第17話 魔人包囲網2

 貪欲どんよくは勝利を確信した。

 青年に抱えられていた公恵もろとも死んだに違いないと思ったのだ。

「殺ったか」

 悪口あっくは呟いた。

 そして、ゆっくりと歩を進め教会内に入る。

 教会の中央付近は爆発が起こったようにクレーターが出来上がっており、それは、まるで巨大な隕石が落ちたかのような跡であった。

 その中心に青年と公恵の姿はなかったのだ。

 バラバラに引き裂かれたとしても血肉くらいは残っていそうなものだが、それすらもない。

 悪口は、何が起きたのか分からなかったが、仕留めていないのは間違いなかった。

 青年が、まだ生きている。

 そう思うと、悪口は怒りが込み上げてくる。

 あの男を生かしておいていい筈がない。

 必ず殺す必要がある。

 その決意が、悪口の闘争心に火を点けた。

 そう青年と公恵は生きていた。

 青年の腕に抱かれた公恵は、震える声で訊いた。

 どうして私を助けたのか?

 青年は答えた。

 俺はあなたを助けたいと思った。だから助けただけだ。

 それだけだ。

 貪欲の放った竜巻の息吹は、確かに二人を襲った。

 だが、その直前で突風に煽られた長椅子が二人の盾になったのだ。

 その結果として、二人は助かった。

 だが、それでも完全に無傷という訳ではなかった。

 爆風により吹き飛ばされて、青年は公恵を庇ったことで身体に擦過傷や打撲傷を負ってしまった。

 特に、爆風を受けた背中が痛むようだ。

 その時、悪口は目を細めた。

 正面にある倒れかかった講壇の向こう側を睨む。

偸盗ちゅうとう

 悪口は偸盗に呼びかける。

 偸盗は悪口の意図を理解すると、講壇に向かって腕を伸ばした。

 腕が伸びていくにつれ、腕の太さが増していき、肘から先が丸太のように太くなっていく。

 そして、ついに講壇を掴んだ。

 乱暴に払い除ける。

 講壇の裏側に隠れ潜んでいたのは、公恵と青年だった。

 悪口は舌を打つ。

 この女を助けるために、この青年が俺の前に立ち塞がったのか。

 つまり、この青年は、この女の味方なのだ。ならば、やはり生かしておくわけにはいかない。

 悪口は殺意の眼差しを向けて、青年を威嚇する。

 崩れかかかった教会の入り口を崩しながら巨体の魔人・貪欲が姿を現したのは、そんな時だ。

 出口の無い教会内に悪口、偸盗、貪欲の3人の魔人が揃った。

 公恵は怯えていた。

 どうして自分が、こんな目に遭っているのか分からない。

 彼女は、ただ祈っていた。

 どうか神様、助けてください。

 祈りの言葉は、声にならない。

 なぜなら、彼女の目の前には、恐怖の化身である魔人達が立ちはだかっているからだ。

 3つの影は、それぞれ別の生き物のように見えた。

 1つは偸盗という名の腕が伸びる魔人。

 1つは貪欲という名で呼ばれている、巨大な魔人。

 そして最後の1つが、牙を生やした魔人。

 公恵は、この世のものと思えない姿の魔人を凝視した。

 あれは何なのだろうか。人間ではないことは確かだろう。

 では、何なのか。

 公恵は必死になって考えた。

 やがて一つの結論に達する。

 あれが地獄の力を得た悪魔なんだと。

 きっとそうだ。

 だから、あんなにも恐ろしい姿をしているんだろう。

 公恵は自分が死ぬんだと覚悟をした。

 しかし、それは早合点というものだった。

 圧倒的有利に戦いを進めたように思えた魔人達であったが、一定の所で歩を進めないでいた。

 威圧、恐怖、不安。

 魔人達も恐怖を感じているようだったが、それは恐れというより憎しみの方が強いようであった。

 そして、その憎悪の矛先は、どう見ても自分に向けられていることを公恵は向けられている視線から理解していた。

 悪口が口を開く。

「男。お前が、なぜ、ここに居るのかは知らないが、場合によっては見逃してやってもいいぞ」

 青年は訊く。

「どんな条件だ」

 悪口は答える。

「簡単なことだ。今すぐ俺達の前から消えろ。お前だけな」

 公恵は驚きつつ青年を見上げる。

 青年の美しさが、逆に冷徹な印象を与えているように感じた。

 だが、公恵は思った。

 彼は私のことを守ろうとしているのだ。

