第2話 鬼魅

 あつい感触。

 女性は、夜の帳の下で、それを手に感じた。

 一見して飾り気のない、小柄な女性だ。

 指輪もネックレスもしていなければ、何のひねりもないセミロングの髪は染髪の形跡もなかった。爪の手入れはきれいだが、ネイルアートはおろかマニキュアすらしていない。

 メイクについても、リップにファンデーションの最低限のメイクのみで済ませてある。

 だが、決して魅力が無いわけではない。

 バラのように輝く美しさは無いが、野の花のような可憐さがある女性だ。

 女性・佐伯公恵さえききみえは、その感触に少し呆けた。

 あつく濡れた自分の掌は、赤く染まっていた。その正体が何かは、医師という仕事柄、夜であっても公恵には分かった。

 鉄の臭い。

 それでいて、生臭いもの。


 血


 だ。

 それが、掌から雫になって地で弾けた。

 立ち眩みに似た感覚に公恵は、頭の中が白くなった。人の生死を見続けた歳月により激しい動揺に陥ることは免れたが、状況の判断は遅れた。

 視線を落とした先に、若いOLがうつ伏せに倒れていた。年齢にして20代半ば。公恵より幾分若い女性だ。

 これは、自分の血ではない。根拠を目にする。

 女性の背には、ぱっくりと割れた傷が一つ。右肩から腰の左に向かって定規で線を引いたように存在していた。

 傷は……、浅くない。

 傷口からあふれ出る血の量によって、傷の正確な深さは判断できないが、骨にまで達するものだろうか。そうでなくても出血は多く、傷の酷さを伺い知ることができる。

 公恵は冷静に状況を判断することで、経緯けいいを思い出した。

 病院での勤務を終え、ファミレスで友人と少し遅い夕食を取った。大学時代の友人に彼氏ができた話しに、観賞に失敗した映画の話題と、他愛のないおしゃべりに何気なくも楽しい時間を過ごした後の帰宅中だった。

 友人と別れる際、時計を見た。

 すでに、午後八時を過ぎていた。

 少し長居をし過ぎただろうかと考えつつ、夜道を歩いていた。すると、ビルとビルの間にある路地から不意に現れた女性が、公恵に向かって倒れ込んで来た。

「え?」

 状況を理解できぬまま、訳が分からぬままに女性を抱き止めることによって、公恵の手に血が付く結果になり呆けてしまったのだ。

 公恵は状況を理解すると、女性の意識を。

 いや、生死を確かめた。

 そっと、頸部に触れて脈の有無を確かめる。

 脈は…………、ある。

「き……、聞こえますか! 名前は言えますか!」

 公恵は、大声で呼びかけ、携帯電話で急ぎ119番通報を入れていた。回線の接続音を聞く中、女性の表情を観察していると、ゆっくりと目を開けた。

(意識がある)

 そう思うと同時に、電話は繋がった。

 緊急通報のため携帯電話のGPS情報が消防機関に伝わっているだろうが、念のために自分が居る場所と患者の状態を伝えると、公恵は女性に聞かせる。

「救急車が来るから、もう大丈夫よ。必ず助かるから、しっかりするのよ!」

 すると女性は、声もなく微かに頷いてみせた。

 公恵は自分のジャケットを脱ぐと、少しでも止血するためにジャケットを女性の傷に押し当てた。脊椎を損傷していることを考え、背骨を圧迫できないが、出血の多い肩をできるだけ強く押さえた。圧迫による止血法だ。

 公恵のショルダーバッグにある、携帯用の救急ファーストエイドキットを使うべきかと考えたが、これほどの重傷には焼け石に水であり、暗いことも考えれば下手な処置はできない。

 ここは救急車の到着を待つべきだと判断した。

 公恵のジャケットは、瞬く間に血で熱く濡れて来るのが分かった。公恵は改めて傷の深さを知りつつ、女性の姿を見た。

 何度も転んだのだろう、掌と膝には擦り傷で血が滲み、靴は履いていなかった。そのためパンストは使い古された靴下のように痛んでいた。命からがら逃げ延びたのが取れた。

 ふと、公恵は思った。

 何から?

