第18話 GSW(ガンショットウーンズ)

 教会の天井から差し込む月の明かりが、青年の姿を照らし出す。

「大丈夫か?」

 青年の問いに、公恵は立ち上がりながら答えた。

「え、ええ……。ありがとう」

 公恵は、青年の倒した二人の咎人とがびとを見た。

 一人は身の丈、5mはある巨人。

 一人は手長エビのような男。

 公恵は、まだ動悸どうきが激しい胸に手を当て、青年に近づくと訊いた。

「……あれ、人間なの?」

咎人とがびとだ」

「とがびと?」

 訊き返した公恵に、青年は答えた。

とが(罪)を犯した人だ。奴らは、堕ちたんだ」

 その言葉に、公恵は『浪漫古書店』の長瀬ながせ摩耶まやとの出来事を思い出す。

「…それは、十悪に堕ちたということ?」

 公恵の疑問に青年は答えた。

「よく知っているな」

「調べたの。あの夜、あなたが言った悪口あっくという言葉を。ねえ、教えて。一体何が起きているの。あの怪人は、一体何なの?」

 公恵が再び咎人に目を向けると、死体が泥沼に飲み込まれるように地に溶けていくのを見た。まるで、そこだけが液状化現象を引き起こしたかのように。

 手長エビのような偸盗のみならず、それは巨体を持つ貪欲も例外ではなく、咎人の全てを吸い込んだ後、元通りの地面に戻った。

 急速に。

「え?」

 公恵は、青年が斬った二人の咎人とがびとの様子に驚いた。何が起きているのか理解できなかった。

 公恵は目を見張った。

 青年は、醒めた口調で述べた。

「心だけじゃない、身体も魂すらも十悪に堕ちたんだ。咎人とがびとの行先は決まっている」

「……地獄、ね」

 公恵は、彼らが想像を絶する苦痛と時間の世界に行ったことに、怖いと感じた。

「それにしても、死体まるごと地獄に落ちるなんて……」

 その事実に青年は、反応する。

「この太刀に斬られたから。いや、死んだからと言うべきか」

 青年は左手の太刀を少し持ち上げる。

 公恵は太刀に視線が向く。

 夜であっても、公恵の瞳孔が大きく拡大した。

 今さら、太刀に驚いたのではない。医師として見過ごせないものを見たから。

 青年の左脇腹が血に染まっていた。

 言葉がすぐに出ない公恵を見て、青年は視線の先に目を止める。

「どうしたの。それ……」

 公恵は動揺したが、青年は気に留めた様子はない。

「一発、受け損ねた。自分に向けられた殺気でないと見えなくてな」

 青年はシャツを捲った。

 公恵は息を飲んだ。

 左脇腹に穴が開き出血していた。穴の周辺は赤茶色の表皮剥離、擦傷環アブレイジョンリングが生じている。その外周を擦り切れて凹んだ表皮が囲っていた。

 医学部の講義において写真で見たことがある。

 一生この目で見ることがないと思っていた傷。実際に見るのは初めてだが、公恵には分かった。

 G S Wガン・ショット・ウーンズ

 つまり、銃創だ。

 いつ?

 公恵は思い出した。

 悪口あっくが最後にワルサーPPKを公恵に向かって連射した時、青年は身をていして太刀で、それを斬って逸らした。

 銃声は2発。

 だが、公恵が耳にした跳弾リコシェの音は、切り分けられた一発。

 公恵は口元に手を当て、記憶を確かに思い出した。

 なら、もう1発の銃弾はどこに行った。

 公恵は理解した。

 青年の脇腹に当たっていたのだ。

(私を守ってくれるために……)

 公恵は人間として責任を感じ、身が押し潰されそうになった。

「ま、待ってて。今、救急車を」

 公恵は携帯電話を取り出した。

 だが、青年は携帯電話を握った公恵の手に触れた。

「内臓まで達していない」

「そんなの分からないでしょ。銃で射たれたのよ!」

 公恵は感情を露わにした。

「面倒だ。銃創を治療した場合、病院は警察への届け出義務があるのを知らないのか」

 公恵は医師として、職業上の報告義務を思い出した。

 この状況、人に説明ができるだろうか。

 太刀を携えた青年。

 咎人とがびとと呼ばれる、人ならざる《力》を持つ者。

 その戦い。

 先日、病院に訪れた香山、豊田という刑事達に話したところでどうなる。

 現場を見なければ公恵とて、こんな話を聞けば疑った。

「とにかく。傷の状態を確認するから、こっちに来て座って」

 公恵は原型を留めている教会の長椅子へと青年を連れた。

「死にはしない」

 青年の言葉を余所に、公恵は傷の状態を探った。左脇腹に入った銃弾だが、背へと抜けてはいない。銃弾が体内に残留する不完全貫通、盲管銃創ペネトレーションだ。

 公恵は更に怖くなった。

 映画やドラマで見かける、体内に残った銃弾の摘出シーンで、ピンセットに摘まみ出された血まみれの銃弾は、正に《銃弾然》としている。

 しかし、実際は、このような状態で銃弾が摘出されることは稀(まれ)だ。あるものはキノコのようにカサが開いた状態になり、またあるものは花弁を反り返した状態など、発射前の原型はまったく留めていない。最悪の場合、金属で出来た銃弾が体内で粉々に飛散している場合もある。

