第16話 魔人包囲網1

 靴音が、嫌に大きく聞こえた。

 昼間と違い、夜ともなれば気温の乱れが少なくなり、遠い場所の音もよく伝わって来るが、足元の音まで昼間よりも大きく聞こえて来るのはそのせいだろうか。

 周囲に人が居ない訳ではない。

 通りから少し外れた道ではあったが、人通りも街灯もある。

 なぜと、佐伯公恵は思った。

 後ろを振り返る。

 今し方、すれ違った三人のサラリーマンが歩いていた。一人は酔っているようで、まだシラフな二人が左右を支えている。

 特に、誰が居る訳でもない。

 でも、嫌な感じがした。

 公恵は少し急いで帰ろうと考えた。

「近道……」

 公恵は、脇道を見た。

 街灯はある。

 昼間に歩いたこともある道なので、地理的にも不安はなかった。

 公恵は決めると、近道を選んだ。

 40m程歩いた。

 人とすれ違うことは無かった。

 後ろを確認する。

 誰も居ない。

 でも……。


 見られている。


 そんな気がした。

 それらしい人の姿は無いのに。

 ふと、ゾクッとするものを公恵は感じた。

 自分の真横。

 吹けば吐息がかかりそうな、そんな距離に人の顔を見た。

 長い髪をした顔を。

 驚いて、公恵はそちらを見た。

 本当に、女性が居た。

 白い歯を輝かせ、可愛い笑顔を浮かべている。手にはスマートフォンを持ちアピールするように指差していた。

 公恵は、思わず笑ってしまった。

 スマホの広告ポスターだ。

「こういうのを言うのかしら。幽霊の正体見たり枯れ尾花。……なんてね」

 怯え過ぎているだけ、公恵は思った。無理もない。あの日から一週間程しか経っていないのだ。部屋の中に居ても、闇の中に誰かが居るのではないかと思うことがある。

 気持ちを落ち着けて、公恵が歩みだす。

 脚が止まった。

 死ぬほど、驚いた。

 目の前に、人が立っていたから。

 ポスターではない。間違いなく人だ。宣伝用のポップスタンドには、等身大の物があるが目の前に存在する者を間違えようもない。

 紫の鞘袋を手にした青年が、公恵の前に居た。

 見目麗しい青年。

 名前は知らないが、公恵は青年を知っていた。

 あの青年だ。

 公恵は言葉が出なかった。

 いや、発する言葉が無かったと言うべきか。

 話の切欠を作る言葉としては、天気や時候を使ってあいさつをするが、青年との出会いが常軌を逸した出来事だけに、それが先行してしまい公恵は社交辞令も口にできなかった。何より、公恵は青年のことを知らな過ぎた。知っていること。

 それは、青年の顔。

 日本刀を片手に、牙の生えた男と一戦交えた。

 その程度だ。

 あまりにも知らな過ぎた。

 何も言えない程に。

 澄んだ声が、公恵の耳に届いた。

 誰?

 周囲を見るまでもなく、青年の顔に目が止まる。

 そうだ、彼以外にない。

「探した。ずっと探したよ」

 そう言うと、青年は目を伏せる。

 公恵は何も言えなかった。

 青年の言葉の意味が分からない。

 ただ、分かることは一つある。

 この青年に自分は命を助けられたということだけだ。

 感謝してもしたりない程の恩義を感じている。

 だが、公恵はそれを口にしなかった。

 何か、理由があるはずだと思ったからだ。

 その理由が何なのかまでは分からなかったが、少なくとも青年の方から公恵に会いに来たということは、何らかの用事があるということだ。

 ならばそれを聞こうと、公恵は考えた。

 礼を述べるのはそれからでもいいだろう。

「どうして私を」

 探したかを問うと、青年はすぐに答えた。

「佐伯公恵の命を救うためだ」

 何を言っているのか分からず、公恵は戸惑った。それに青年が自分の名前を、それもフルネームを知っていることにも驚いた。

 公恵は言った。

 どういう意味かと。

 すると青年は言った。

「白菱組という暴力団組織が、あんたのことを調べ、網を張っていた。幸か不幸か、今日はいつもとは違う動きをしていたことが奴らの網をすり抜けることに繋がって良かったよ。俺は、俺で探すのに手間取ったけどな」