 私のために戦おうとしているのだ。

 その思いに胸の奥が強く締め付けられるような感覚を覚えた。

 だからといって、このまま彼が殺されてしまうなんて絶対に嫌だった。

 公恵が告げる前に――。

 青年は答えを出した。

「意気がるな。誰を前に、誰を相手にしているか分かっているのか?」

 青年は雄々しい程に静謐せいひつな声で言った。

 悪口は鼻を鳴らす。

「愚か者め。ここで逃げれば、生き延びられたものを。まあ良いさ。どちらにせよ殺すつもりだったのだからな」

 悪口の目付きが変わる。

 それは獲物を狙う狩人の目に似ていた。

 悪口の口が大きく裂けていく。

 そこから鋭い牙が顔を覗かせた。肉食爬虫類の牙であった。

 青年は周囲を一瞥する。

 悪口が低く笑った。

「喰い千切ってやる。そこの女と一緒にな……」

 牙を噛み鳴らし、悪口は公恵を見た。

 ケダモノの眼で。舌を嘗め回す。

 公恵は悲鳴すら出なかった。自分はどこに居るのか、理解できなくなりそうだった。

 手長男・偸盗ちゅうとう

 巨人・貪欲どんよく

 牙男・悪口あっく

 現実に存在するはずのない魔人達に、異次元に紛れ込んでしまったのではないかと思った。

 青年は言う。

 咎人とがびとにではない。

 公恵に。

「すぐに、終わらせる」

 その言葉に、公恵は根拠のない安心を感じた。

 その言葉に、咎人とがびと達は憤慨した。

「小僧。俺の腕を斬ったぐらいで良い気になるな」

 偸盗は、片腕を失ったことなど忘れた口ぶりだ。喉元過ぎれば熱さを忘れる。という言葉があるが、まさにそれであった。

 青年は講壇に公恵を残し、魔人達に歩を進めて行く。恐れなど知らないように。

 そこに貪欲が竜巻の息吹を放った。

 青年は避ける素振りも見せず、真正面から風を受ける。青年は太刀を上段に掲げて、それを真っ向から受ける。

 竜巻の息吹と太刀が激突し合う――。

 かに見えたが、青年は太刀に竜巻の息吹をまとわせるようにして斬り裂いた。

 振り払った竜巻が壁に向かって飛び、壁を破壊。瓦礫が散乱する。

 貪欲は目を剥いて、その光景を見ていた。

 まさか、自分の妖術を、こうまで見事に打ち破るとは思ってもみなかったことだろう。

「ずいぶんと妖術の威力が落ちているじゃないか。時間をかけて授かったんだろうが、もう限界のようだな」

 青年は言い放ち、天を仰ぎ見る。

「なあ《王》よ」

 それが悪口の逆鱗に触れたようだ。

 悪口の顔色が変わる。

 それは怒りというよりも驚愕に近い表情であった。

「貴様。そこまで知っているのか」

 悪口が怒声を上げる。

 青年は答えない。

「妖術をいなしただけだ。俺達の有利なのは変わらん」

 貪欲は太い声でさげすんだ。

 だが、その顔には汗が浮かんでいる。

「分かってねえんだ。俺達のことが」

 偸盗は喜々と笑った。

 三対一という不利な中、青年は言った。

「なら分かっているのか。お前らは、俺のことを」

 静かだが、畏怖を感じさせた。青年の存在は。

 悪口が飛んだ。

 何の警告も、宣戦布告もなく。

 奇襲。

 それは、戦端を開く際の定石だ。

 悪口が汚い唾液を散らしながら、上空から青年の頭にかぶり付く。

 青年の太刀が、悪口を迎え討つ。

 噛んだ。

 太刀を。

 真剣白刃取り。

 ならぬ、真剣白歯噛みだ。

 その瞬間、青年の左脚に偸盗の左腕が伸びると蛇のように巻き付き掴んだ。偸盗の腕には関節などなく、無数の骨が繋ぎ合ってできた背骨のような構造になっていた。

 動きを封じられた。

 青年の前に、巨大な拳が迫った。

 貪欲の攻撃だ。

 青年の太刀を悪口が封じ、偸盗が動きを止め、お膳立てが整ったところを、貪欲が攻撃をする。

 ……完璧だ。

 およそ知性とは無縁に思えた人ならざる《力》を持った咎人(とがびと)達だったが、各々の能力を一つに組み合わせた、その連携は完璧だ。


 青年は死んだ。


 咎人とがびとの誰もが、内臓をぶちまけた青年の姿を確信した。

 だが、一人だけ悪口の意識から、それが頭から飛び出そうとは思いもしなかった。青年は左手を握ると、手の甲・裏拳を悪口の頬に叩き込んだのだ。

 

