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第一章 然らば汝はこの國に住むべからず。


あらゆる技術に秀でる者は、あらゆる事象の記憶装置となる。


      1


 ――〝眠る〟前に先生から聞かされた事は、だいたい覚えている。

ハイバネーション冬眠治療は、新しい医療技術です。映画などでは、数十年ほどの長期間、人体を冷凍保存したりしますが、現代の技術ではそんな長い期間、生体の保存は出来ません。一年が限界です』

 ――車椅子に乗せられ、エレベーターで地下まで下りていく。地下の冷気が箱さえも冷やしているかのように、寒気を感じたのを覚えている。地下にあるのはポッドルームと呼ばれる空間である。

『ポッドで冬眠状態に入った患者に、一年間薬剤を投与し続けます。薬剤Aのジオフェスティロンは免疫不全の解消を、薬剤Bのクオントロンは内蔵と筋肉の再生を促進しますので、冬眠を終えた頃には、かつてのように普通に歩く事も出来るでしょう』

 ――冬眠に入る前、最後に父と母と顔を合わせた時を思い出す。クラスの友人たちからの寄せ書きをもらい、SNSで、入院前に付き合い始めた彼女からのメッセージを読む。一年も間が空いてしまう。一年も彼らに会えない。

ただ一年眠り続けていれば、次に目覚めた時には、この枯木のような腕も、一人では立つ事も出来ない足も、元の通りなっているはずだ。

 たった一年。眠り続けていれば。

『投薬を始めるよ。十分後に君は眠りにつく。次に目が覚めた時には二〇二六年の八月三十一日だ。長い夏休みになるが――』

 固い素材のわりには妙に寝心地の良いポッドの中で、先生の声を聞く。何だか、すでに眠い。

『それでは、また会おう。菅原すがわら八雲やくも君』

 眠い。ひんやりとしているのに、寒くはない。落ちていく。意識が。闇の中に。ひどく心地よい。

 これは死の疑似体験なんじゃないかと、〝眠り〟の前に思う――


 長い、長い闇。

 自分が生きている事を忘れるほどの、長い暗闇。

 けたたましい電子音が闇の奥から聞こえてきて、徐々に意識が浮かび上がってくる。

「――……っ」

 息を吸う。瞼をゆっくりと持ち上げる。ポッドの中が見える。緑色のほの明るいランプがポッドの中を照らしているが、窓の向こうは暗かった。夢だと思った。だが、指が動く。指が動く実感があった。腕も、足も。筋肉が動いている実感があった。

「――っ、あ、はあ、はあ」

 目が覚めた。そうだと気付いた。電子音はまだ聞こえている。起きたのだ。自分は。

『目が覚めたら、窓の下にあるボタンを押すように。蓋の開閉ボタンだ。それから履物は、足側のケースに入っているから、そこから取り出して。開閉ボタンを押したら、こちらにも連絡が来るようになっているからね』

 先生の言葉を思い出す。一年も寝ていたというのに、記憶はわりと鮮明だ。窓のすぐ下にある開閉ボタンを押すと、ロックが解除された音がして、ぎこちなくポッドの蓋が開き始めた。開くスピードが遅くて、思わず途中から押し開ける。

 ポッドの外は暗かった。やはり緑色の、非常灯のような明かりは見えるものの、周囲の様子はよくわからない。電子音は鳴り続けている。

 先生の言葉を思い出し、八雲は手探りにポッドの足側を触った。指先が、蓋の取っ手のようなものに触れた。ちょっと力を込めて動かしてみると、開く。中に手を入れると、柔らかい感触があった。靴だ。それからもう一つ、筒状のものがある。スライドする部分を上に上げると明かりが点いた。懐中電灯。

