第29話 港(1/3)

 何層にも重なる雲が、生牡蠣色イステリディエベヤズ仄白ほのじろさと薄墨色アチュクシヤの影によって大気のを示す。

そのうねりは、なにかの生き物がうごめいているように見えた。


 六月に入り本格的な夏季が訪れたというのに、朝から怪しい雲行きが、アーヴィンの気持ちを陰鬱いんうつにさせる。

水気を含んだ空気は、身体に張り付くように重く感じられた。


 アーヴィンをはじめとするクリス、ファティマ、セシリアの四人は、アロヴァヂェキからイーロス港までの移動に、幌馬車ほろばしゃを借りた。

マンジュリクの農夫にシクロ銀貨七枚(一枚あたり約一万円相当)を払ったところ、素朴な風貌をした若い農夫は、みずか御者ぎょしゃの役を買って出た。

 彼を合わせた五人で、二日かけて六百六十七メラブ120kmの距離を移動する。

出発初日の夜は野宿をしたが、農夫はずっとご機嫌な笑顔で接し、積み荷の扱いも丁寧にしてくれた。

想定以上の働きをしてくれた若い農夫をいたわるため、アーヴィンたちは到着した民宿で、彼と夕飯を共にした。


 その時に飲んだ葡萄酒が、思いのほか美味かった。

素朴な農夫と気が合ったためか、アーヴィンは普段より飲み過ぎてしまった。


 翌朝には、イーロス港からダーダネルス海峡を越える帆船に乗る予定がある。

絶対に寝過ごすことはできないと、気を張っていたのだが、予定の時刻になってもアーヴィンは寝室から出てこなかった。

半ば予想していたクリスが、仕方なく叩き起こし、彼は朝食抜きでなんとか間に合った。


アーヴィンの杞憂は曇り空のせいではない。

半ば自業自得の、二日酔いだ。


 民宿を出て港に向かう途中には、大きな時計塔がある。

年代を感じさせるその塔を中心に、広場が形成されている。

その広場では朝の市場の準備をする人々と、鎧を着て物々しく往来するリクラフルス兵たちとが、散り散りに行き交っていた。


 時計塔から北に向かって一メラブ七パスティカ200mほど歩けば、目的のイーロス港の桟橋がある。

そこは民間専用の船着き場である。


「朝早いのに、こんなに兵士がいるんですね」


酔いと眠気で反応の鈍いアーヴィンに、クリスが声を掛けた。

まだ変声期を迎えていない少年の高い声が頭に響き、彼の眉間に皺が寄る。


空は雨が降るか降らないか微妙な曇り具合で、帆船はんせんの航行に影響がないか、アーヴィンは気になりはじめていた。


――せめてダーダネルス海峡を渡り切って、ゲリボル港に着くまでの五時間さえ、降らずにいてくれたら


鬱々と何度も空を見上げる彼をよそに、クリスとセシリアは軽快な足取りで港の桟橋へ向かっていく。

外套を頭から被ったファティマは、足取りの重いアーヴィンを気にしてか、彼からあまり離れないように、ゆっくりした歩調で後ろから着いてきていた。


「なんで並んでるの?」


桟橋の手前にできた人の列を見て、ファティマが呟いた。


「この先で検問をしてるんだろ」


「けんもん?」


アーヴィンは二日酔いで痛む頭を抱え、顔をしかめて頷いた。


 出国時に身元を問い詰められた時に備え、彼は事前に設定を決め、話を合わせるように三人に言っていた。

アーヴィンとセシリアは仕入れ業者の夫婦、クリスは二人の子供。

ファティマは店の従業員というふうに。


 ファティマの珍しい容貌をジロジロ見られるのは避けたかったので、彼女の白髪は出発前に黒く染めさせた。

ヘナやインディゴを使った染髪にすると、簡単に色戻しができないため、黒油を使った。

黒油は水に濡れたり、強くこすれると色落ちてしまうので、頭に頭巾ヒジャブを着けさせようとしたのだが、彼女が強く拒絶したので、外套を深く被らせるだけに留めた。


 アーヴィンの頭はすっきりしない。

二日酔いもあるが、出発前の段階で気が重くなる話が続いたのもある。


*


「君の行きたがってる島は、すぐには行けない」


 食卓を挟み斜め向かいに座るファティマに、アーヴィンは言いにくそうに切り出す。


ファティマが取引を持ち掛けた次の日だった。


先に起きていたセシリアはかまどの前で何かを焼いていて、クリスは二段式の薬缶チャイダンルックで沸かした湯で紅茶チャイを淹れていた。


 食卓にはパンエキメッキチーズベヤズペイニルの盛り合わせ、羊飼いのサラダチョバンサラタスきゅうりサラタリックとパプリカ、玉ねぎなどをさいの目切りにし、刻んだパセリをまぶしたサラダ)を入れた器が並ぶ。