 【裏拳】

 拳の甲を叩きつける打撃技の手型の一つ。

 特に左右に相手を置いた場合で、接近している時に用いる。

また、突きの使えない至近距離や角度でも、肘のバネと手首の返しで素早く相手を打てる特長がある。手の甲、その先端は固いので、充分に勢いをつければ有効な攻撃となる。

 空手、古武術、拳法、ムエタイ等、幅広い格技で用いられる打撃技。


 強烈な一撃は、悪口の頬骨を砕き咬筋の一部を断裂させた。

 太刀を噛む力が緩んだ。

 剣道を行う者が、青年の行為を見れば反則と非難しただろう。

 だが、古流剣術は剣のみを使う武術ではない。

 柄や鞘を使う技法、体当たりや足払い、鍔迫り合いからの蹴込み、口に毒性の強い薬類を含んでの目潰し、剣を投げ付け、柄攻めなど組討柔術に連なり、究極一刀両断のもとに相手を倒す決闘の要素を持っている。

 何より命懸けの実戦において、反則や卑怯などという言葉は存在しない。

 家族や女を人質に取られる、不意を突かれる、隠し武器を使われる、多人数で襲われる、負傷箇所を攻められる、銃火器等の飛道具を使われる、毒を用いられる、自分の知らない技を使われる。

 それによって敗北し、今際いまわきわで相手を卑怯者呼ばわりしたところで、それは敗者の弁だ。自分の弱さを言葉の力でしか相手をなじるしかない、負け犬の遠吠え。

 戦いとは、惨めでも、汚くても、情けなくても、格好が悪くても、最後に生き残った者こそが勝者なのだ。

 それが戦場だ。

 青年は、太刀を引きつつ悪口の頬を斬り裂いた。

 横に流れた太刀の刀身を体に引き寄せると、下から掬い上げる太刀筋で偸盗の腕を切断し自由を取り戻す。


 跳躍――――。


 その動きで、青年は貪欲の拳をかわす。

 垂直跳びにおける成人男性の平均は55~65cm、成人女性は40~50cmが標準ラインとなっている。ギネス記録ともなれば122cmとなっているが、青年は軽く200cmは跳躍してみせた。

 貪欲の巨大な拳を踏み台にし、その腕を駆け上る青年。わずか一歩で、青年は貪欲の肩にたどり着くと巨大な顔の前に身を置いた。

 貪欲の眼に、太刀を上段に構えた青年の姿が映った。

 青年を振り落す時間は無い。

 青年は、臍下三寸(約9.1cm)にある丹田たんでんを意識する。

 丹田が全身の力の中心になっている時、相手に対する迷いも少なく、正確な判断が下せる。この下腹の力が斬撃の威力になり、相手を攻める原動力となる。

 太刀が斬り下ろされる。

 真っ直ぐ。

 貪欲の頭上に。

 振り落された太刀の刃が、貪欲の頭蓋に食い込んだ。そう思った瞬間には、太刀は一切の揺れもなく下へと落ちた。

 まるで、まきを叩き割るような重く、亀裂が入る音が鳴った。

 青年の太刀は、貪欲の頭を脳天から鼻梁を斬り裂き、下顎まで斬り下げていた。


 【唐竹割り】

 竹を割るように、頭蓋骨頭部全体を半分に斬り割る刀法。別名、眉間割り。

 聞けば簡単なことだが、実戦の刀法としては疑問視される技でもある。

 頭蓋を一個の骨と考えがちだが、実は一五種類・二三個の骨が、がっちり組み合わされてできている。これは、人体の司令塔である脳を守るため外部からの衝撃を分散させてショックを和らげる役目がある。