 そこまで言って、青年は公恵を見た。

「暴力団組織って、どうして私が……」

 状況が分からず公恵は、困り果ててしまった。

 青年は、こう続けた。

「組長は、あの牙を生やした男だ」

 公恵は思い出し、ゾッとした。

 肉食恐竜の牙を無数に生やした男。

 あの時の恐怖を思い出し、体が震えるのを感じた。

 寒くも無いのに、歯が鳴るのを止められない。

 そんな公恵に、青年は言った。

「尾けられているぞ。ずっと」

 公恵は一呼吸遅れた。

 今まで感じていた視線の不安感。

 その正体を青年に追及する。

「あなたじゃないの?」

 しかし、青年は首を横に振った。

 違うと否定したのだ。

「じゃあ一体誰が私を見ているの……」

 問う公恵に、青年は静かに答えた。

「あの時と同じだ」

 その言葉に、公恵の脳裏に牙を持つ男が過る。

「まさか。あの男なの……」

 青年は、再び首を振る。

「同じ穴のムジナだが。別の奴だ」

 意味が分からず公恵は青年に問う。

 問いかけに青年は、答えなかった。

 公恵は驚いた。

 青年が公恵の手首を掴んだから。

 公恵は腕を引かれ抵抗しようとする暇もなく、青年の側に寄せられた。

「ちょっと」

 見知らぬ青年に手首を握られ、公恵は青年に文句を言った瞬間だった。公恵は甲高い音を聞いて思わず目を閉じ片手で耳を塞いだ。

 何が起こったのか理解できない公恵は、背後を振り返るがそこには何も存在しなかった。事態は理解できなかったが、何もないのだから安心に繋がると考えてしまいそうになって、公恵は無惨な姿を目にした。

 先程、公恵が見たポスターに極太のマジックで書き殴られたように、線が五つあった。ポスターの女性の、眼を、耳を、髪を、唇を、首を、その全てを塗りつぶしていた。

(線?)

 公恵はいったい何時、書かれたのかと思ったが、線の縁を見て思い違いであることに気が付いた。

 線の縁が捲れている。

 つまり、それは線を書いたのではなく、引き裂かれていたのだ。

 背筋が寒く感じた公恵の手を、青年は引くと走り出した。公恵にできることは引きずられないよう走ることだった。

「ねえ!」

 公恵の言葉など、青年は聞いていない。

 状況を理解できないまま、公恵も走る。

 その最中、公恵はアスファルトが引き裂かれ、側溝のグレーチングが引き裂かれる様を目の当たりにした。

 周囲で次々と引き裂かれる現実に対して、それと手を引く青年に対しても理解ができなかったが、立ち止まれば引き裂かれるということだけは分かった。故に、公恵は足を止める訳にはいかなかった。

 公恵は青年と共に、夜の道を走り抜けた。

 やがて二人は、人気の無い場所へと辿り着くと足を止めた。

 息を整えながら周囲を見渡す公恵に対し、青年は何も言わずにいた。

 公恵が周囲を見渡すと、崩れかけたレンガ造りの教会があった。

「教会……」

 名前は忘れてしまったが、戦時前の古い教会だというのを知っていた。

 3年ほど前に起こった震度5強の揺れで倒壊し、修復されることも無くそのまま放置されていることを公恵は思い出した。

 歴史的に古い建物であり、復元を望む声と、老朽化が著しいことから解体案が浮上しているということをニュースで見たことがある。

 公恵は、この教会の外観が好きだったので残念だと思っていたのだが、今はそんなことはどうだっていいことだと考えた。問題は、何故自分がこんな場所にいるのかということである。