 と。

 ジャケットは、濡れた雑巾に似た感触に変わっていた。女性が、何者かに襲われたという事実に気がついたのだ。

 まだ、その犯人が近くに居るかも知れない……。

 公恵は急速に渇きを憶え、唾液を飲み込んだ。

 しかし、糊が乾燥したように渇いた喉は潤いを感じない。

 恐怖を知った公恵は、女性が逃げてきた闇を見た。

 暗い、路地。

 あらゆるものを飲み込むように深く、黒い空間がそこにはあった。肌が寒気を感じ震えたのは、ジャケットを脱いだせいだと思いたかった。

 だが、公恵は見てしまった。

 闇に光った、刃先の存在を。

 刃先は地の上、数cm手前に浮いていた。

 その刃先をたどるように、公恵の視線が上へと昇っていく。

 5cm……。

 14cm……。

 27cm……。

 まだ、上がある。

 33cm……。

 46cm……。

 55cm……。

 61cm……。

 70cm……。

 公恵は、もう嫌になった。

 87cm……。

 92cm……。

 107cm……。

 そこまで昇って、刃はやっと終わりを見せた。

 それは、ナイフや包丁などではなかった。本物を見るのは初めてだったが、知っていた。

 斬ることを目的とした武器・日本刀だ。

 だが、長い。

 刃長、三尺五寸五分(約107.6cm)。

 それは異様な長さだ。

 正保二年(1645年)。

 江戸幕府によって規定された刀の定寸は、二尺三寸五分(約71.2cm)。それを鑑みれば、その日本刀がいかに長尺であるか分かる。

 日本刀は時代によって古刀・新刀・新々刀・現代刀の四つに分類される。

 新々刀のうち勤王刀は、幕末に勤王の志士が好んで差した刀で、刃長は二尺七寸~八寸(約81.8~84.8cm)程の刀をいう。

 土佐の志士が特に長い刀を愛用したために呼ばれた《土佐の長刀》もこの長さだ。実用刀としてはこの長さが限度であり、これ以上のものは献上刀か奉納刀であるとされるが、三尺(90.9cm)以上の長刀を用いた記録はある。

 安土桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍した剣豪、佐々木小次郎だ。

 小次郎が愛用していたのが、長さで伝説を生んだ日本屈指の長刀・物干竿。

 その刃長は、三尺三寸(約100cm)もあったと言われる。

 物干竿の名はあまりにも長かったことから後世の人がつけた愛称で、その意味自体は侮辱的な要素が大きいというのが現在の解釈となっている。巌流島の決闘で、宮本武蔵の前に敗れたことから、小次郎の刀は単なる長すぎる刀であったとしたのが要因であろうと。

 だが、決して物干竿が駄刀であるという解釈にはならない。

 物干竿は、備前長船の二代目・将監しょうげん長光ながみつの長刀であったと伝えられる。

 初代・備前長船長光や備前長船倫光などが国宝に指定されるなど、備前長船は名刀の代名詞として知られており、備前長船長光も例にもれず名工だ。現存こそしていないが、物干竿の斬れ味は相当なものであったと想像できる。

 あまりに長すぎる刀は、鞘から抜きにくくなったり、重量が増したりと不利な点が多い。

 しかし、佐々木小次郎は長さという欠点を長所とし、能力を最大限に生かした独自の流派・巌流を創始し、秘剣・虎切。またの名を《燕返し》を編み出した。小次郎は、西国一円の名のある兵法家を次々に打ち破り中国・九州地方で知らぬ者はないまでになっている。

 公恵の見た日本刀は、実用刀としての長さを超えてもいれば、物干竿を超える長刀でもあった。

 そして、その日本刀を手にした人物がいた。

 洗いざらしたジーンズに、黒いジャケットをラフに着こなした青年だ。

 ふと、心地よい春風を肌で感じ入るように、心を忘れさせるものがあった。それが何かは、はっきり分からないが、あまりにも普遍的で、あまりにも使い慣らされた言葉にするなら、これしかなかった。

 美しさ。

 であった。

 癖のない艶やかな黒髪を背まで流し、その髪を房の付いた蒼い紐を使い首の後ろで一つに結っていた。

 額にかかる髪の間からは、凛然たる双眸があった。澄んだ黒い瞳は、高く広がる空や、どこまでも広がる海を思わせる高揚さがある。

 だが、女性にも稀な、その見目麗しい貌は、ただ顔形が良いから美しいのではなく、練磨された精神が見せる品性そのものだ。見る者に目からだけではなく、肌に、耳に、何より心に、深く快く感じられるものがあった。