 靴を履く。ゆっくりと地面に足を降ろす。恐る恐る、立ち上がる。

 一年以上前には出来なかった動作が、自然と出来ていた。腕や足を触ると膨らみと弾力を感じる。眠る前より太くなっている気がする。

 懐中電灯で足元を照らし、慎重に、一歩を踏み出す。

 転ばなかった。心臓がどきどきしている。さらにもう一歩、踏み出してみる。

 歩ける。歩いている。とても信じられない。一年前と数か月前に病にかかってからはずっと車椅子生活だったというのに。

 ゆっくりと、記憶通りに進む。かつて使ったエレベーターが見えてくる。

 電子音はずっと鳴り続けている。しかし、何故ここはこんなに暗いのだろう。スイッチを押したら、先生のところにも連絡がいく、という話だったが……。

 ボタンを押す。機械が駆動する音が聞こえる。ようやくやって来たエレベーターの扉が開いた。

 エレベーターの中の電灯も暗い。最低限の明かりしか灯っていない。何か電気系統のトラブルでもあったのだろうか。何だか懐かしい冷気を感じながら、八雲は上へのボタンを押す。ハイバネーション・ポッドが設置されていたのは、記憶が正しければ地下十階だ。地上階に戻るまでの速度も、やけにゆっくりに感じる。

 ずん、とエレベーターが重々しい振動で止まる。

 扉が開くまでに少し間があった。何だか機械がうまく動いていないような、妙な感じだ。

 中途半端に開いたまま、エレベーターの扉が止まる。

 その隙間から、病棟の様子が少し見えた。

「……え?」

 何とか通れそうな隙間を抜けて、八雲は自分が今しがた見てしまったものを、もう一度よく見た。

 病棟は崩壊していた。床は地割れのような巨大な亀裂が走り、ところどころ隆起している。病室の窓ガラスは砕け散っていて、机もベッドも小さな箪笥もそこかしこに散らばっている。電灯は点いておらず、外は昼間のようだが窓は何かに覆われているかのようで、差し込む光は僅かだ。地震か、嵐か、戦争か。あるいはその全てが何度も襲いかかったかのような有様だった。

「何が起こったんだ……」

 とにかく、外に出たほうがいいだろう。誰かが病院内に残っているとは考え辛い。

 足元を照らしながら、慎重に進む。靴を履いているとはいえ、瓦礫を踏んでも無事なほど厚い靴底ではない。転ばないよう、ゆっくりと慎重に八雲は廊下を進んだ。

 病室棟から、診察棟へと移る。広い待合ロビーも変わらぬ惨状だった。鼻につく嫌な臭いが漂い、埃が外の光を受けて煌いている。まるで廃墟だ。

 ――……ィイ…ィイイィン……

「っ……!?」

 耳鳴りのような、いや耳鳴りよりもっとひどい金属音のようなものが、八雲の耳を刺激する。ザー、ザー、というひどいノイズが頭の中に響く。視界が、おかしい。青白いプラズマのようなものが、ロビー一面に走っている。大きく変形するプラズマは、何だか人影のようにも見える。

「何だ……これ……何だ!」

 頭が割れるような痛みに、八雲は思わず叫んだ。

 まるでそれが合図であったかのように、ひどい耳鳴りがぴたりと止まった。視界を駆け巡っていた青白いプラズマも、もう見当たらない。

「何が、何がどうなっているんだ……」

 額の汗を拭う。土の匂いがする。幸い出口はすぐだ。駆け足で、八雲はドアへと向かった。汚水のような水たまりに足を引っ掛けたが、少しだけだ。今は何が起こっているのかを知りたい。

 ガラス張りのドアもやはり割れていたが、ドアノブに異常はなさそうだ。八雲は急いで外に出た。

 むせ返るほどの樹木の匂いがした。

 八雲の記憶ではタクシーロータリーと駐車場であったはずの場所は、熱帯雨林か何かと見間違うほどの樹木と植物とで埋め尽くされていた。巨大な葉をかき分けて、ネズミよりも大きなダンゴムシのような生き物が歩いて行く。と、森の向こうから何者とも知れぬ叫び声のようなものが聞こえ、黒ずんだサルのような生き物が巨大ダンゴムシを掴んだかと思った時には上昇し、すでに樹上でダンゴムシを丸かじりしていた。信じられない事だが、サルの頭部は獰猛な犬のようであり、尻尾は三又に枝分かれしている。トカゲとも鳥ともつかない見た目の生き物が、群れを成して上空を飛んでいる。そうしてよく見れば、八雲がいた病院からも、巨大な樹木が生えていた。