 公恵は青年に訊ねた。

「どうして、ここに?」

 すると青年は言った。

「来たくて来たんじゃない」

 青年は続ける。

 あの時と同じだと。

 公恵には分からなかったが、青年は白菱組・戦闘部隊に追い込まれたのを思い出す。

 攻撃を仕掛けてくる頃合いだったのか、青年が現れたことで、尾行から攻撃に切り替わったのか分からなかったが、まんまと追い込まれたのは間違いない。

「追い込まれた」

 青年が言う意味が、公恵には分からない。

 だが、青年と出会わなければ今頃自分は命を落としていたかもしれない。

 感謝こそすれど恨む理由などどこにもない。

 それなのに、目の前にいる男は自分を睨みつけている。

 その理由が分からない公恵は、青年に訊ねるしかなかった。

 いったいどうしてなのかを。

 すると、青年は不機嫌そうな表情を浮かべたまま、言った。

 公恵は言った。

「どうして、そんな顔をするの?」

 私は、あなたに感謝してるのよと。公恵は言いたかった。

 青年は周囲の気配を探る。

「そうじゃない。俺一人なら良かったと思っているだけだ」

 公恵は言った。

「どういうこと?」

 青年は答えた。

「巻き込んでしまったことに苛立っている。俺を」

 吐き捨てるように青年は呟いたが、それが独り言だと分かっていても公恵は反応してしまった。

 確かに自分はただの医師だし、何か特別なことができるという訳ではないけれど、だからといって自分を責めることはないだろうと。

 そして公恵は思った。

 そうだとしたら、この人が不機嫌な理由は理解できる。自分のせいで誰かが傷付くことが許せない人なのだろうと。

 足元には買い物袋に詰められ、無操作に捨てられたゴミや空き缶があった。教会の奥が薄暗い洞穴の入り口のように見える。

 暗い場所。

 人は居ない。

 青年と、公恵の二人だけ。

 公恵は気が付いた。

 だから、何も聞こえないのだと。

 だからこそ、聞こえた。

 物音が。

 こんなにも静かでなければ、気が付かなかっただろう。

 それほど、柔らかな音だった。

 青年の足元に、鞘袋だけが落ちていた。それが何を意味するのか、公恵は考えるよりも前に青年の左手を見た。鞘に納められた日本刀の姿を。

 黒。

 それが、公恵の見た、その日本刀の第一印象だ。

 柄を鮫皮で包んで黒漆塗り、目貫には丸に三巴紋が高彫りされている。

 鍔は練革製の木瓜形で、四方には猪の目の透かし彫りが施され、木瓜形の大切羽が付属。

 鞘は猿皮で包んだ上から黒漆が塗ってある。二の足の金物には黒糸渡り巻きが施されており、金物類は無地の山銅やまがねで黒漆塗り。

 柄頭つかがしらには猿手さるでが付けられていた。

「刀……」

 公恵の言葉を、青年は否定した。

「違う。こいつは、刀じゃない。太刀だ」

「太刀?」

 公恵は訊き返した。

 

 【太刀】

 平安時代~安土桃山時代にかけて使われた彎刀わんとう

 全長:75~120cm。重量:0.6~1.0kg。

 太刀は現在、日本人がよく知る《刀》の前身となった刀剣で、一般的にその違いは《佩刀》と《帯刀》という着用の違いがあるとされる。

 太刀は鞘に設けた足金物に帯取をつけ、刃を下に向けて吊るす《佩刀》。

 刀は刃を上にして腰に差す《帯刀》。

 こうした着用の違いが生まれた理由は、騎馬戦と徒歩戦という戦闘形態にある。

 当時の武者は馬上にあることが多く、乗馬、下馬、騎乗時に妨げにならないようにする必要があったので、鞘は体に固定しない方が邪魔にならなかったこと。馬は神経質な動物なので、馬に乗る時には太刀のこじり(鞘の先端)が、馬の背中に当たらないように刃を下に向けて吊るす必要があった。

 また、元来は貴族のための佩剣はいけんである太刀は、衣冠いかん束帯そくたいでも身に付けられるように、下緒を用いて左腰にく(吊るす)ことが前提となっていた。

 これに対し、刀は帯に差し、刃を上にして差すのは抜きやすさからだ。

 右手を立てて柄を握り、左手は鞘の口に沿えてヘソの前辺りに持っていく。ここから右手で抜きつつ、鞘を持った左手を内側に握り込みながら下げると、丁度鞘の形が刀を抜く右手のカーブに沿い、苦もなく刀が抜ける。

