった」

「あのローレンツが派手好みで放蕩だったと?しかし、それはローレンツが望んでいない姿なのだったと・・・?」

「そうですよ。華美や贅沢に己の価値を見出すまいとしていた。それこそ、涙ぐましい努力の結果です。それが何を意味するか、父がどれだけ貴方の才覚を羨んだか私だけは気づいた」

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