 一帯は原生林と化していた。

この場所が、かつて渋谷区の高度医療センターであった頃の面影はどこにもなかった。

「一体、何が……」

 ――……ザザ……イィィイン

 つい先ほどあった耳鳴りのような雑音が、頭の中でまた聞こえた。

(……ヴィ……ラ……)

「!?」

 割れるような頭の痛みはない。代わりに聞こえたのは、声のような音だった。

(……ヴァン……クルー……ラ)

 意味のわからない言葉だ。そう、たぶん言葉だ。外国語のような感じだが、聞き覚えはない。

(ヴァ……クルー……キ、コエ……)

 末尾にはっきりと聞き覚えのあるアクセントがあった。聞き間違えでないなら、今のは……

(キコ……キコ、エル……ヴァナ……ン……ゲ……)

 周囲はやけに静かだ。いや、自分がこの声に集中しているからだろうか。今、確かに「聞こえ……」と言ったような……

(ゲ……ヴァナ……ロッ!)

 声が、心なしか強い語調になった気がした。

 ――風が、吹いた。

 次の瞬間、八雲はこの不思議な声の事を忘れていた。

 ボタボタと黒ずんだ雨のような大きな雫を落としながら、樹上にいたあのサルが降ってきた。首と胴体は無残にも切り裂かれ、手足はそこら中に散らばっている。落ちてきたのはサルだけではない。群れで飛んでいたはずのトカゲとも鳥ともつかない飛行生物が、次々と落下してきたのだ。

 風とともにやってきたのか。道の先に、それは王者のように立っていた。

 実に奇妙な形態だった。

 大きさは、おそらくトラックくらいの高さで、脚は四本。馬か、鹿のような体型だが、前脚はまるで鎧のような鈍色の爪で覆われている。クリーム色の胴体に、前脚と同様の鎧で覆われた頭部。そして何より目を引くのは、胸元で陽光を受けて輝いている、歪んだ真珠のような鉱物だった。

(……ヴィ!……ヴァナ……ロッ!)

 〝声〟が、何かを叫んでいる。だが、もうそれをしっかりと聞いている余裕はない。八雲の前で無残に殺されている生き物たちを手に掛けたのは、こいつだ。そして、目の前にいるこの、見た事もない生き物は、おそらく、はっきりと、次は八雲に目をつけたまま動かないでいるからだ。狙われている。直感で、そうだとわかる。殺意でも、憎悪でもない。生き物としての自然な衝動。

 ――捕食。

「あ……」

 遅かった。呆気に取られているうちに、鈍色の爪の先が眼前まで迫っている。

 駄目だ。わかる。一秒後には。あの爪が。八雲の顔を。抉って――――…………

 死。

 ダーン! という爆発音が八雲の耳をつんざき、

 同時に、眼前に迫っていた爪が、何故か地面に刺さっていた。

 ぐい、と、ものすごい力で襟首が掴まれる。

「うわっ!?」

「ウドゥウーラ! 逃げるぞ!」

 全く知らない誰かの声が、八雲にそう告げる。驚く暇はない。八雲の体は一瞬で上昇して次の瞬間には、樹木の太い枝の上にあった。そう思ったのも束の間、八雲を掴んでいる者は次々に枝から枝へと飛び移る。

「あの、君――っ!」

 何かを言おうとして八雲は思わず舌を噛んだ。

 原生林の切れ間が見えた。八雲を掴んだまま、何者かは枝から飛び降りると、坂を飛ぶように下る。そうして、ようやく平な地面が見えた。苔生したアスファルト。蔓の這う崩れたビル。ふわ、と体が浮いて、八雲は地面に投げ出された。瓦礫こそないが固いアスファルトに容赦なく投げ出され、体のそこかしこをぶつける。

「あ! っ、った~~~~」

 痛い。思わず痛がらずにはいられなかった。痛みが少しでも遠のくのを待って、身を起こす。

 見覚えのある景色だった。

 ビルの大半は原生林の巨樹に飲み込まれ、かつて信号機だったらしいものの残骸が、錆びついた姿を晒している。背後を振り返れば、確か駅ビルだったはずのビルが、無残にも崩落していた。地面に描かれていたはずの白線も、掻き消えた痕がある。間違いない。ここは……