 だが、太刀と刀の違いは着用だけでなく、その構造も異なる。

 太刀は刀に比べて、馬上で戦うために刀身ががいして長く、反りが強い点がある。太刀を抜くには刃を外にして高く引く抜くため、抜く、斬るとツー・ステップ必要になる。反りが深く長大な刀身を持つ太刀は、鞘から抜くのに手間取ってしまうデメリットがあった。

 対して刀は、そのまま引き抜き斬りつけられ、抜くから斬るがワン・ステップで行うことができ、瞬時の抜き打ちが可能となった。

 つまり、刀の抜き打ちに対して、太刀は一動作遅れることになる。

 太刀は刀のように迅速に敵と渡り合うのが難しかった。速やかに抜き合わせて敵を制するには、反りが浅く長過ぎず軽便で使いやすい刀が好まれるようになった。やがて太刀は騎馬戦から徒歩戦という戦闘様式の移り変わりによって、第一線の座から姿を消していく。

 だが、太刀の性能は刀に劣るものではない。

 騎馬武者が戦闘の主力となった時代に誕生した太刀は、そこに至る二つの理由があった。

 第一の理由は、騎馬武者が着用する重く強固な大鎧が、今までの直刀では断ち斬れないこと。

 第二の理由は、戦闘の規模が拡大するのに伴って、長時間の使用に耐えられる軽量性が求められたこと。

 頑丈かつ軽量な構造を追及されるという、この相矛盾する要求に、太刀の製法はかつてない工夫が施された。鎬筋しのぎすじを高くして棟に寄せ刃を肉厚にし、硬い対象物を斬るのに都合よくするのと同時に、鎬地は棟にかけての不要な重ねを削り取り、刀身の強度を増すと共に重量の軽減を図ったのだ。

 鍔元に比べて剣尖近くの幅が極端に狭い太刀は、小峰で踏ん張りが強い。

すなわち、片手でも扱いやすい軽量でありながら手元が重くなるように作られ、取り落とすことが少ない。反りは棟区むねまちに近い部分で極端に反った腰反りなので、馬上から斬り付ける際も反動が少ない。反対に物打ちから上は無反りなので刺突つきやすい。

 大鎧を断ち斬ることを目的としていただけに、両手で握って扱う時の斬撃力は非常に高くなり、熟練者の手にすれば人間に致命的な傷を負わせることはもちろん、人間の四肢を切断するには充分な威力がある。

 なお、太刀という呼び名は、断ち切る刀という意味である。

 太刀は、斬る性能に優れ、比較的軽量であるため扱いやすく、攻撃にも防御にも有利な刀剣なのだ。


 青年は、太刀を左腰に差す。

 そして、青年が柄に手をかけると、太刀がそれに応えるように姿を見せる。

 左手の親指は、すでに鯉口を切っている。

 針のような細い光が刃からはしった。

 青年の手に導かれるように、太刀は刀身を現し天に対し切先を向けた。太刀を抜く動作であったが、その青年の姿はまるで、天そのものに対して刃を向けた不敬者のようにも見えた。

 刃長、三尺五寸五分(約107.6cm)。

 刀身そのものには、ほとんど反りはなく、棟区むねまちに近い部分で極端に反った、その姿は初期の彎刀わんとうである毛抜形けぬきがた太刀たちを彷彿させる、古式ゆかしい作刀だ。

 それと同時に青年の澱みのない素早い抜刀は、舞踊のような美しささえあった。

 見事な抜刀だ。

 刃長三尺五寸五分(約107.6cm)の太刀を、苦も無く抜いたのだ。

 音もなく。

 あまりの静かさに、公恵は刃が抜かれている現実を直ぐに理解できなかった程だ。

 刀身を鞘から抜いていく際、音を立てることがある。

 これは、鞘内で刀身の刃、棟、鎬などが鞘の内側とぶつかっているためだ。鞘の中にある刀身は鞘と密着しているのではなく、はばきを中心に鞘の中で宙に浮いている状態になっている。

