第35話 マムルーク(1/3)

 地中海の北東、エーゲ海から黒海に向かう最初の関門、ダーダネルス海峡。


 その海峡の東岸に、キンメリク城塞じょうさいがある。


 旧世界の昔から、アナトリア半島を治めていた国家が、海峡を通過する他国の軍艦への威嚇および、街の防衛基地として築いた軍事拠点だった。

世界崩壊後、リクラフルスになった現在まで、その拠点は継続して利用され続けていた。


城塞は城と、それを囲む長方形の防御壁という二重構造になっている。

中心の城は箱形の建造物で、南北に十六パスティカ48m、東西に八パスティカ24m、高さ三パスティカ9mの大きさだ。

内部の階層は地上部に二階と、半地下になった牢屋がある。


 箱形の城を囲む防御壁の高さは四パスティカ12m

防御壁で形作られた長方形の距離は、南北に三十三パスティカ99m、東西に五十パスティカ150m


 防御壁の上部は通路になっており、等間隔に並ぶ側防塔そくぼうとう(外壁に来た敵を撃退したり、屋上に出て監視するための円筒形えんとうけいの建物)を行き来できる。


 側防塔そくぼうとうには狭間さま(矢を発射するための小窓)の付いた胸壁きょうへき(城壁の通路や側防塔の屋上で活動する兵士が隠れるための凸凹状の壁)が設けられ、有事の際は射撃手しゃげきしゅの視界を確保できる構造になっていた。