「渋谷……スクランブル交差点」

 空は泥のように濁り、街は、かつてあったはずの街はもう、八雲の知っているような姿ではなかった。

「――ヴィ!」

 鋭い声が、八雲の感傷を阻んだ。

 八雲をあの生き物から助けた人物だ。だが、その人物を果たして人と呼んでいいのか、八雲には判断がつかなかった。

 灰褐色の豊かな長い髪はまだいい。体つきも見た目は人間のように見える。衣服と呼べるようなものは着ておらず、胸に布が一枚巻き付けてあるほか、下は二重の長い腰布だけだ。だが、八雲を困惑させたのは、露出した肌の色や、人間には存在しないはずの部位だった。その肌は、さながら南方の海のように青く、毛皮のように生えた体毛も同様に青い。腰布の内からは尻尾が伸びていて、耳は尖っていて長く、さらに言えば、頭部にはもう二つ、耳のようなものがある。

「君は――」

「ヴィ! 隠れろ! 奴が来る!」

 今度こそはっきりとした日本語の発音で、その者は言った。ちらりとこちらに向けた瞳は、人間にしては少し大きくて、宝石のような美しい黄色だ。

「奴?」

「ヴァナカン! わたしが狩る。お前にはやらん! ――っ、くそ! ここは〝クルール〟が乱れる! 頭がおかしくなりそうだ!」

 何だかひどく不機嫌な様子で、青いその人は、手に持ったものを構える。傍目にもわかる。銃だ。ライフル銃のような、長い銃。だが、いわゆるその銃身には、何か器具のようなものがガチャガチャと取り付けられている。

「サナン! 隠れろ!」

 青い人が怒鳴った。八雲は急いで辺りを見回す。隠れられそうなところ、強いて言えば、何かの残骸らしいものの影くらいだろうか。

「――来た」

 青い人が小さく呟いた。

 ふわりと、そよ風のようなものが吹く。

 ――いた。先ほどと同じように音もなく、あの生き物がスクランブル交差点に立っていた。遅かった。今さら隠れられるはずもない。

「ヴァナカン……」

 青い人は、動じた様子は見せなかった。生き物から狙いをつけられているのは明らかだが、むしろ生き物のほうを狙っているかのような不敵ささえ感じる。

「来い」

 青い人がそう言ったのだと、気付いたのは少し遅れてだ。炸裂音が弾け、銃弾が生き物の鎧を掠めたのがわかった。

 地面が割れる。鈍色の爪が振るわれたのだ。無造作に動かしたかのような爪の一撃はどういう理屈か、遠く離れた錆びついた信号機を切り落としていた。

 先の一発が獲物を貫かない事をわかっていたかのように、青い人はすでに生き物の側面に回り込んでいる。だが、鋭い鈍色の爪が、青い人を追っていた。腰布を翻して、青い人は生き物の攻撃を躱す。地面を転げ、起き上がると同時に撃つ。カン! という甲高い音。いつの間にか、生き物のクリーム色の皮膚が、鋼のような鱗に覆われている。

異様な物音がした。骨が変形するような音とともに、生き物が後ろ脚だけで立ち上がった。いやそれだけではない。背骨も伸びて体躯はさらに大きく鳴り、前脚は腕のように変化している。胸元の歪んだ真珠のような鉱物が妖しく光った。

 続けざまに発射された銃弾が、鈍色の爪によって弾かれる。生き物の声と思しき、洞窟を吹き抜ける風のような唸り声が聞こえた。

「すでに大人か。面倒な……」

 青い人が憎々し気な声で吐き捨てる。生き物は腕を大きく開き、頭を前傾して今にも青い人に飛び掛からんとしている。距離が近過ぎる。生き物が少し腕を振るえば爪が届く距離だ。

 助けなければ。いくら銃を持っているからって、あのままでは青い人が――

 すぐ足元に、砕けたコンクリートの破片があった。手で掴める程度の大きさの。

 迷う暇はなかった。

「ふん!」

 気が付いた時には、八雲はその破片を生き物に向かって投げていた。放物線を描き、破片が生き物の頭部にぶつかる。コン、という乾いた音。

「あ――?」

 青い人が気の抜けたような声を出し、

「――――」

 生き物が、音もなくこちらに顔を向けた。

「あ……」

 全身の血の気が引くのがわかった。腰が抜けて、立っていられない。生き物の巨体が完全にこちらを向いていた。青い人が何かを叫んでいるようだが、空気が耳に蓋をしたかのように何も聞こえない。生き物の腕が振るわれる。爪が迫ってくる。世界の全てがスローモーションに見える。無理だ。これは。

 ――……ィイ…ィイイィン!