 刀身の一部が鞘の内側にぶつかる意味は、抜いていく刀身と鞘の角度が合っていないということであり、言い換えれば、鞘から真っ直ぐに刀身が引き抜かれていない。

 刀身と鞘がずれると、両者が不規則に接触してしまい、その時に音が出る。

 余計な音を出すことは、こちらの気配や存在を相手に悟られてしまうばかりか、刀身と鞘の余計な摩耗も生じ、鞘の内部を削ってしまう弊害もある。

 芝居などでは抜刀の効果音として刀身と鞘の擦れ合う音が鳴るが、剣術としては致命傷に繋がる。

 しかも、青年が手にしているのは、定寸の《刀》ではなく、長尺の《太刀》なのだ。

 刀は通常、鞘に納められた状態で腰に差されている。

 よって、得物として用いるためには、まず鞘から刀身を抜かなければならない。単に抜くだけの技術は、ほとんど意識されることなく軽視されてきた。誰もが、刀を抜くだけなら容易にできると先入観を持っているが、実際は違う。

 鞘は、ある程度固定されているため、右腕だけで抜き出そうとした場合、右腕の長さを超えていれば、そこで止まってしまう。

 刃長二尺三寸五分(約71.2cm)の定寸の刀ですら、素人が行うと想像以上の長さに体勢を崩してしまう。

 単純な動作で、抜刀はできないのだ。

 刃長三尺五寸五分(約107.6cm)の太刀ならば、なおさらだ。

 こうした長尺の太刀を抜くには、それなりの抜刀法がある。

 具体的には、柄を大きく右前方に押し出してからの抜刀が遣いやすくなる。押し出した鞘の分だけ、鞘を引くことができる長さが増える。こうした動きを取ることができれば、長尺の太刀といえども、定寸の刀のように抜くことができる。

 太刀を抜く。

 たった、それだけの動作だが識者しきしゃが見れば、その青年に様々な意味で震えを起こしていただろう。

 ある者は尊敬し、ある者は恐怖し、ある者は嫉妬と。

 だが、抜刀に際し、青年は神経を集中させ緊張して行った様子はない。青年にとって太刀の抜刀は、人が割り箸を紙袋から引き抜くくらい自然に見えた。

 太刀に公恵は、見るだけで恐ろしいものを感じた。剣士が持てば振っただけで、肉を裂き骨を断つ道具なのだ。美しさとは裏腹に、寒気を感じる。

 公恵の背筋が震えた。

「な、何をするの……」

 青年は、向き直った。

 ゆっくりと。

 いや、本当は素早かったのかも知れないが、公恵にはそう見えたのだ。

 風にそよいだ、カーテンのように青年は公恵に姿を見せた。太刀を手に、腰に鞘を差した姿を。

 青年の眼に、太刀の光が映っている。

 無機質な瞳。

「決まっている」

 手首を返すと、太刀の切先が上に向いた。

 公恵は太刀が振り下ろされると思った。

 違う。

 青年は、太刀を振り下ろすために、上げたのではない。

 それは下段からの斬り上げを意味していた。

 つまり、公恵が見た時のその太刀の動きは斬撃への動作ではなく、斬撃が終わった時だったのだ。

 公恵は、怖いと感じる暇は無かった。

 下段からはしった太刀は、予期しえない風のように吹き上がった。


 さっ、と


 青年の行動は、速やかだった。

 痛みは。

 ない。

 それでも、公恵は見た。

 人間の腕が、宙を舞うのを。

 それは右腕。

 公恵は息を吸い込むように、喉の奥で鳴いた。両手で口を覆い、教会の囲いに背をめり込ませる勢いですがり付く。

 右腕は地に落ちると、トカゲの尻尾のように暴れた。

(え?)