 肉詰めドルマは前日に消費したので、肉料理にあたるものはなかったが、セシリアが作っていたトマトとピーマンの卵炒めメネメンを食卓に追加した。

台の上は赤、黄、緑と彩られ、見た目には豪華になった。


朝からすまなそうな顔で話すアーヴィンに、ファティマは目をまたたかせる。


「俺たちにも予定がある。リクラフルスに来たのは薬草の調達のためだ。それを必要としている人間に届けるため、これからゴーグロフトへ行く予定なんだ」


「ゴーグロフト?」


 アーヴィンは食卓に置かれていたパンエキメッキチーズベヤズペイニルの盛り合わせと、羊飼いのサラダチョバンサラタスの皿を端に寄せる。

空けたスペースに、ファティマから見て北の方角が上になるように、持ってきた地図を広げた。


地図の中央に描かれた地中海マーレノストゥルムに向かって、大きく突出とっしゅつした右側の陸地を指す。


「ここがアナトリア半島ヒェルソーニソスティサアナトリアス。いま俺たちがいるリクラフルスだ」


アナトリア半島を指した彼の指は、つつ……っと右へ寄り、地図の切れ端で止まると、上に向かった。

黒海アクシノスポントス』と書かれた海岸線の一番右、地図の端に『コーカサスカフカソス』の文字が切れ切れに見えた。


「地図には入ってないが、黒海アクシノスポントスの東岸に国がある。俺たちはここに向かう」


ファティマはごくりと唾を呑んだ。


「海や海峡を帆船はんせんで移動する。順調に進んでも片道で半月かかる。君の希望する場所へ行くのはその後だ。そこから向かうと、二か月以上先の話になる」


「二か月……」


彼女は地図を見て固まった。


「我慢できないなら、ここにいるセシリアに同行を頼んで、女二人で行く方法もある。あまり勧められないが」


アーヴィンはそう言うと、隣に座ってパンエキメッキを口に入れているセシリアを見た。


「ん、ちょっとぉ!?」


話を振られたセシリアは、口元をもごもごさせながら反応する。


「私もゴーグロフトに用があるのっ。だいたい、このはアーヴィンのなに? 島って、まさか……」


「いや、違う。ちがう島だ」


セシリアの言いかけた言葉をアーヴィンが遮る。

彼女にはファティマの事情を説明できていなかった。


どうしてファティマはここに居るのか。

何があって、今後どうするのか。


 彼自身もはっきりしないところが多く、他人に聞かれると混乱しそうだった。

悩んだ末に『海賊に攫われてたところを、成り行きで拾ってしまった女性』と言うところで留めた。


 アーヴィンの向かいで聞いてたクリスが『もっと重要な説明があるんじゃないの』と言いたげに見ている。

しかしファティマが王女であること、本来はセルダニアに向かわなければいけないことは、伏せた。

入り組んだ状況の説明は、アーヴィンも得意ではなかったからだ。


「で、このファティマは。この、ジェルバ島ってところに、帰りたいってことなのね?」


セシリアの指先が、地図の上のタシトゥール、ガベス湾を指す。


「そうだ」


アーヴィンは頷く。

ロータスの樹などの説明を端折はしょり、ファティマはジェルバ島出身の娘ということにしてしまった。


「ここからジェルバ島って、遠いわね」


「ああ」


 セシリアの白い指は、アフリカ大陸北岸の目立つ突端とったん、タシトゥールのボン岬半島ヒェルソーニソスカープボンを指すと、すぐそばのセルダニア領シチリア島を突っ切る。

指の軌道はそのまま地中海マーレノストゥルムを横断すると、右端のアナトリア半島のエーゲ海際で止まった。

指の動きを黙って追っていたファティマも、とても遠い場所であることを認識した。


「ここからさらに、北東のゴーグロフトへ行くのよ。黒海アクシノスポントスマルマラ海ファーラサトゥマルマラの移動も含めたら、ジェルバ島なんて三か月以上かかりそう」


風を受けて航行する帆船の移動は、平均五ノット時速10km弱


その日の海の天候に左右されるが、早くて七ノット時速13km弱、遅くて四ノット時速7.5kmである。(一ノットは一時間に一海里1852m進む)


 潮の流れに乗れば多少速く進むかもしれないが、日中の明るい時間しか航行できない。

日が暮れて暗くなれば、船が座礁する危険があるためだ。

一日に移動できる時間は、日の出から日の入りまでの、十から十二時間ほどになる。


 七ノット時速13km弱で十二時間の航行ができたとして、一日で移動できる距離は八百六十六メラブ156kmまでである。

それでも、陸地を徒歩や馬車で移動するよりは遙かに速いため、物の運搬に大変重宝される。

しかし、船での長旅は『地獄の道行みちゆき』と過去の偉人が記録に残すほど、過酷である。


 移動速度を速くすると、船の安定性を犠牲にするため、乗客はひたすら船酔いとの戦いになる。

夜休む時は必ず陸地で宿泊することや、場合によっては健康を損なうので、陸地でしばらく休むということもあり得る旅程だった。


 アーヴィンたちの予想する『ゴーグロフトまでの半月(二週間)』は、かなり早い旅程を予定されている。

船酔いによる体調不良や、天候の悪化などを考えると、一ヵ月かかってもおかしくない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る