第3話 うねる空

 公恵は白衣に着替えた姿で、病院の仕事部屋にいた。

 そして、不機嫌でいた。

 紅白色のブナ材で作られた置時計の時刻は、午前三時を過ぎている。

 それなのに公恵が、仕事場に居たのには訳がある。    

 最も近い救急体制がある病院で、ベッドの空きがあったのが公恵の勤務する日ヶ崎総合医療センターであった。当直医は公恵以外にも居たのだが、患者の状態を一番良く知っているのは自分であったことから、公恵は自ら執刀医を申し出たのだ。

 こうしたことがあるから、公恵は飾ることをしなかった。

 緊急の患者が来る度にアクセサリーを外したりしている暇はない。何のひねりもないセミロングも髪止め用ゴムで、まとめれば直ぐに仕事に入れるようにとの、公恵なりの工夫であった。

 手術前の検査で、公恵は少しだけ自分の予想と外れていたことが、良かったと思った。心配していた脊椎の損傷はなかったのだ。

 だが、外傷性のショック症状を起こしかけており、楽観視できるものではなかった。

 ケガをした時、痛みだけでなく眩暈めまいや嘔吐感を催したりすることがある。

 これが軽いショック症状だ。負傷した時には、精神的に打撃を受けることで多かれ少なかれショック症状が伴うことになる。損傷よりも、ショック症状から錯乱状態に陥ってしまうこともあり、バカにできない症状なのだ。

 切創は右肩を中心にしたもので、手術は数時間に及んだ。


 ……そして、無事終了した。


 手術を終えた公恵を待っていたのは、患者の両親であり、刑事達であった。

 刑事達の事情聴取を後回しに、公恵は患者の両親に術後の説明を行い、楽観できる状態ではないものの危機を脱したことを告げると、患者の両親は泣きながら 何度もこうべを垂れて感謝を述べた。

 それから、公恵は不機嫌を感じた。

 そうなったのは患者の両親ではない、刑事達だ。

 事件性がある患者であったので、警察には消防機関が連絡を入れていたのだ。

 だが、第一発見者の公恵に対する刑事達の行為は不機嫌極まりないものだった。

 公恵は、事件発生前の状況から、発見時に至る過程、更には被害者の状況に至るまで微に入り細をうがつように事情聴取されたのだ。

 なぜ現場に居たのかという事情はもちろん、被害者をどのようにして発見したのか。

 また、損傷の状況、被害者と話したこと、応急処置のことなど、徹底して状況をこと細かく訊いてきた。

 こうした細かいことから、事実を確認して判断するのが警察の仕事なのだろう。ある程度は、納得できるものがあったが、公恵にはどうしても許せないものがあった。

 それは、眼だ。

 まるで、犯人を値踏みするような眼で、事情聴取を行う刑事達が嫌だった。

 いつ、どこで、何があったのか刑事達は疲れるくらいに繰り返す。実際、手術を担当した後の疲れが、すでに出ていた。

 公恵は、少し上の空に刑事達の話を聞く。

「では、怪しい人物を見ませんでしたか?」

 中年の刑事は、訊いた。

 と、その質問に公恵は、ふと現在から過去に引きずり戻された。

 凶悪な牙を生やした男。

 そして、日本刀を持った、あの青年を思い出した。

「……いえ、見ていません」

 公恵は、そう答えてしまった。

 事情聴取が終わってから、何を言っているのかと、自らに問いかけた。あの状況、患者の傷から見て青年の持っていた日本刀が凶器であり、犯人は彼である可能性は充分過ぎる程あった。

(けど……)

 心の内で呟いて、青年の言ったことを胸の中で反芻はんすうした。


「生きているか」


 その時は、状況が状況だけに冷静に判断できなかったが、今思うと青年の物静かな語り口は、女性の身を案じている気がしてならなかった。

 それに、青年の眼はとても人を傷つけるものには見えなかった。公恵は人生の中で、何百という人と接して来たが、眼を見た第一印象からどんな気質の人間か、判るものが公恵にはあった。

 超能力。

 という程ではない。

 何となくであり、俗っぽい言葉で言えば、女の勘というものだろうか。

 女は子宮でものを考える。

 と言われる。

 これは、男性が物事に対して理論的に処理する傾向があるのに比べて、女性は、いざとなると直感や思いつきで決断することがあるため、こう言われたらしい。

 つまり、女性の方が、男性に比べるとより動物的で、頭脳ではなく本能の働きが大きく影響するということだ。

 それは、人間の本能の中から既に退化したと言ってもいい第六感、いわゆる勘が、理論的な男性よりも優れているということ。女性の直感が鋭いのはそういう訳だ。

 公恵が、青年の眼に感じたもの。


 雨上がりのさわやかな風、輝く月のように清らかな静けさ。


 ……公恵は一人でわらった。

 言葉にして、詩人にでもなったような自分を。

 ともかく、そんな眼をした人間に、公恵は出会ったことすらなかった。初めて感じた、それに彼が犯人だと決め付けて警察に話す気になれなかったのは、刑事達に対する反感もあった。