 耳をつんざく金属音が、八雲を正気に戻した。雷鳴にも似た激しい音を立てて、青白いプラズマがそこら中を駆け巡る。人影のようなプラズマが浮かんでは消える。強い、強い光――

 ひと際激しい音がしたかと思うと、何事もなかったかのようにプラズマは消え去っていた。いや、消えたのはプラズマだけじゃない。あの生き物の巨体も、どこにも見当たらない。

「あいつは……」

「逃げた」

 返答があった。黒い銃口が八雲の顔に向けられていた。

「ヴィ、どこのセァジャだ? 何故、わたしのクルールに反応した? 会った事はないはずだが……」

 青い人は淡々とよくわからない言葉を喋った。

「クルー……何?」

「あんまり見ないが、セァジャだろ。バギャムって事はない。それともまさか、ほかの星の奴か。クルーラン以外にこんなところに来る奴はいないだろうが」

「こんなところ……渋谷の事? いや……それとも、地球って意味? ほかの星って……」

「おい」

 銃口が額に押し付けられた。

「いい加減にしろよ。ずいぶん古い言葉が得意だな。気分が悪くならないのか、クルーランのくせに。頭の耳も取っちまって――」

「あ、頭に耳なんて生えてない!」

 八雲は思わず叫んだ。青い人が露骨に怪訝そうな顔をした。

「……あ?」

「頭に、耳は生えていないよ……。一体何がどうなっているんだ。君は誰だ。僕が眠っている間に、何があったんだ。渋谷は、いや日本はどうなったんだ」

「……お前」

 青い人が、銃を降ろした。何故だか、ひどく動揺しているようだ。

「クルーラン……だよな?」

「何を言っているのかわからないけど、僕は人間だ」

 青い人の宝石のような黄色い目が見開かれた。銃口は地面に向けられ、顔はどこか強張っている。

「……人間。いや、そんなまさか」

 青い人は銃を背に担いだ。それから、そっと八雲に手を差し伸べた。

「立て。ともかく、移動しよう。さっきのヴァナカンが戻ってくるかもしれないし」

 肌は青いが、手は人間のそれとそっくりだ。八雲は考える前にその手を取って、立ち上がる。

「ヴィ、エメは……いや、名前か。名前は何と言うんだ。あるんだろう」

「名前……? 八雲、だけど。菅原八雲」

「わたしのより長い。……ああ、いや人間の名前エメは長いんだったな」

 一人で納得したように呟いて、それから青い人は八雲の目を見て、言った。

「わたしの名前はエルヴァンティコ。クルーランだ。ついて来い。何が起きたのか、お前に教えてやる」


 エルヴァンティコと名乗る青い人は、八雲を比較的壊れていない廃ビルの屋上にまで連れてきた。おそらくは、渋谷駅周辺の商業ビルだったもののはずだが、どこのビルなのかはもうわからない。

「これは……」

 廃ビルの屋上から一望できる景色は、まるでこの世の終わりだった。泥色の雲に覆われた空の下に広がるのは、壊滅した街並みとそれを飲み込む樹海だ。遠巻きに飛んでいる鳥のようなものは尻尾が異様に長い。壊滅した街の中で蠢くのは車ではなく、虫とも獣ともつかない丸みを帯びた何かだ。大蛇というにはあまりにも大き過ぎる長いモノが、のたうち回っているのが見えた。羽虫の群れのようなものが襲い掛かっているのだ。