 骨の重さは軟鉄の約1/3、急激な荷重の吸収能力は1/2に過ぎないが、骨は木材の3倍もの強度がある。人間の体で最も固い組織は頭蓋骨であり石よりも硬くなっており、これを砕くには330kgも必要になる。

 これだけ強固な部位を割ろうとして斬り込んでも、刃が頭蓋に沿って滑ることがある。すると、頭の皮を剥ぐだけに終わり、こちらの構えが崩れ、脚は浮足立ち、重心が乱れて腰も不安定になる。

 見方を変えれば、刃が滑らなければ良い訳で、斬り込むのに充分な膂力りょりょくに、頭蓋骨に対し刃を直角に斬り込めば、難度は高いものの斬り下げることは不可能ではない。

 抜刀術の始祖・林崎はやしざき甚助じんすけは、父のかたきである坂上主膳との勝負で、抜き打ちざま、ただの一太刀で主膳を真向から唐竹割りにして、即死させた剣豪譚もあるのだから。

 唐竹割り。その斬り込みの要領は、頭蓋骨中央より肛門までを真っ二つにすることが極意で、丹田の気を上昇させ両腕に集め刀剣に送り、発気と共に一刀両断にする。刀法としては難しいが、わずかな斬り込みでも致命傷となり得るため有効な技と言える。


 リスキーな技だったかも知れないが、青年には、この刀法を用いるしかなかった。目の前にあるのが、頭部だけであり、巨体の貪欲に対人技術として作られた剣術で致命傷を与えるにはこれしか無かった。

 そして、頭蓋を斬り割った。

 その術名の通り。

 貪欲の頭が二つに割れ、脳の断面が開く。まるで、果汁たっぷりの果実を割るように汁が散る。

 だが、それは果実ではない。

 肉だ。

 血潮が通っていた。

 体温が通っていた。

 生命が通っていた。

 内側が白色をしている大脳皮質。

 わずか1mm平方に50万個ある小脳の神経細胞。

 生命活動の全てを支配する脳幹。

 脳に続く神経線維の束がある脊髄。

 公恵は、医学部の解剖実習で献体の頭を割ったことがある。ドリルで穴をあけ、糸鋸で頭骨を切り、頭蓋を外して脳を解剖し脳の構造を見た。

 でも、それは死んだ人間の脳だ。

 生きたままの脳の活動を、断面にしたものは生まれて初めてだった。

 公恵自身を狙って来た人ならざる《力》を持った咎人とがびとの末路とは言え、あまりにも凄惨な姿に公恵はむごいと感じた。人の臓腑は仕事柄何度も見ているが、それは治療を行うためだ。人を助けるためだ。同じ切るにしても、治療の目的もない青年の技は、破壊でしかなかった。

 はっきりと公恵は、理解した。

 太刀は、命を奪う凶器であることを。

 青年は跳躍して天井に着地。

 その下に、両腕を失った偸盗が居た。

 教会の天井を蹴る。

 そこを青年が上空から襲う。自由落下ではない。

 鋭く。

 重く。

 深く。

 地球の重力が、青年を引き込む勢いで。

 偸盗が青年の姿を認めた。

 鋭い杭が地面に突き刺さるように、太刀は偸盗を鎖骨の上から体を貫いた。

 狙ったのは、心臓。

 刀身を通して青年の手に、心臓の鼓動が伝わった。

 本来、心臓に向かっての刺突つきは禁物とされる。

 なぜなら、刺突つきによって刀身に血脂が多く付着し斬れなくなるからだ。それでも狙ったのは、心臓が生命維持をする上で、最も重要な臓器故。拍動が乱れる不整脈一つで、突然死に至ってしまうことを考慮すれば、刀剣をじかに突き立てられて生きていられる訳がない。

 偸盗の眼球が、殻を剥くように飛び出し、舌が信じられない長さで伸び痙攣けいれんを見せた。

 そして、力なく舌が垂れ下がった。

 即死。

 太刀を引き抜き、青年は偸盗の肩から再び地上に降り立った。わずかに遅れて、偸盗が地に顔面から倒れた。

 悪口の奇襲を開始とすれば、ものの10秒で、青年は二人の咎人とがびとを倒した。

 残りは、手傷を負った悪口一人。

 青年の視線の先に、口を斬り裂かれた悪口が居た。

 青年は軽く血振りを行い、刀身に付いた血脂を飛ばすと同時に、残心を決める。貪欲と偸盗が息を吹き返したとしても、青年に油断はない。

 一瞬にして口を斬り裂かれた悪口は、戦慄を感じた。

 事務所に居たヤクザ達を殺し、自分こそが、この世で最も強い生き物だと勘違いしていた。あの夜は、青年の攻撃に頬を斬られたが、周到に準備すれば、あの程度の男など一瞬にして引き裂くことができると踏んでいたのに。