 公恵は自分の両手を見た。

 存在した。

 それなのに、目の前に腕が転がっている。公恵は自分の腕でないことを知ると同時に、その腕の異様さに気が付く。

 爪が鉈のように厚い。

 指が枝のように長い。

 掌がヒラメのように広い。

 腕の、その先に公恵が目をやると、闇と光の間に男が居た。

 人体の構造とは興味深いもので、指先を伸ばし両腕を左右に広げた長さは自分の身長と同じ長さになっている。

 だが、この男に、その常識は通用しない。

 腕の長さは、ゆうに身長の5倍はあった。

 まるで、手長エビのような男が、切断された痛みに呻いている。

偸盗ちゅうとうに堕ちたか。手癖が悪い手で、よくも追っかけまわしてくれたな」

 青年は男に目を細めた。

 突然、公恵は青年の胸に抱かれた。

 公恵の腰に青年の左腕が回され、公恵と青年は密着する。

 頬が染まるよりも前に、心臓が止まるかと思った。青年は、男の視線を遮るようにして立ち塞がっていたのだ。

 青年は、そのままの姿勢で囁く。

「俺に掴まってろ」

 声は低く小さい。

 しかし、公恵は耳元に吐息を吹き掛けられたような感覚に陥る。

 幼子が親に愛情を求めるような強さで、公恵は青年にしがみ付く。

 ぞくりと、公恵は震えた。

「!」

 公恵は、状況を理解できなかった。

 青年は、状況を理解していた。

 公恵を片腕で抱えたまま、青年は突然後方に滑るように三間(約5.46m)も下がった。

 まるでエビが危険を感じたかのような動きに、公恵は何事か分からなかったが、その意味は直ぐに理解できた。


 爆発


 突然の轟音に公恵は青年の胸に顔を埋め、青年は太刀を持った右腕で公恵をかばい、飛んで来るアスファルトの破片から身を守った。幸いにも大きな破片は降りかからなかった。

 青年と公恵が立っていた場所に、巨大な穴が開いていた。

 少しでも遅れていれば、公恵は爆発に巻き込まれていた。

 誰かが、爆発物を仕掛けたのか?

 そうでないことは、公恵以外の全員が理解していた。

 手が出てきた。

 暗い穴から。

 普通の大きさではない。

 その手の前では、バケツがコップに見えてしまうほどの大きさ。そこから、男が……巨人が這い上がって来た。

 下水道に潜んでいたのだろう、途端に悪臭が周囲に漂う。

 公恵の視線が高く上る。

 4m。

 いや、5mか?