愕然とするほかない。八雲が眠っている間に、世界は変わってしまったのだ。あまりにも現実離れした光景に。

「何から、話せばいいのか。お前が本当に人間だっていうなら……」

 どか、と地面に腰を下ろして、エルヴァンティコは困ったように言った。

「クルーランの星は、この銀河の端のほうにある。わたしたちは、そこからある任務を帯びてこの地球にやってきた」

 エルヴァンティコは街に目をやっていた。その目が荒廃した街並みを眺めているのか、遠くの鳥たちを見ているのかはわからない。

「話は、ずいぶん前まで遡る。クルーランの先祖の中に、とても、とてもおかしな奴らがいた。クルーランは言葉を喋る奴がいない星は開拓するが、遠くの星や喋る奴がいる星は開拓しない。当たり前だけど、遠かったら故郷に帰れないし、喋る奴がいる星を勝手に開拓したら、戦いになるからな。だが、先祖のある一団は、その両方を破った。『遠くの星を開拓して、自分達の星にしよう』、『そこにどんな奴が住んでいようと、そうしよう』ってな」

「侵略……って事?」

「シンリャク。……ああ、そうだ。人の棲家を勝手に荒らすのさ。そいつらはクルーランの星でも持て余されていたが、やりたい事をやるだけの技術も、力もあった。奴らは手始めに家畜と植物を大量に送り込んだ。この地球ほしが繁殖に向いているのはわかっていたからな。自分たちの食料や生活環境を確保しようと思ったわけだ」

 八雲は黙って話を聞かざるを得なかった。今、自分が聞かされているのは、とんでもない話なのだという事だけが、理解出来ていた。

「最初に繁殖したのは木だ。この星の植物を取り込み、変異させて、あっという間に広がっていった。この星の古い言葉で、サンソっていうものがあるだろ。あれもあっという間に濃くなって星全体に広がった」

 酸素濃度の急上昇。植物が世界中に広がっていったなら、酸素量も濃度も増えるのは自明だ。

 なら、そんな酸素の中では、人間は――

「人間は、どうなった。酸素が急に濃くなったりしたら、人間は……」

「死んだよ」

 エルヴァンティコはあっさりと言った。

「クルーランもそうだけど、濃くなったサンソの中では人間は生きていられない。大勢が死んだ。逃げて抵抗していた奴らもいたって聞くけど、サンソで死ななかった奴らは、ヴァナカンや、変異した生物に食われたり、自分から死んだりしたらしい」

「そんな……」

 八雲は街に目をやった。羽虫に襲われていた大蛇のような生き物はもう動いておらず、白い骨が残っているだけだ。

「でも、まだどこかで生きているんだろ? 人間は。だって僕が生きているくらいだから……」

「クルーランが最後に人間を見たのは、あー……三十年? くらい前だって話だ。ここでの時間の数え方は人間がやっていたのと同じようにしているから、三十年でいいはずだ。わたしがここに来るちょっと前だ。以降も調査はずっと続いたが、それからは一度も見つかっていない」

 そこで一度、エルヴァンティコは息をつくと、言い辛そうに口を開いた。

「人間は滅んだ。もういない」

 滅んだ。

 人間が。

 何を、どう反応すれば良いのか、八雲にはわからなかった。手が、震えていた。だが、まだ気になる事がある。

 ――三十年。

「エルヴァンティコ。クルーランが地球を侵略し始めたのは、何年前だ?」

 青い肌をした、黄色い瞳の異星人は、しばし考え込むようにしてから、口を開いた。

「その時の事は、クルーランの歴史でも名前をつけてある。地球の言葉を使ったんだ。人間は、年の区切りごとに番号を振っていただろう? こういう文字で」

 言いながら、エルヴァンティコは小さな破片を使って地面に文字を描いた。

 数字だった。四桁の。『2025』。

「百年、だ」

 エルヴァンティコは言った。

 自分の耳が信じられなかった。ようやく口から絞り出して、八雲は、何て、と言った。

「今から百年前だよ。先祖が地球をシンリャクしたのは」

 黄色い瞳は、静かに八雲を見つめていた。

「ずいぶん前だって、言っただろ」

 八雲は、自分を銀河の端からきたという、この青い異星人の顔を見つめ、それから、地面に目を落とし、恐る恐る、荒廃した街に目をやった。

 渋谷ハチ公口の前に展開されていた、四基の大型ビジョンは、どれもこれも破壊されていた。多少の残骸があるか、まるきりないかのどちらかだった。西暦を知る術はどうやらなさそうだった。当たり前か。西暦を生活の基盤にしていた生き物は、もうこの地球上には八雲しかいないのだ。