 建物全体は石材を用いた組積構造そせきこうぞうのため、内部の出入り口や窓、天井などはアーチ形状になっていて、積み上げられた石材の重みによって支えられている。


*


 昨日さくじつ降っていた雨は、日付変更線を越える前にはんでいた。


 城塞の中庭に敷き詰められた芝生、防御壁のそばに植えられた夾竹桃ザックントルコ松ブルティアは、しとどに濡れている。

雨後うごの城壁整備で木の下を通った兵士たちが、大量の雫を浴び、嬌声きょうせいに近い声を上げた。


 城塞じょうさい内に放たれる軍用犬たちは、濡れた芝生をお構いなしに走るため、脚や腹部の毛がたっぷり湿っている。


 彼らに近づいた兵士の一人は、目の前で身震いされた。

豪快にまき散らされた水滴に、驚いた兵士が尻もちをつく。

その様子を城門から見ていた門番たちが、弾かれるように笑った。

明るく笑う彼らの一人が、軍用犬に近づくと、頭や背中を優しく撫でつける。


城塞だけでなく、イーロスの町全体が、湿度の高い空気で充満していた。


 内城の西回廊を、松葉色の軍服を着た男が歩いてきた。

男が中庭に目をやると、外壁整備をしている兵士たちが彼に気付き、敬礼する。

彼らに応えて手を上げた男の両肩には、将校クラスを示す金の房飾りが揺れる。


男の年齢は三十の半ばに差し掛かる。

柔らかな癖のついた栗色の髪ブルネット

前髪は額を見せるように後ろに撫で付けられ、耳まわりから襟足は、くように短く刈られている。

鼻のてっぺんや頬骨のあたりには、日焼けの跡があるが、首元の肌は柔らかな乳白色をしている。

適度に太く整った眉と、滑らかな曲線を描く鼻梁は、古代彫刻のように彫りが深い。


涼やかな目元から覗く瞳は『ヘーゼルアイエラーギョズル』と表現される、緑と褐色の混ざった透明感あるはしばみ色。


 軍用犬の一匹が栗色の髪ブルネットの男に気付くと、身体の水気をまき散らしながら駆け寄って行く。

尻尾を千切れんばかりに振る犬に、彼は苦笑いした。


こらヘイもどれドヌシュ


 小声で話しかける栗色の髪ブルネットの男に、黒い耳をピンと立てた犬は『なんで?』と言いたげに瞳を丸くして、首をかしげた。


 軍用犬に選ばれる犬は頭が良く、体力的にも優れていると見なされた犬種が訓練される。

 彼らは訓練の中で、喜怒哀楽を見せないようにしつけられ、世話係以外から餌を貰っても、簡単になびかないように仕込まれる。


 栗色の髪ブルネットの男は、軍用犬の習性に俄然がぜん興味がわいてしまい、毎日隠れて、一匹だけ餌付けをしていた。

その結果、この一匹は彼が来るたび、反応を示すようになった。


「なんでそいつは大尉ユーズベシュにだけ、そんな反応するんですかねぇ」


犬を抑えに来た兵士の一人が、不思議そうに頭を掻いた。


「犬好きなのが、ばれてしまったのかな」


大尉と呼ばれた栗色の髪ブルネットの男は、柔らかい笑顔を浮かべ、華麗にかわす。

息を呑むほど端正な顔に、笑いかけられた兵士は、思わずたじろいだ。


「そっ、そんなもんなんですかねぇ」


 将校クラスの上官に微笑まれた兵士は、顔を赤くすると目を逸らし、犬の首をさすった。

笑顔で誤魔化した彼は「好かれることに悪い気はしないね」と続けると、背中を向けてその場を離れた。



ラズロフスキ大尉ユーズベシュ・ラズロフスキ


栗色の髪ブルネットの男の背後で、若い士官が呼びかけた。

振り返った彼は、部下に声を掛ける。


「やあ、アシュロフ」


アシュロフと呼ばれた若い士官は、軍靴を揃え右手で敬礼すると報告する。


ナサン中佐ヤーベイ・ナサンから通達です。昨日さくじつ港の検問で連行された男を、本日から大尉ユーズベシュが取り調べるように、と」


「なに?」


ラズロフスキは『聞き間違いか』とばかりに、目を丸くして部下を見た。


「港の検問は海軍部隊の管轄かんかつだろう?」


アシュロフは上官の視線を正面から受け止めると、緊張から口元をぐっと引き締め、肩を小さくした。


「は、はい。……ですが、ナサン中佐ヤーベイ・ナサンは絶対にやれ、と」


「その男が、何か特別なことをしたのか」


「連行した隊の報告では、同隊の士官といさかいがあったため……と」


「暴動ではなく、ただのいさかいで? 」


 ラズロフスキは陸軍騎兵団の下級士官、将校にあたる。

階級の大尉ユーズベシュは、海軍の階級に照らし合わせれば、船長キャプテンの立場に相当する。


 事情聴取を行うのは、どの部隊でも准尉アスツソバイバスチャヴス上級准尉アスツスバイクデミルバスチャヴスの仕事だと認識されている。

(『准尉じゅんい上級准尉じょうきゅうじゅんい』とは、一兵卒いっぺいそつからの叩き上げで士官に昇格した人間や、幼少期からの軍事訓練を専門的に受けた人間が、入隊して最初に与えられる階級である)


上級准尉アスツスバイクデミルバスチャヴス大尉ユーズベシュから三階級下にあたる。


「その男なんですが、連れていた女に問題がありまして……」


アシュロフは口をもごつかせる。


「どんな問題だ?」


 彼は周囲を見渡し、近くに誰もいないことを確認すると「失礼、お耳を」と言って、恐るおそるラズロフスキの耳元に近寄る。

彼の袖口には少尉テーメンを示す、一本の太い金糸が鈍く光った。


「はっきりとはしておりませんが、王女に似ているそうです」


「王女?」


現在のリクラフルスには、王女に該当する人間はいない。

ラズロフスキは嫌な予感がした。


「行方知れずのタシトゥールの王女に、そっくりだそうです」


アシュロフは声を潜め、慎重に口にした。


「タシトゥールの……?」


ラズロフスキは顔をしかめる。


 タシトゥールの王女が、セルダニアに嫁ぐ最中に行方不明になったのは知っていた。

はじめは自国の上層部が、スルターンの密命で攫ったのかと思っていた。

しかし軍内部でも情報が錯綜さくそうしていて、王女の居所が掴めないと騒がれていた。


ナサン中佐ヤーベイ・ナサンは女の対応をされるそうです。ラズロフスキ大尉ユーズベシュ・ラズロフスキには、誘拐容疑のある男の聞き取りを、お願いしたいと」


「昨日、取り締まりを行った部隊はどこだ?」


ハルカ騎士団エジュナードナルハルカトゥの第二……」


ハルカ騎士団エジュナードナルハルカトゥ? なんで彼らが港の警備に駆り出されていたんだ?」


部下の言葉に、驚いたラズロフスキが口を挟んだ。

聞かれたアシュロフは何度も瞼をしばたたかせ、絞り出したような声で答える。


「……たまたま、だそうです」


「そんなはずはないだろう」


「私には、教えてもらえませんでした」


アシュロフは困ったようの目線を落とし、口の端をぐっと引き締めた。

ラズロフスキは溜息を吐く。


「昨日連行されたなら、すでに彼らが取り調べを行っているだろう。いまさら私が聞くにしても……」


「やっ、ナサン中佐ヤーベイ・ナサンおっしゃるには、彼らでは満足な聞き取りもできない、だそうです」


部下はラズロフスキから漂う重い空気に気後れしながら、直前まで話していた中佐との会話を、必死に伝える。


「そんなに手強いのか?」


「外国人で、あまり言葉が理解されないようです」


外国人と聞いて、ラズロフスキは少しだけ腑に落ち、眉間みけんに寄る皺を弛めた。


「……なるほど。それ込みで、奴隷身分の軍人マムルークの私を指名したのか」

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