 読み違えた。

「ク……」

 悪口は懐から拳銃を抜いた。

 ワルサーPPK。

 喰い殺した白菱組組長・菅村篤から奪ったものだ。

「拳銃!」

 公恵は映画やテレビドラマでは何度も見たことのある近代武器に、バーチャルでありながらリアルな恐怖を憶えた。

 だが、青年は拳銃という火器を知らないのか、歩みを緩めることなく無言で向かっていく。

 悪口は、射った。

 だが、当たらない。

 当然だ。

 拳銃というのは基本的に当たらないもので、ある程度の腕前でも10mがいいところなのだ。これは拳銃が命中率の低い火器だからではない。一番小さく簡単そうに見えるが、実は小火器の中で最も扱いにくいのが拳銃なのだ。そのため、拳銃を完全に使いこなせるようになるには、長年の訓練が必要になる。

 ヤクザの三下だった悪口は、そんな訓練などしたこともなかった。だから命中しなくても不思議なことではない。

 射つ。

 当たらない。

 また射った。

 5mを切った距離で。

 青年は太刀を顔の前に立てていた。

 銃声と同時に鳴る、鋭くも小さな金属音。青年の後ろの壁面で、二つの火花が散った。

 悪口は驚くが、青年は驚かない。

 公恵は分かった。

 青年が何をしたのか。

 いや、そうだと思っただけかも知れないが、そうとしか判断できなかった。

 太刀で、銃弾を二つに斬り裂いたと。

「そんな……」

 公恵は、その目で見た現実を超常現象のように疑った。

 正面から射たれた32口径、直径7.65mmしかない小さな銃弾を刃で受け止め太刀のしのぎの厚みを利用して外へと弾道を逸らせた。直径7.65mmと言えど、決して豆鉄砲ではない。

 32口径。

 直径:7.65mm。重量:4.6g。秒速:276m。銃口エネルギー:18kg‐m。

 なお、kg‐m(キログラム・メートル)とは、kg当たりの物体を1m動かす力のこと。つまり、18 kg‐m とは、18kgの物体を 1m動かすパワーがあるということだ。

 それを、こんな刀よりも古い太刀という刀剣との正面対決で、火薬で射ち出された銃弾を二つに斬り裂く。

 太刀には刃こぼれ一つなく。

 まるでアニメか映画の世界だが、実際日本刀の刃は拳銃の銃弾ごときは、たやすく斬り裂く程の切断能力と強度を持っている。

 これを証明したのが、刀匠・小田久山。

 昭和17年1月30日生まれ。

 機械工から三二歳で渡米し、ナイフ職人として20年間活動。五一歳で帰国し、刀匠・吉原義人に入門する。

 日本刀が観賞用の美術品とされる現代において、概してその評価は、波紋の美しさを対象にして下される。

 しかし、小田氏が自ら作る日本刀に求めるのは、あくまで機能美だ。斬ることはできても、すぐに折れたり曲がったりする日本刀は駄作である。反りの角度、重さ、幅、長さの整った斬れる刀を創造する。

 それが、刀匠・小田久山の志。

 2004年。

 この刀匠・小田久山の刀を使って前代未聞の対決が行われた。

 日本刀VS拳銃。

 それは標的として固定された日本刀に、銃弾を射ち込む対決。

 その対決に使われたのが、小田氏の日本刀「久山」。

 刃長66cm。厚さ6mm。日本刀の平均価格、90万円ほどの品。

 対する拳銃は、コルトガバメントM1911。

 1911年から1985年までアメリカ軍の制式拳銃として使われた自動拳銃オートマチックの傑作。制式拳銃の座をイタリアのベレッタM92FSに譲ることとなったが、今でもコルトガバメントは民間・軍・警察など数多くの分野で広く使われ続けている。