 全世界を襲う植物の異常繁殖。異星人が持ち込んだ未知の生物たちの台頭。

 百年の時間。

 友人や、家族や、恋人が生きているとはとても思えない。

「クルーラン人は……何故、地球を? 地球人がクルーラン人に何かしたのか」

「……何もしていない。ただ、運がなかったってだけだ。条件の合う別の星が見つかって、そこに誰も住んでなければ――」

「運がなかった?」

 自分の声が上ずっているのがわかった。抑えようもない。

「運があれば良かったってのか。運があれば、人間は死なずに済んだっていうのか。運があれば、お前らはこの星に来なかったっていうのか。運がなかっただけで!」

 さっきまで、あれほど毅然と怪物に立ち向かっていた異星人が、今は明らかに狼狽していた。

「運があれば……僕の家族は……璃々りりは……」

 エルヴァンティコの肩を掴む。柔らかい肌に八雲の指が食い込んでいく。

 抵抗はない。

「わたしたちは後始末にきた。先祖の奴らがばら撒いた異星生物と、この星では元来生まれ得なかった新生物。その両方を一匹残らず滅ぼす。侵略者どもの残党も見つけて殺す。それからあとは、この星自身に行く末を任せ、ここを去るつもりだ」

 静かに、エルヴァンティコは続ける。

「だが、お前には復讐する権利がある。わたしを殺して気が済むのなら、そうしろ。どう言い繕おうとも、わたしたちクルーランはお前の故郷を踏み荒らし、全てを奪って、この大地で生きているんだ。わたしは自分の口から勝手に出るこの古き言葉が嫌いだったが、今こうしてお前に全てを話せるのなら、こうなるのは運命だったんだ」

「君を……殺す……?」

 ――悪くないかもしれない。

 先祖がどうとか言っているが、こいつらが人間を滅ぼし、八雲から全てを奪ったのだ。八雲がここで復讐を果たすのは道理であるはずだ。いや、やらなければならない。百年の間に殺されてしまった、全ての人類のために。今、ここで。八雲が。せめてもの復讐を果たさなければ。

「悪くはない。先祖の罪を少しでも晴らせるのなら、わたしがここにきた意味もある。〝命はもつれた糸をほぐすために使えヴァナク・ズィール・ルカ・ガルヴァ〟、だ」

 八雲の指が、エルヴァンティコの肩から離れた。毒蜘蛛の脚になったかのような十本の指がエルヴァンティコの首筋に近付いた。

「…………」

 指の震えが止まらない。体が、凍ったかのように冷たい。

 あの恐ろしい生き物に破片を投げた時と同じように、八雲は考える間もなく手を伸ばした。

「っ!?」

 エルヴァンティコが驚きに体を強張らせたが、八雲は手を離さなかった。右手は、エルヴァンティコが背負ったライフル銃の銃身を握っていた。

「エルヴァンティコ、僕を殺せ」

 力いっぱいに銃身を握り、八雲は言った。

「……だめだ。それは出来ない」

「何で」

「食うための殺しでもなく、いくさのための殺しでもない。命を無闇に奪うのは、クルーランの教えに反する」

「侵略者の子孫だろ……!」

「そうだ。だからこそ、誤った先祖と同じ真似は出来ない」

「っ!」

 エルヴァンティコの小さな体を突き飛ばす。廃ビルの屋上に柵などなかった。走れば、すぐだ。

「おい、よせ!」

 エルヴァンティコの声が聞こえる。構いはしない。この世界はすでに八雲が生きる世界ではなくなったのだから。飛び立つ事に、迷いはない。

 治療によってかつての筋力を取り戻した足は、あっという間に屋上の数メートルを駆けた。泥のような雲の向こうに太陽の光が見える。怖くはなかった。屋上の縁を蹴り出し、飛ぶ。怖くはなかった。

「ヤクモ!」

 落下中の風。地面がみるみる近付いてくる。痛みはない。痛みを感じる前に死ぬ。だから――

 何か、大きなものの影が、日の光を遮った。

 落下の最中にあった八雲の体は、何者かに捕まったようだった。包まれている。そして浮遊感。運ばれている?

