第34話 バッドトリップ(3/3)
『
女の声が聞こえる。
『
目の前の女は、
彼女の癖のない
優しい弧を描く眉。垂れ目がちな目元。
灰色がかった深い青色の瞳。
眉根からゆるく伸びる鼻筋と、小さく膨らんだ小鼻。
いつもなら薄く紅をさしたような桜色の頬は、血の気がなく、病人のように白かった。
『
――なにを言ってるんだ
彼女の言葉に反論したが、声が出なかった。
柔和な彼女の目元は、諦めと哀しみの色を
背を向けた彼女の肩は震えていた。
『
――ちがう、違う。そんなことない。……そんなことはない
いつもきれいにまとめていた栗色の髪。
その髪をほどけば、腰まで長いことを彼は知っている。
うなじから出るわずかな後れ毛や、赤く染まる小さな耳たぶを見ると、愛おしさが込み上げてきたことも。
彼女の肩に手を伸ばそうと駆け寄るが、前に進まない。
どんなに走っても、一向に距離が縮まらない。
『
女が消えた。
彼女の姿を探し、部屋を飛び出した。
長い柱廊を駆け抜け、突き当りの書斎の扉に手を掛ける。
――ちがう! そんな話でたらめだッ!!
扉を開いた先には、首を吊った女がいた。
――なんで……ッ
宙づりになった女の脚にしがみつき、必死に身体を持ち上げる。
冷たく反応のない彼女の口から、赤紫に黒ずんだ長い舌が垂れさがり、乾燥していた。
――なんで俺の言葉を聞いてくれなかったんだッ!?
見上げる彼の瞳に、彼女の口元がわずかに開くのが映る。
『アーヴィン』
呼ばれた彼は、呆然と女を見つめる。
――どうして君が……
*
「アーヴィンッ!」
どこかでカリカリと引っ掻く音がする。
眠っている間に泣いていたのか、瞼が腫れていた。
アーヴィンは時間をかけてゆっくり開く。
瞼の隙間からは、独房の石壁がうっすら見える。
悪夢から目覚めて安心したのも束の間、別の冷酷な現実が彼に突きつけられた。
げんなりした彼は、もう一度瞼を閉じる。
「アーヴィン、
二度寝を決め込むアーヴィンの額に、細かい石粒が当てられた。
彼の眼前には、小指の爪ほどの石粒がいくつも転がっている。
頭にきた彼は寝返りを打つふりをして、明り取りから背中を向けた。
チャリン――
「……ッ!」
アーヴィンはカッと目を開き、頭を上げる。
ひきずるように身体を動かし、音のした方向に向かった。
明り取りから漏れるぼんやりした光は、夜が明ける気配を忍ばせる。
穴の下には、外から入ったであろう砂や石粒が落ちていた。
その中に赤銅色に鈍く光るものが見える。
両腕を伸ばし、右手で掴んで確認する。
一エス銅貨(一枚あたり二百五十円相当)だった。
「
外から聞こえる高い声が、呆れたように言う。
地中海諸国ではない、北の国の言葉だった。
「
「
声の主はアーヴィンの問いかけに答えた。
「だれだ」
「ヴィンメス」
「“ヴィンメス”だと?」
アーヴィンは思わず顔をしかめる。
「……ミュルミドンじゃないのか」
「アーヴィンとおんなじだよ」
ヴィンメスは『おなじ』を強調して、彼の理解を促した。
アーヴィンは明り取りを凝視して起き上がると、頭より上にある穴を見上げた。
彼の視界に映る範囲に、人の姿は確認できない。
「どこだ。どうやって入った」
「用件だけ伝えるよ。クリスは無事」
声の主は淡々と切り出した。
「セシリアと一緒か?」
「一緒じゃない」
「クリスはどこにいる!?」
アーヴィンは声を上げる。
「静かに。まだイーロスにいる」
「あんたはなんで、クリスと俺を知ってるんだ」
見えない声の主を探すように、アーヴィンは瞳をきょろきょろ動かす。
「説明する時間はない。あなたに一刻も早くここを出てほしい」
「俺だって、出られるものなら出たいよ!」
「だったら聞いて。この
ヴィンメスは有無を言わさぬ勢いで話し始める。
「時計塔広場の大通りに面した門が、東にひとつ。関係者専用の通用門が、北と南にひとつずつ。アーヴィンは南の門に向かってほしい」
「脱獄しろって言うのか」
「それ以外、早く出られる方法がないでしょう」
「……協力してくれるのか」
「南の門番の交代時間は、午前と午後の三時と九時。門前に午前九時に来て。交代時間の前後十分に、交代する兵士と見張りの兵士が入れ替わる」
「交代の時間を狙うと、門番が増えるじゃないか」
「南門はあまり使われない場所なの。兵士たちの気が弛む時間を狙ってる。あなたの姿が確認出来たら、こっちで注意をそらすから隙を見て。……もし間違えて、北や東に向かったら、チャンスはないから。気を付けて」
「なあ、俺の手枷は」
「足の拘束はされてないから、走れるでしょう? 門を出たら真っ直ぐ南に下って。この要塞はダーダネルス海峡の東岸にあるから、海岸線が右に見えていれば、目の前に雑木林が見えるはずだよ」
「雑木林……海岸沿いにある公園か」
「広いけど、そこに入ったら身を隠して待っててね。迎えが来るはずだから」
「迎えって、誰が来るんだ? クリスはいるのか?!」
「クリスは……」
ぅわおんっ! ぅおん! ぅおーんっ!!――
遠くで軍用犬の鳴き声が聞こえると、犬たちの足音と激しい息づかいが、徐々にこちらに近づいて来た。
ハッ、ハッ、ハッ、ハッ、ハッ――
ぐるるるッ ぅわおぅ!――
「ぅあッ! 今日の午前九時、南門だよ!」
ヴィンメスは一方的に会話を切り上げると、遠ざかっていった。
「なんなんだ、あいつは」
女性でも妙に高い声質。
遠ざかっていく軽やかな足音を聞いて、アーヴィンは得体の知れない不気味さに、鳥肌が立った。
――知らない人間から、脱獄計画を披露されるなんて。あまりにも出来過ぎている
怪し過ぎて、なにが目的かわからない。
彼は素直に乗る気になれなかった。
――しかし、クリスのことを持ち出されたのが気にかかる
ヴィンメスは、クリスの居場所を知っているらしい。
どうしてアーヴィンがここに捕まっていることを、突き止められたのかも、謎だ。
――あぁっ、考えてもわかるわけない。話の内容からは、むこうはクリスを盾にしてるとも取れる。やるしかないじゃないか
あちらの目的がなんであれ、アーヴィンとしても、ここを出たいのは同じだ。
普段の彼なら、知らない人間の話になんて絶対に乗らない。
しかし、独房に閉じ込められた現状は、非日常と言っていい。
目的が一致しているなら、乗るしかなさそうだった。
相手がどこの誰かわからなくても、彼に選択肢はなさそうだった。
――それに彼女が言っていたじゃないか。『
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