 使用される銃弾、45径は直径11.43mm、重量15gの銃弾を0.32gの火薬によって、音速よりも遅い秒速267mで発射する。至近距離での破壊力は9mmパラベラムの2発分と言われるが、低速大口径の最大の特徴は、相手の行動を止める力・人体抑止力マン・ストッピング・パワーだ。

 重い銃弾を低速で発射することで貫通力を低くし、銃口エネルギー54 kg‐m を叩き込み、1発で死に至らなくても人間の身体のどこに当たっても吹っ飛ばす威力がある。

 前代未聞の対の結果は……、日本刀が勝利した。

 日本刀は四五口径を真っ二つにし、日本刀は刃こぼれ一つしなかった。45口径の断面は、まるで砥石で研いだかのように滑らかだった。この結果に納得できなかった、コルトガバメントを提供したガンショップのオーナー、エミット・ディビス氏は、再度実験を頼み行われたが何度行っても結果は同様で、日本刀は刃こぼれ一つしなかった。

 日本刀の刃の強度。

 その秘密は、「折り返し鍛錬」にある。

 日本刀は鍛えるのに、鉄を叩いて延ばし、また折り曲げて鍛錬していく。1200℃に熱せられた地鉄に対し、水で濡らしたハンマーで叩く。水を使うのは、水蒸気爆発を起こさせ、酸化鉄などの不純物を飛ばすため。叩いて延ばし、また折り返すことによって、鉄を精錬させる。この「折り返し鍛錬」を行い何層もの鉄を重ねることで、強靭な鉄になっていく。

 だから、32口径程度を刀身で斬り裂くことなど、太刀にとっては造作もない。

当たり前の結果だ。

 ここで、驚嘆すべきは太刀よりも青年だ。

 32口径の速度は、秒速276m。時速にして、994km。直径7.65mmの音速手前の高速の銃弾を、正確無比の精度で太刀の刃で受け止めた青年は、常人の域を超越していた。

 プロ野球の世界において時速150km以上のスピードボールの場合、打者はボールが分かっていても打てないのだから。150kmのボールが投手の手から離れて、打者の前を通過するまでに、わずか0.4秒。

 しかし、人間の目がボールを捉えて脳が腕や腰に指令を送って、体が反応するまで0.5秒もかかってしまう。理論的に人間は150kmのボールを打つことは不可能だ。それでも打つ打者が存在するが、それは投手の動きから球筋を予測しスイングを始めるから可能なのだ。

 ましてや、150kmの6.6倍の速度がある銃弾を太刀で受けることなど、できる訳がない。これこそ荒唐無稽であるが、武術の達人は銃弾を察知しかわすこともできる。

 合気道の創設者・植芝盛平だ。

 植芝は多くの古武術を学んでいる。剣術、槍術、杖術などを得意とし、素手の体術でも不敗であった。大東流合気柔術から創設した合気道は、現代武道の一つに数えられながらも、勝敗を競ったスポーツとせず古流の趣を残し、未だに神秘の香りを失っていない。

 大正13年(1924年)。

 植芝が出口王仁三郎に従い蒙古に渡った際、超常体験をしている。植芝が出口と山中を行軍中、突如、左右の山陰から一斉射撃を浴びせられた。普通なら死んで当然の状況だが、植芝は銃弾を首や体を捻じって避けた。

 植芝は述べている。

「弾丸よりも一瞬早く、白いつぶてがパッと飛んで来る。パッと身を躱すと、後から弾丸がすり抜けてゆく。毎日そんなことばかりするうちに、自然と武道の極意がひらめいてきた。相手の殺意は、こちらの平常心が澄みきれば澄みきるほど直感・直覚できるものだということじゃ」

 と。

 ならば、青年も見えているのだ。

 《白いつぶて》が。

 だからできるのだ。小さな銃弾を一振の太刀で受けることが。

 ならば太刀で受けず躱すこともできたが、あえてそれをしなかったのは至近距離の悪口を前にしての体軸の揺らぎ、重心の乱れ、それらによって生じる平常心の乱れ。隙を嫌ったからだ。