 そうなると、完全に摘出できるか分からない。

 摘出が不完全で、体内に銃弾が長く残留した場合、体に悪影響を及ぼすことがある。

 鉛毒だ。

 滑液によって鉛が溶解することは以前から知られており、これが体内に浸透し、急性の鉛中毒を引き起こす。

 海外の事例を挙げると、54歳のある女性が32口径の回転式拳銃で腿を射たれた。診断の結果、大腿骨に近い組織から潰れた鉛片が確認され、銃弾自体は膝蓋嚢付近から見つかった。

 だが、銃撃から五ヶ月経った女性は重度の貧血で入院した。それから14日目に、患者は大発作に何度か見舞われ死亡した。

 解剖の結果、脳は脱漏と壊死を伴い腫れ上がり、脳幹にいくつもの内出血を確認。さらに肝細胞と腎臓の細管付近の細胞核内に抗酸菌が入り込んでいた。脳内の血管の周りには内出血群が確認された。血液中の鉛中毒の判定基準は鉛濃度0.6mg/L以上。なお、女性の鉛濃度は5.3mg/Lであった。体内に残留した鉛は破片でも十分に致命傷になるのだ。

 それでも、体内に残留した銃弾の破片や散弾の鉛毒が原因の死亡事例は極めて珍しいと言う。

 発症時期は銃撃後、数ヶ月から27年後と様々だ。

 そうした意味では楽観視できるが、医師という立場上、患者の体内に、そんな爆弾を抱えさせたまま放置することは、公恵にはできなかった。

 だが、やはり何より怖いのは銃弾による直接的な破壊だ。

 銃弾が臓器に当たった場合、ほぼ破裂に近い形で損傷する。脳や肝臓、腎臓といった臓器のほとんどが水分で形成されているため、銃弾がそこに飛び込むと臓器内圧が急上昇して破裂してしまう。

 腹部の場合は腹腔の血管損傷による出血あるいは腸が傷ついて、そこから腸の内容物が洩れて腹膜炎を起こして死ぬ危険がある。

 その場合、早く開腹手術をしなければ必ず死ぬことになる。

 そうでないことを、公恵は祈った。

「少し痛むわよ」

 公恵は銃創を探った。

 レントゲンやCTが使えない今は、触診だけが頼りだ。

 青年は無言だ。

 だが、公恵には解った。

 銃創に触れた瞬間、青年の肉体は反応した。

 痛みを感じている。

 銃で射たれて平気なはずがない。化け物じみた、咎人とがびとという相手と平然と戦ったこの青年も、人間なのだ。

 それなのに、銃弾を受けた直後も今も苦痛一つ。助け一つ漏らさない。

 ここに、医者が居るのに。

 目の前に、医者が居るのに。

 身を案ずる、医者が居るのに。

 理論的ではないが、公恵は医師として悔しいものを感じた。

 それはまるで、恋心を抱いた相手と一夜を過ごしても、求められることもなく、手の一つも握られない。それどころか、背を向けられたまま朝を迎える。

 女として見られることもなく、女であることの存在さえも否定されたような。そんな屈辱的な気持ちに似ていた。

 慎重に触診を行う公恵の指先が、皮膚の下に固いものを感じた。

 銃弾だ。

 深くはなく、肋骨の下部の筋肉層で止まっていた。

「ここで摘出するわ」

 公恵はショルダーバッグから、携帯用の救急ファーストエイドキットを取り出した。

 携帯用と言っても、内容は家庭用の常備薬とは違って本格的なものだ。災害用に作られた救急ファーストエイドキットに、本で読んだ軍用救急ファーストエイドキットを参考にして公恵がさらに追加したものだ。

 縦205×横130×高さ75mmの箱の中に、メス、ピンセット、ハサミ、安全ピン、LEDペンライト、縫合用の針と糸、手拭き、滅菌包帯、ガーゼ、脱脂綿、テープ、止血帯、貼り薬プラスター当て薬ドレッシング、殺菌剤、止血剤、鎮痛剤、抗生物質、局所麻酔剤キシロカイン鎮痛剤アスピリン、火傷用軟膏、化膿止め、殺菌消毒剤メルティオレーレ、などが入っている。