 徳が。

 品性を得た者には、徳が生まれる。

 青年の美しさの本質は、それであった。

 公恵は数瞬ではあったが、瀕死の女性のことを忘れ青年に魅かれた。

 芸能人や俳優ならば誰でも構わず黄色い声を張り上げるような、みいはあで惚れっぽいという意味ではない。

 緑の優しい草原が見せる大地の尊さ。

 青くどこまでも輝く海の偉大さ。

 赤く染まった夕焼けの壮大さ。

 大自然が生み出した美しさは、人心を惹きつけてやまない。気高い徳を感じさせる青年に、公恵はそう言った意味で魅かれたのだ。

 だが、公恵はすぐに現実に引き戻される。血臭の漂う、この場所では場違いだ。何より、青年は日本刀を手にしていた。

 女性の背に付けられた傷の大きさ深さを推察すれば、凶器となったのは包丁やナイフといった小ぶりの刃物ではなく、日本刀が相応しかった。

 今ここに、この傷に該当する凶器を青年は持っていた。

 刃は、血の通わない無機質な光を湛えている。

(殺される……)

 公恵は思うと同時に、身体が驚いたように反応した。それは死神に、優しく肩を叩かれた気がしたからかも知れない。頭皮の毛穴が閉まる感覚が広がり、髪が白髪と化しているのではないかと思った。生まれて初めて経験する生命の危機に、公恵は悲鳴も出せない。

 沈黙を破り、言った。

「生きているか」

 と。

 前触れのない澄んだ声に、公恵は誰が言ったのか判断が付かないでいたが、自分でも女性でもない以上、青年が発した言葉であることは疑いようもなかった。

 公恵は女性を見て、青年を見た。

 意味を理解した。

「わ……、私はも、う警察に連絡、し……、しているのよ。す……、すぐに、警、察が来るわ」

 公恵は、息継ぎを間違え言葉に詰まる。

 ウソだ。

 公恵は、119番以外には連絡していない。強張った舌を動かしての必死の虚勢だ。これで青年が逃げるかも知れないと予想したが、公恵は裏切られた。

「生きているか」 

 再び、青年は訊いた。

 その言葉に、様々な疑問が生まれ公恵の喉を詰まらせた。ウソとは言え警察が来ると言った後でも、女性の生死を訊いている。殺したいのなら人に生死を訊くよりも、自分で確実に止めを刺した方が遥かに確実であるのに。

 それに公恵は、犯人である青年の顔を見ているのだ。一緒に殺される方が可能性として高い。

 だが、何だと言うのだろう。青年の瞳に見据えられ、公恵は吐露した。

 真実を。

「…………そ、そうよ」

 公恵は、息を呑んだ。

 青年は返事を返さなかった。

 すると青年の左手が、ゆるり上ると顔に触れ覆った。親指と人差し指、中指と薬指の間から青年の双眸そうぼうが覗いた。

 怖い。

 今になって顔を隠そうというのか。公恵は、まるで仮面でも被ったかのような青年の顔に……。

 いや、その眼に物恐ろしい空気を感じた。

 例えるなら……。

 そう、こんな感じだろうか。

 一人暮らしの女性が部屋でくつろいでいた。

 外出先から帰宅し、流行歌を口ずさみながら服を脱ぎ、あられもない下着姿から普段着に着替えている最中、ふと目を向けた先の押入れ。

 しっかりと閉めていたはずのふすまが、申し訳程度に細く開いている。

 誰も居る訳のない、暗い闇の隙間。

 そこに浮かぶのは、人間の眼球。

 その眼球と、不幸にも眼が合ってしまった。

 そんな、沈黙の恐怖に似ていた。

 青年の眼は、公恵と女性を捉えていた。蛇に睨まれたカエルというのは、こうしたことを言うのだろう。公恵は、もう身動き一つできなかった。

 青年は、左手を顔から解くと両手で日本刀の刃先を持ち上げた。

 恐怖が公恵に襲い掛かった。

 喉が締め付けられる。

 真実を告げたことで、本当に殺されると思った。戻れるものなら、青年の問いかけに逆のことを言うべきだったと、激しい後悔の念に駆られたが、後の祭りだ。

 切先が公恵に向けられた。

 青年は、右脚を引くと左半身にし、弓を引くように日本刀を構えた。それは古流剣術にある刺突を目的とした構え、向中段八相の形に近い。

 温もりのない無機質な光が、切先に宿った。

「い……ゃ」

 公恵が鳴くと、青年が動いた。

 数mの距離を詰める。

 動くのは見えていた。

 だが、公恵は動くことができなかった。恐怖で動けなかっただけかも知れないが、正直に言えば気が付いた時には青年の刺突が終わっていたのだ。

 俊足。

 いや、神速だった。

 それから、公恵は感じた。風が、遅れて吹き付けたのを……。

 公恵は、死んだと思った。

 青年の日本刀は鍔元一寸(約3cm)を残して、公恵の額を突き抜けていたから。

 だが、それは左に5cmも逸れていれば、のことだ。

 公恵の髪が一本、宙を流れた。

 日本刀は、公恵の左側頭部にあった。

 青年は日本刀を引いた。そこでようやく公恵は、身が横に崩れた。公恵は、なぶり殺しにされるのかと思ったが、青年は公恵を見ていなかった。

 青年の視線の先は、公恵が今し方、向けていた背後にあった。

 公恵は、その視線の先を振り返った。

 3m程先に、一人の男が左頬を押さえていた。ペラペラシャツに赤のジャージ上下姿の男。夜の街に繰り出せば、たむろしているような男だ。いつから、そこに居たのか知らなかった。