 巻尺スケールを持っていない公恵に、正確な計測などできようはずもないが、巨人は絶望を感じる身の丈だ。

 青年は公恵を後ろへと下がらせる。

 怯えることを知らない様子で、青年は言った。

貪欲どんよくか。欲のでかさが、身体を大きくしたな」

 青年は、さらに見上げた。

 巨人を見ているのではない。視線は、その遥か上を見ている。

 公恵も見る。

 心臓が驚愕し、公恵は口を覆う。

 街灯に、男が張り付いていた。

 頬に刀傷を持つ男・悪口あっく

 あの夜、青年が斬ったものだ。

 悪口が口を開くと、凶悪な牙が並んでいた。

「俺達が追い詰められたところで、役者がそろった訳だ。咎人とがびと

 青年は周囲を一瞥する。

 悪口の男が低く笑った。

「俺達のことを知っているとはな」

 公恵は恐怖を堪えながら、二人の会話を聞いていた。

 何故なら、青年の左腕は公恵を抱えていたからだ。

 青年は、公恵を庇いながら戦おうとしている。

 公恵には、それが分かった。

「貴様。どこまで知っておる?」

 悪口は青年に訊く。

 青年は、答えない。

 代わりに、太刀の刀身を左脇へと引いて腰を落とした。

 これによって、青年の全面は太刀を突き出していない関係でガラ空きになった。

 完全に隙だらけになる。

 青年の意図が分からない公恵が叫ぶより早く、悪口は動いた。

 地上に降り立つと同時、悪口は跳んだ。

 跳躍力は、人間の比ではなかった。

 一瞬にして、3階建てのビルに相当する高さに達すると、空中で前転し落下速度を増していく。

 青年に襲い掛かる気なのだ。

 だが、それは青年にとって計算の内だった。

 着地の瞬間を狙っていたのだ。

 青年は公恵を背後に隠すと、太刀を左脇から疾らせる。

 刹那、金属音が鳴り響いた。

 青年が振り抜いた太刀。

 青年の剣速は神速に達していた。

 公恵の目では捉えられぬほどの速さで、青年は横から斬り抜く。

 公恵は見た。

 宙空ちゅうくうに舞う何振もの刀身が、地面に落ちる様を。

 その様は、まるでコマ落としのように、ゆっくりと見えた。

 公恵は青年の太刀が折れたのかと思ったが、そうではなかった。

 公恵の目の前で、折れたのは悪口の長ドスの方であったのだ。長ドスを3振、番線を使ってシノで締め上げ束にした一種の強化刀だ。

 刀鍛冶崩れが、片手間の小遣い稼ぎで作った長ドスではあるが、それでも3振を束にしたことで強度は増している筈だ。それを青年は、たったの一閃で切断し折ってしまった。

 日本刀の凄さというのは、日本人が自画自賛しているだけではない。中世以降の西洋や大陸でも、日本刀は最強の切れ味を誇ると知られてきた。

 刃先の硬度が金属加工に使われる高速度鋼に匹敵するものもある程で、まさに鉄をも両断する。 

 悪口は青年の太刀に対抗する為に用意した刀剣だったが、余りにも脆弱過ぎた。

 その事実に気付いた時には遅かった。

 攻撃が入る。

 青年は、すでに悪口に左肩を使い腰の入った身の当りをする。

 悪口の身体を、軽々と吹き飛ばす。


 【身の当り】

 現代で言えば体当たりのことになる。

 幕末の剣豪であり、近代剣道の始祖でもある千葉周作は、体当たりも含めて打ち込み稽古の効用を自身の書『剣法秘訣』のなかで次のように説いている。

 「此の打ち込みの業は、向ふの面へ左右より烈しく小技にて続け打ちに打ち込み、或は大きく面を真直ぐに打ち、或は胴の左右を打ちなどすることにて、至極達者になる業なり」

 と、周作は述べ、「打込十徳」として十ヵ条を挙げている。

 また、、宮本武蔵は『五輪書』【水之巻】身のあたりと云事にて、少し顔を横に向けて、自分の左の肩を出して、敵の胸に当たる。自分の身体を出来るだけ強くして当たること、状態によっては、跳び込むように入ること。

 と、要諦を書き、この入り込む方法を習得すれば、敵が二間(約3.6m)も三間(約5.5m)も撥ね飛ばすほど強いものである。

 と記す。


 身当りを食らった悪口は、五間(約9.1m)も飛ばされてコンクリートの壁に激突した。

 悪口は、ヨロめきながらも立ち上がる。

 だが、ダメージはかなり深刻であるらしく、足取りが覚束ない。

 本来なら、そこに追撃をかけるところだが、青年は公恵の側を離れることができなかった。なぜなら、貪欲の口の前に風が渦を巻いて集まっていたから。

 巨体による肺活量とは異なる息吹だ。

 口の前に直径50cm程の球体が形成されており、そこに竜巻が暴風となって渦巻く。

 そして、その球体が大きく膨張する。

 公恵は何が起こっているのか理解できなかったが、危険なことが起きようとしていることだけは理解していた。

 貪欲が攻撃態勢に入った。

 青年は、舌を打つ。

「妖術」

 忌々しく青年は呟く。

 

 【妖術(Witchcraft)】

 それは、悪魔もしくは彼らの悪霊との契約によって行使される術。

 妖術(Witchcraft)におけるwitchは、アングロ・サクスン語のwicca(妖術をおこなう者)に発しているが、ドイツ語のwissen(知ること)とwikken(占うこと)にも関係している。

 日本を含めた東洋においては、妖術と魔術との間に明確な区別はない。妖術も魔術も、同じように神秘的で、常識では考えられないような力を発揮する。

しかし、西洋では妖術のことを広い意味で魔術と呼んで研究されてきた。魔術は多くの人々によって試みられ研究され、その結果は科学を発展させることに役立ち、また、宗教としての役割を果たす。