 現実を受け入れられない悪口は、更に一発射つが同様に太刀で切り裂かれた。悪口は牙が砕けそうな程、噛んだ。

 青年は更に間合いを詰める。

 一足一刀の間合いに入った瞬間、青年の太刀は悪口を斬る。

 その直後、人格が変わったように悪口の口元に笑いがあった。脂の塊を、じっくりと火と熱であぶり、脂がしたたり落ちるような。そんな脂ぎった笑いだった。

 ワルサーPPKの銃口を向ける。

 青年ではない。

 悪口が狙ったのは、公恵だ。

「これなら、どうよ!」

 突然の事態に、公恵は向けられた銃口から逃げることもできなかった。

 既に、青年は走っていた。

 公恵は、悪口の左前方に居た。公恵の前に立つには、最低でも3mの距離があった。たかが、3mごときだが、銃口はすでに向けられている。

 間に合う時間はない。

 だが、悪口が引き金トリガーを引いた瞬間には、青年は公恵の前に立っていた。

 恐るべき、間詰もりの速さで。

 公恵と出会った時に見せた神速の動き。

 それは、ナンバ歩きによる瞬間的な極短距離加速だ。


 【ナンバ歩き】

 ナンバ歩きとは、江戸期以前の日本人の歩き方。

 右脚が出た時に右手、左脚が出た時に左手が出る歩き。同側同調歩行だと言うが、同側というよりは基本的に手を振らないで歩いていた。現在、我々が普通に行っている手と脚の逆側が同調して動く歩き方が、日本に定着したのは、幕末に西洋式の軍事教練が導入されてからだ。

 ちなみに、ナンバ歩きという名前は、後世の人が、現代的な歩き方と区別するために、便宜上名付けられたものだと考えられる。

 体を捻じらないで歩くナンバ歩きは、脚で地面を蹴って体を前に送り出すのではなく、重力を前進する力に変換して前に進む。体が前に倒れるのに合わせて、脚を前に送り出すようにして前進するのだ。普通は、歩くにしろ走るにしろ左右の脚が交互に軸足となり、徐々に進む速度が上がっていくが、ナンバ歩きを用いることで軸足を消す。

 しかし、そのために踏み出した脚が地面に着く前に後脚が前脚を追い越すという、物理的に矛盾したような形態になる。丁度、急発進しようとした自動車がホイルスピンを起こしているような状態だ。

 普通に考えれば、空転しているのだから遅くなりそうなものだが、足裏を地面に引っかけて加速する、《溜め》の瞬間がまったくないため、少なくともスタートの瞬間に関しては普通の走りよりも速い。

 つまり、この場合の速さとは時速何kmという速さではなく《間》の速さなのだ。


 ただし、この走りは踏み出した足の処理が難しいため、一歩目は何とかなっても、二歩目、三歩目とこの走りを維持することは困難である。

 だが、青年は維持した。

 三歩目まで。

 そして、瞬間的な加速で公恵の前に立ったのだ。

 連射。

 自動拳銃オートマチック特有のくぐもった音が二度、路地の上空へと突き抜ける。それを斬り裂く金属音を公恵は耳にした。

 公恵は無事だ。

 悪口は舌打ちした。

 ワルサーPPKの遊底スライドは、排莢口エジェクション・ポートを露出したまま後方に停止ホールド・オープンした。

 6発の弾薬が尽きたのだ。

 自動拳銃オートマチックの作動機能として、全弾を射ち尽くすと遊底(スライド)は後退した位置で止まる。

 予備の弾倉マガジンは持っていない。もとより悪口は、ワルサーPPKごときを使うつもりもなかったのだが、逃走するには充分であった。

 悪口はワルサーPPKを捨て、ヤモリのように壁によじ登った。

 そして、悪口は笑った。

 獣のような、化生の嘲笑だ。

 口が裂けたことで漏れる声がおかしくなっていたが、それは悪口の似姿に相応しい不気味な笑い声であった。ビルのへりへとたどり着くと、悪口は闇夜に飛躍ひやくし別のビルに跳び移り姿を消した。


 ……終わった。


 公恵は、そう感じるとやっと肩の力が抜けた。同時に、その場にへたり込む。

 青年の言った通り、戦いはすぐに終わった。

 実際の時間は、一分足らずの時間だ。

 だが、公恵には一時間にも感じられた。

 血振りを行った太刀を、青年は左手で鞘に導き納めた。

「ケガは無いか?」

 鍔と鞘が合うと青年は、公恵に訊いた。

 あれほどの戦いを終えたばかりというのに。

 青年は従容しょうようとしていた。

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