 だが、なぜ頬を押さえている。

 歯が痛い?

 答えは、指の間から滴り落ちた血が答えた。男が頬を拭った。左頬が裂け、血が流れている。

「テメエ……よくも邪魔を」

 男は、ゆっくりと腰を落として身構えた。憎悪で歪んだ顔に、深い影が落ちる。憎しみで男の口が開く。

 公恵の目が剥かれた。信じられないものを、見たから。

 男の口。

 そこにあったのは、歯であって歯などではない。

 牙。

 針のように尖った先端に、枝のように太い根を持った肉食恐竜のような凶悪な牙が、上下に乱立していた。暗い口内の奥は、光の届かぬ地底にでも通じているようであった。

「堕ちたな。お前」

 青年は言った。

 男の首が捻じ曲がる、信じられない程に。頭が肩と水平に並んでも、ゼンマイ仕掛けのオモチャのように曲がり続け、時計の針が回るように首が一回転した。それでも男の首は捻じ切れなかった。

 公恵の表情が、得体の知れない事態に青ざめる。

 青年の表情は変わらなかった。

悪口あっく、か……」

 青年の言葉に、公恵は何のことか解るはずもなかった。

(あっく……?)

 公恵は青年と男を見比べる。どちらも、味方には見えない。

 大気に濃いモノが混ざり始めた。

 見えた訳ではない。

 冷えた夜気に、ねっとりとした生暖かいモノが混じり大気が歪んだ気がした。

 牽制するように、男が呼気を鋭く吐く。

 青年は日本刀を右手に下げたまま、一歩を踏み出す。

 その最中、青年は公恵を見た。

 いや、見たのは傷ついた女性の方か。青年の視線は、公恵の下に向いていた。どんな理由や意図があって、そんなことをしたのか公恵には理解できない。些細な行為だったが、戦いの最中に敵から眼を逸らすということは、隙に繋がる。

 男は、それを見逃さなかった。

 男が獲物を捕るごとく突進して来た。

 青年は《虚》を突かれた。

 人には《虚》と《実》がある。

 《実》に心がある時には不意打ちにも対応できるが、《虚》に心がある時には相手を視界に捉えていても容易に攻撃を受けてしまう。

 ある剣士が町人に腹を突かれて死亡した、という話がある。町人に剣術の心得はまったくなかったが、それでも剣士の腹を刺して死に至らしめた。どのような名人達人でも、《虚》にある時は木偶でくなのだ。

 男がそのことを知っていたかは疑問だが、獣のような本性が青年の《虚》を突く事態になったのかも知れない。

 事実、青年が次の瞬間に男の姿を捉えた時には、剣の間合いを犯された後だった。

 牙を剥いた男の顔が、青年の胸の前にある。

 もはや長尺の刀で斬りかかることができる距離ではない。

 だから、青年は左肘を跳ね上げた。

 人体の最も固い部位として額、肘、膝などが挙げられるが、いずれも身体の中心に近いため、間合いが短くなって攻撃しづらい。

 だが、組技や投技などの密着状態や近距離の間合いでの戦いでは、これらは有効な武器となる。

 男は青年の左肘を下顎に受けるが、クリーンヒットではない。肘は、あくまでも場当たり的に繰り出した技であり打撃そのものに気力が込められていない。

 男の眼は、青年を狙っていた。すると、男の右脚が跳ね上がって青年の左脇腹に襲いかかった。青年の左肘は攻撃から防御に移行できていなかった。そのため、男の蹴りは青年の左脇腹に叩き込まれた。

 だが、その時には青年は《虚》にあった心を《実》に取り戻していた。

 青年は左脇腹に男の蹴りを受けても、表情一つ変えなかった。

 それに対し、男は舌打ちし青年の左脇腹を見た。男の蹴りは、左腰にある鞘によって阻まれていたのだ。

 刀法として、逆胴(左胴)から斬る技は古くは一般的ではなく、胴(右胴)のみであった。その理由は、刀を握った剣士の左手が右手の下にあり、左から胴を斬るには比較的隙を生じ難いからだ。