 魔術の根本には、この世に存在する全てのものには、相互に影響を及ぼすとの世界観がある。天にある星の動きが地上の出来事に影響を及ぼし、人間の行為や想念すらも、外界に影響を及ぼすことになる。魔術とは、この超自然的な影響関係を利用し、自己の望むとおりの結果をもたらそうとする技術だ。

 19世紀の魔術学者エリファス・レビィは魔術と妖術の違いについて、次のように話している。

《妖術使いは、悪魔に使われる奴隷だが、魔術使いつまり魔術師は、悪魔よりも偉く、悪魔の支配者である。だから、妖術よりも魔術の方が尊い》

 と。

 すると妖術を使う悪魔は、魔術師以下ということになるが、これはあくまでも魔術が学問によって得られる叡智に対し、妖術は契約によって安易に得られる怪異の術という比較。妖術に対する痛烈な非難と言える。

 キリスト教会によれば、妖術を禁断の術とし、地上での悪魔・悪霊での行為を助けるために契約を行ったものとみなした。

 スコットランドのジェイムズ6世王は妖術に関心を持っており、この暗い領域悩まされていると噂され、レギナルド・スコットは『妖術の暴露』にて嫌疑の見解をした。

 神を棄て悪魔に全てを捧げることによって得られる妖術は魔術以上に恐ろしさが秘められていると考えられる。なぜなら、悪魔とは、神の敵、人間を陥れる存在なのだから。

 基本的に異世界の住人は、この世で破壊行為を働くことができないとされる。

 そのため悪魔・悪霊は奉仕する人間を、契約によって獣に姿を変える力や、穀物を枯らす力、空を飛ぶ力などを与え、自分達の邪悪な行為に取り込もうとする。自らの魔術的な力の源泉および提供者として、悪魔は人間に超自然的な妖術を与える。

 つまり、本来妖術とは異世界の住人の術と言える。

 この世界の常識・物理法則とは異なる異次元の法則を捻じ曲げて、人間の世界で超自然的な出現を引き起こし物理的事象として実現を果たす異界の術だ。


 このままでは、公恵まで巻き込んでしまうだろう。

 最善の対処としては、この場から逃げることだ。

 その時だった。

 偸盗の長く伸びた腕が、横薙ぎに鞭のようにしなって伸びてきたのだ。

 横に逃げられない以上、後ろに引くしかなかった。

 青年は公恵を攫うように抱きかかえる。

 横抱き。

 いわゆるお姫様抱っこと呼ばれる人の抱え方だが、当然のことながら運搬者の腕力が被運搬者の重量より強くなければならない、負担の大きい持ち上げ方だ。

 だが、青年に公恵を抱えることに苦はない。

 迫る驚異の方が危険なのだ。

 不謹慎だが公恵は青年の腕の中にいることに安堵を覚えていた。

 青年の名前も、生きてきた人生も、何も知らない。

 それでも、この青年は自分を守ってくれる。

 それだけで充分だと思った。

 青年は公恵を抱き上げたまま、教会内に退避した。

 教会の中は、外から見た時以上に荒れ果てていた。

 窓ガラスは割れ、壁には無数の穴が穿たれている。祭壇には、十字架が倒れている。

 しかし、ステンドグラスの窓には、奇跡的にガラスが残っていて、そこから月明かりが射し込んでいた。

 それによって、室内は暗闇という程ではなくなっていた。

 青年は公恵を下ろす為に、床の上に座り込んだ。

 すると、貪欲の口が放ってきた竜巻の塊が二人を襲う。

 教会の入り口を破壊し長椅子をなぎ倒しながら、それは二人の方へと迫ってくる。

 竜巻が爆発した。

 轟音と共に爆風が巻き起こり、二人が居た場所は爆煙に包まれる。

 バラバラになった木片やコンクリートの破片が、上がりきらない雨のように教会内に降り注ぐ……。


『魔人包囲網2』に続く

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る