「うわっ」

 八雲は地面に転げていた。いや、地面ではない。ここは屋上だ。つい数秒前までいた。誰かが、落下中の八雲を捕まえて運んだのだ。

「……」

 空中に、青い人型の巨人が浮かんでいた。

 まるで、アニメか何かで見るようなロボットだ。滑らかだが太く、力強そうな手足。胸部に嵌め込まれた大きな水晶。顔は狼のような野生味と洗練さを感じさせる。青い狼。

「〝ヴァンドール〟。わたしの相棒だ」

 エルヴァンティコが言った。

 八雲を覗き込むその顔は、ひどく悲しそうだった。

「死ぬなんてよせ。わたしを殺すのはいい。お前が生きるためだ。だが命を捨てるのは駄目だ。命は運命のために使っていいんだ。どれほどの時間がかかろうとも」

 空が重い。あの泥のように濁った雲の向こうには、今も青い空があるのだろうか。一人地獄に放り出されてしまったというのに。

「何故僕だけが生き残ったんだ……」


 どうやってそこまでたどり着いたのかは覚えていない。気が付けば、八雲はまた眠っていた。夢を見た。浜辺を歩く夢だ。遠くに江の島が見える。海は穏やかで、夕日とも朝日ともつかない太陽が海を燃やし尽くすほどに煌いている。

そういえば、百年の眠りだったというのに、自分は夢を見ただろうか。覚えていない。全てが浜辺で見た夢ならいい。百年後の世界に一人取り残されるくらいなら、永遠にたどり着かない江の島を目指して、ずっとこの浜辺を歩いていたい。

「――ヤクモ」

 声が聞こえた。自分でも不思議なくらいに、その一声で、自然と目が覚めてしまった。

起きられるかジムサカル食事を用意したリィザ ベルィ

 知らない言語なのに、どういうわけだか意味が頭の中に浮かぶ。八雲は身を起こした。寝台の上だった。弾力のある枕に、獣の毛皮で出来た掛布団。

 どうやら家の中にいるようだった。土気色の壁は暖色の照明によって落ち着いた風情を醸し出していた。部屋は広く、ダイニングのような雰囲気がある。実際、調理場らしいものが部屋の隅にあり、木製のローテーブルには皿に盛られた食事が二人分、向かい合わせに置かれていた。

「どうして君の言葉がわかるんだ」

 一瞬、エルヴァンティコは虚を突かれたような顔をした。

「……クルーラン語がわかったのか。ヤクモはわたしの通力クルールに反応していたから、何か繋がりが出来たのかもしれない」

 また言葉の意味がわかった。ニュアンスのような感じだが、何となく脳に浮かび上がってくるのだ。

「つう、りき……?」

「食べながら話そう。こっちへ来てくれ」

 昼間は空腹など感じなかったのに、肉の焼ける匂いが否が応にも食欲を掻き立てた。自分は生きているのだ。今、この瞬間に。決して夢ではなかった。

 テーブルに並んでいたのは、ステーキのように焼かれた肉、すり潰した黄色い何かに盛られた野菜、どろっとしたスープ。それにパンのようなものだ。地球の料理にとても似ているが、何となく違った雰囲気がある。

「座ってくれ」

 言われて、八雲はエルヴァンティコの前に座った。クッションの感触は柔らかい。

 おもむろにエルヴァンティコは両腕を軽く広げ、手の甲を八雲のほうに向けると、目を閉じ、少しばかり顔を上に向けた。

大地の風ガイドゥース空の妖精ネルセルト海の司パムァティリス三星を繋ぐ橋の守り人に栄光あれクルーラ スパ ナ クルトラム アベルタン我らの命を繋ぐ糧に深い感謝をヴァヴァ ヴァナク クルーラ リィザ ザナカ――」

 滔々と呪文めいた言葉を呟くエルヴァンティコを、八雲は思わず見つめていた。

 エルヴァンティコが片目を開けてちらっとこちらを見た。

「これはクルーランの食前の祈りだ。もう少し続くから、先に食べてていいぞ」

 そう言うと、エルヴァンティコはまた何事かを呟き始める。

「……いただきます」

 八雲は手を合わせて、軽く頭を下げた。

 エルヴァンティコの宝石のような瞳が八雲を見ていた。

「それが人間の祈りか。いいな、短くて」


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③イノセントブルーの扉 安田 景壹 @yasudaichi

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