 また、左腰には刀や脇差を差す関係上、例え相手が二刀を用いても、鞘が残っているため逆胴(左胴)に斬り込むには邪魔になってしまうばかりか、無理に斬り込めば刃が欠けてしまうからだ。ゆえに、流派によっては胴斬り、そのものを禁じている。

 言わば剣士としての定石を男は知らなかった。青年は、その定石を知っていたから腰の鞘を防具として使ったのだ。

 青年の右手の日本刀が、逆手に返っていた。

 次の瞬間、日本刀の柄の先端・柄頭つかがしらが男の水月すいげつにめり込んだ。

 水月すいげつ

 腹の上方中央に位置する鳩尾みぞおちにある急所。

 古流柔術では「水落みずおち」といって秘穴とされている。

 ここを斜め上に突き上げると、横隔膜が痙攣を起こし、呼吸がままならなくなる。最悪の場合、神経震盪や呼吸閉絶によって苦悶の中、失神状態に陥り心臓停止に至る急所。

 男は水月を突き上げられたことで、目玉を剥いた。腹の底から込み上げる衝撃に嘔吐を催しながらも、脱兎の勢いで間合いを取った。

「……ク、ソ」

 男は胃液の酸味が混じった唾を吐き捨てた。

 青年は、逆手に持っていた日本刀を順手に持ち換える。

 公恵は二人の男の戦いを、固唾を飲み込むこともできなかった。こんな状況がいつまで続くのかと。

 ふと、遠くに、サイレンが聞こえた。

 救急車のサイレン。公恵が呼んだものだ。

 男は鳩尾に手を当て舌打ちをした。青年を片頬で睨み見る。ゆっくりと後ろに下がると、猿のように電柱に飛び付き、さらに宵闇へと去った。

 得体の知れない男の姿が消えた。

 だが、公恵は安堵あんどしなかった。

 目の前には、日本刀を持った青年が居たから。

 公恵の身体が震えていた。

 持ち上がる日本刀が目の前にある。

 刃に映った女の顔は公恵が知っている人であったが、それは限りなく可愛そうな顔をした女だった。

 薄命な女。

 不幸な女。

 不憫な女。

 そんなことを感じて、公恵は理解した。

 刃に映った女は、自分だということを。

(今度こそ。私は……)

 公恵は覚悟を決めなければと感じた。

 それは杞憂きゆうだ。

 なぜなら、日本刀は何もない空間に振り落とされたからだ。公恵は、その行為の意味が何かは知らなかった。それは血振りと呼ばれる行為であった。

 血振り。

 人を斬った刀には、血や脂がこびり付く。これを振り落とすのが血振りだ。

 血振りは、術技・技法的な動きではないため、こうしなければならないとする運剣の根本原則が存在せず、流派によって、その態様はまちまちだ。

 袈裟に振る、横に払う、切先を下げる、左手の指で拭う、刀身を一回転させるなど、血振りには様々な手法が見られるが、どれも血脂を払い落とすことを目的とした動きに変わりはない。

 血振りの振るいは雨傘の水滴を払う要領で行えとされ、小指と薬指を握り締めて、滴を振り払うように血振りを行うことによって、刀身に付着した血脂が効率よく落ちるとされる。

 だが、血脂は刀身を振っただけで拭えるようなものではない、というのが通説だ。通常は、倒した相手の袖や布、鹿皮や懐紙、納刀時の指で刀身から血脂を拭い落とす。

 ならば、ただの格好とも取れるが、血振りには残心を意識する意味がある。

 残心とは、相手を倒した後も、心を緩めることなく倒れた相手や周囲の状況に気を配り、不意の斬撃など、いかなる事態にも迅速・柔軟に対応できる心持をし、そのような態勢を取ることだ。

 剣術において残心は重視され、様々に教授されてきた。柳生新陰流の柳生十兵衛は「月之抄」の中で、一刀流忠也派の伝書でも「鷹悟無名事」として、記述されている。

 戦国時代の気風が残る江戸時代の初期でも、残心は当然の如く意識され心法的な大事として、流派の中に根付いていた。

 青年は峰を左手の人指し指と親指の間を滑らせ、切先を鯉口に導くと、刀身を猿革で包み黒漆を塗った鞘に収めた。

 静かに。

 公恵が近くに迫った救急車のサイレンに耳を奪われ、再び青年の方を見た。

 だが、青年の姿はもうなかった。

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