 重さも900gに抑えてはいるが、できることは少なくないと公恵は思っている。

 本来ならアメリカの軍用救急ファーストエイドキットが、用途が用途だけに一番良いと本に書いてあったが、優れた救急ファーストエイドキットも日本の薬事法により本格的な輸入は制限されている。

 非番の日にケガをした子供と遭遇したことがあったが、医師として知識はあっても医療器具も医薬品も所持していない自分に無力を感じたことから、自身で勉強し常にショルダーバッグに入れておいたものだ。

 キューブライトを光源に、局所麻酔剤キシロカインを用意していると、青年は手で制した。

 よせ。

 と言うように。

「安心して。私は医者よ」

 公恵は、まだ自分が医師であることを告げていなかったのを察した。

「違う。俺は、治療してもらう資格はない」

「何を言っているの。現に、あなたは私をかばって、こんなことに……」

 公恵は申し訳なかった。

「……そうとも言えない。だが、俺は、結果的に佐伯公恵をエサにしてしまった。奴らを斬るために」

 公恵は、この状況を思い出す。

 青年は、言った。

 尾けられている。

 と。

 そして、襲われた。

 咎人とがびとに。

 奴らが狙っていたのは、公恵自身。

 なぜ、自分が狙われているのかは分からない。

 あの夜、顔を見たから?

 ナンセンスだ。

 あんな《力》を持った怪人を、警察が逮捕できる訳がない。それなら、どうして自分が狙われたのか。

 理由は解らないが、それと戦ってくれたのは、青年だ。

 銃弾の前に身をさらしてまで助けてくれたのは、青年だ。

 得体の知れない存在に体を張ってまで守ってくれたのは、青年だ。

 公恵は迷わなかった。

「それでも、あなたは助けてくれたわ」

「……なら、俺を殺したくなることを言ってやろう」

 青年の言葉に、公恵は見た。青年の横顔を。瞳を据えすぎると、頬に熱を帯びてしまいそうな容顔ようがんを。

「あの日、あんたが助けた女が居たな」

「志水洋美さん?」

「名前は知らないが……」

 青年は、言葉を切った。

 ――。

 そして、自白した。

「あの女を斬ったのは……。俺だ」

 公恵は、脳が委縮し自分の中で得体の知れない《何か》を持った気がした。

 手術中に見た傷。

 病院のベッドで錯乱する洋美。

 それを見守る、患者の家族。

 その全てを、この青年がもたらした。

 やはり、そうだった。

 医師として公恵は拳を握った。

 太刀の存在、患者の傷との関連をどう解釈しても切り離すことができなかった。これまで自分が受け持った患者には、日本刀による刃傷沙汰による患者を見たことがあるが、あれほど鋭利で美しい傷を見たのは初めてだった。

 医師・武内勲たけうちいさおから聞いたことが思い起こされる。

 剣道の経験がある者でも、刀の刃筋が正しくなければ巻藁一つ斬れないという。

 咎人とがびと二人を瞬く間に斬り捨て、銃弾すら刃に捉える青年の技量。

 剣士という存在を公恵は見たことがなかったが、目の前の青年は真剣を扱えるつわもの以外の何者でもない。太刀という武器があったにせよ、その性能を完全に使うだけでなく限界を超えた力を引き出したのは使い手の技量に他ならない。

 正に、剣士だ。

 尊敬に値するかも知れないが、公恵は軽蔑した。

 この青年が。

 この青年が……。

 この青年が…………。

 公恵の眼が、救急ファーストエイドキットのメスに行った。

 自分の中で持った《何か》が、公恵には解った。

 憎しみ。

 言葉には出さなかったが、公恵は無抵抗にも志水洋美を背中から無残に斬った青年を、憎しみを持って殺したいと思った。

 メスという恐らく人を切りながらも治療を目的とした唯一の刃物。

 それを公恵は、初めて人を傷つける目的で使いたいと思ったのだ。公恵の意思を手が受け取り、驚いたように反応した。

 額に陰を落として、公恵は項垂うなだれた。

 言葉が、ない。

 その気配を、青年は察した。

「そういうことだ」

 立ち上がろうとすると、青年の袖を公恵は掴んだ。

 公恵は歯を食いしばった。

 袖を掴んだ公恵の指が、握力で少し白くなる。

 唇から洩れる息が、震えた。

「……それでも。あなたは、私の患者よ。私の指示に従いなさい」

 強く、公恵は命令し、青年を見詰めた。

 青年は立ち上がるのを止めた。

 それが青年の返事だった。


『次回 第19話 青年の名前』

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