 殺そうと思えば、殺すことができたのに、青年はそれをしなかった。

 考えてみれば。

 いや、考えなくとも、自分の背後に居た男の方が青年よりも怪しい。

 あれは人間、

       ……なのだろうか。

 男の剥かれた口に存在したのは、人の指程もある無数の牙。肉に喰らい付き、肉を引き千切る以外に一切使用できない歯の構造だ。公恵は牙の並んだ男を思い出して、身震いした。

 あれは、人間の歯などではない。

 人間に生えるものではない。


「テメエ……よくも邪魔を」


 それは、男が口にした言葉だ。

 公恵は背後に、そんな男が迫っていたことにも気が付かなかった。もし、青年が日本刀を突き出さなかったら……。

(頭から喰われていた)

 あの男は、自分と患者を狙っていたのか。

 ということは、あの青年は……。

 考えて、公恵は再び嗤う。

 どこの誰とも知らない青年を、日本刀という凶器を持った人物を、犯人ではないと考え始めている。そんな自分をバカだと思いつつも、信じても良いような……。そんな想いが公恵にはあった。

 被害者の女性への事情聴取は、状態の回復を待って行われるとのことだ。牙を持つ怪人のことを口にしたところで、信じてもらえるものではない。自分が言わなくても患者が知っていれば、真実を話してくれるに違いない。公恵は、そう思うことにした。

 窓の外を見た。

 暗夜。

 夜明けは近いようで、まだ遠い。

 疲れに公恵は、窓に背を向けた。

 溜息が漏れた。

 公恵は感じた。

 深くのしかかる濃い影を。

 獣のような息を。

 はっ、として公恵は後ろを振り返る。


 ……。


 何かが、居た。……気がした。

 …と、思う。

 窓ガラスに手を触れた。冷ややかな感触が、公恵の掌に伝わった。真冬でもないのに掌が持つ湿度が瞬時に凍り、貼りついてしまったようにも感じた。

 公恵はガラスに貼りついた指を、皮が剥がれるのではないかという恐ろしさを胸に、恐る恐る指を上げる。

 予想に反して指は、あっさりと剥がれた。続く掌も。

 公恵は、ゆっくりと外を眺める。

 深い。

 まるで、深海の。海溝の奥底に広がるような闇がどこまでも続いていた。

 病院の立地は、街の中心地ではなく、やや郊外。小高い山の稜線が見える林の裾に建てられている独立行政法人が運営する総合医療センターだ。

 明治に創設された陸軍病院を前身とする歴史があり、許可病床数六〇〇。循環器、精神、呼吸器を始めとし標榜診療科が二四科ある。静かな場所での治療と療養という看板を病院側はアピールしているが、土地の購入のしやすさと、病院の拡張を予定しての立地だったのだろう。人家が少ないからか、医療事務員の話によれば、狐狸の類が見られるという。

 ふと、公恵は汚い大人になったものだと思った。言葉の裏に隠された意味を読み取ろうとする。

 昼間でも静かだが、夜ともなれば静けさが更に増す。

 嫌な言い方をすれば、怖いくらいだ。

「気のせいね。ここは二階なのに」

 公恵は再び時計を見た。

 午前三時六分を指していた。

「草木も眠る丑三つ時か……」

 ふと、そんなことを呟いて、午前三時前後は人間の精神活動が最も鈍くなる時間というのを、何かで読んだことを思い出した。

 再び溜息をついた。疲れに。

 糖分を欲して来た体の欲求に、公恵は院内の自動販売機に向かうことにした。砂糖の量や、クリームの量を好みで増量できるタイプのものだ。カフェインレスコーヒーを選べば少しは仮眠を取ることもできる。どうせ、このまま帰っても自分の部屋に着いて、休む間もなく出勤に追われることになるのだ。

 糖分を補給し、身体を内側から温めて休息する。そう考えての、一服だった。

 公恵は部屋を出て、自動販売機に向かって歩き始めた。深夜の院内に公恵の靴音だけが響く。まるで、この世に公恵だけが存在しているような気分になった。

 窓の外に広がる夜を一瞥する。

 そこには、不安な面持ちをした公恵が居た。

 窓に映る公恵も一人だった。

 だが、そのガラスの向こうの世界。医院を望める位置に、一人の青年がたたずんでいたことを公恵は知らなかった。

 左手に紫色の鞘袋を持った青年。

 あの青年だ。

 病院を見る。

 そして、空を見上げる。一切の星が見えない。暗雲が蔓延しているのだ。

 青年の目が細くなった。

 姿も判らぬ巨大な魚妖が、鏡のような湖面を遊泳することで、毒し汚すように。

 空が、うねっていた。


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