第31話 港(3/3)
アーヴィンは頭に残る重い感覚を引きずりながら、列を離れたセシリアとクリスが向かった後方、時計塔の広場をしばらく注目していた。
しかし、二人が戻ってくるまで見ていても意味がなく、待つ以外やることもない、と頭上に蠢く雲を見上げた。
――今度あの宿に泊まる機会があれば、あの葡萄酒とマルマラ海の牡蠣を食いたい
朝食を抜いて空きっ腹のせいか、ぼこぼことうねる雲の形と色から、生牡蠣が連想されて仕方なかった。
右隣のファティマに目をやると、見るものすべてが珍しいのか、外套の中で
彼女は列の先頭集団や、桟橋を往来する兵士たちをつぶさに観察していた。
しばらくすると、前に並ぶ
老婆は大きく膨れた焦げ茶の布袋を背負っていた。
その荷物からは
荷の重さなのか足腰の疲れか、老婆はしばしばよろめき、彼女の荷物は列からはみ出していた。
不意に行列の先頭、桟橋の端に建つ検問所から、あたりの空気を引き裂くような、けたたましいラッパの音が響いた。
銀色の鉄の鎧をまとった兵士たちとは別の、
駆けつける軍人の一人が、列からはみ出ていた老婆の荷袋に接触する。
ファティマは、あっと反応し、バランスを崩した老婆の腕に手が出たが、伸ばした腕は空を切り、老婆は地面に尻もちをついた。
老婆の身体の下敷きになった荷袋の口からは、目にも明るい
音で気付いたアーヴィンが、足元にあった
あんずは採れたばかりのようにみずみずしく、甘く新鮮な青い香りが彼の鼻先をくすぐった。
並んでいた人々は散乱したあんずに驚き、
ファティマも
しかし、乱れた行列の人々を避けながら急いでいた別の軍人が、目の前であんずを踏んでしまった。
無残に潰れたあんずは、吹き出した汁で地面を湿らせ、甘く儚い香りを拡げた。
あんずを踏みつけた軍人は、驚きと苛立ちを含んだ声で「なんだ!?」と声を上げ、
そばで見ていたアーヴィンは、しゃがみ込んだファティマを気にしつつ、横の老婆に無事だったあんずを渡した。
「すまない、婆さん。一つダメにしてしまった」
「いいのよ、ありがとう」
老婆は弱々しい笑顔でアーヴィンに応えた。
「……っんだこれ、まだベタベタするな。気持ち悪いっ」
若い軍人は執拗に靴底を擦り、忌々しげに舌打ちした。
果肉があらかた取れたのを確認すると、桟橋の検問所へ向かおうとした。
行列に並ぶ人々は、その様子を見えないふりをして、拾ったあんずを老婆へ渡していた。
「それだけですか?」
重い空気を引き裂くような、高い
その場に居合わせた誰もがドキリとし、声の出所を目で追う。
のろのろと立ち上がったファティマが、立ち去ろうとする軍人の背中に投げかけた言葉だった。
「ぁんだって?」
声を掛けられた軍人は、苛立ちから目をひん剝いたようにファティマを凝視し、近寄ってきた。
「他に言うべきことがあるのでは?」
彼女は睨みつける軍人の視線をものともせず、さらに声を掛けた。
その声は凛として高らかだが、あくまで落ち着いた口調だった。
「ばか、やめろ」
アーヴィンが驚き、ファティマを止めようと背後に歩み寄ったが、彼女はアーヴィンの制止に構わず続けた。
「年配の方にぶつかった方も、果物を踏んだあなたも、他に言うべきことがあるのでは?」
軍人はファティマの腕を荒々しく掴むと、外套の覆いを払いのけた。
覆いを取られた彼女は、出発直前に染めていた黒い髪が肩まで流れ落ちる。
「すみませんっ。口の利き方を知らない、田舎者でして」
焦ったアーヴィンが、軍人とファティマの間に躍り出た。
「これは軍人さんを見るのも初めてでして。どうかご容赦ください」
ひたすら
「こいつはお前の女房か」
聞かれたアーヴィンは、一瞬答えに詰まった。
検問対策での女房役はセシリアのつもりでいたが、その彼女が現場に帰ってこない。
「ええ。これは気が強くて、私も
頭を下げ、言われたことを否定せずに受け流すことしか、彼には思いつかなかった。
「女の
若い軍人はファティマの腕を掴んだまま、アーヴィンを見て
「職務中なんだよッ! 警備で忙しい、妙な言いがかりは困るッ」
軍人はファティマとアーヴィンの顔を交互に睨みつけ、威圧するように叫んだ。
老婆をはじめ、行列に並ぶ人々は下を向き、ことが収まるのを待っていた。
「……
声高に叫んだ若い軍人の背後から、同じような松葉色の軍服を着た人間が寄ってきた。
ファティマの腕を掴んでいた軍人は、後ろに来た軍人の声に振り返ると、驚いたように背筋を伸ばし、軍靴の踵を鳴らして敬礼した。
「
「
上官らしき軍人に
「そちらの老人の荷物が何かの弾みで落ち、そばを通っただけの私に詫びろと、この女が……」
「嘘っ! 恥知らず!」
平然と
横で見ていたアーヴィンは、彼女が感情的に
「なんだと! 荷が落ちたのは俺のせいではないぞ」
「まかり間違って踏んだにしても、謝罪もなく、汚いモノのように靴底を擦って舌打ちしていた!」
ファティマに言い
「それがなんだと言うんだっ! 貴様の言いがかりだッ!」
そう言うと、下士官は彼女の左肩に手を伸ばし、強引に掴みかかろうとした。
「やめんかッ」
中尉の一喝が響く。
下士官はビクッと我に返り、手を掛けていたファティマの左肩を慌てて離した。
「礼儀を知らないのはどちらか」
中尉は下士官を睨みつけると、肩を怒らせているファティマの前に出た。
厚い雲が垂れこめていた空は、アーヴィンの気持ちを代弁するかのように、小さな雫を落とし始めた。
「部下が失礼した。事態がすぐに飲み込めないので、改めて事情をお聞かせ願いたい」
ぽつぽつと降り始めた雨に、行列に並んでいた人々はざわつき、建物の下に避難し始めた。
ファティマがこれ以上余計なことを言わぬよう、アーヴィンはすかさず前に出た。
「いえいえ! そんな、軍人さんに大層に扱ってもらうほどのことでは、ございませんよ。こちらの不注意でしたから。どうかお収めください」
中尉は彼の作り笑顔に目をやった後、背後のファティマにもう一度視線を投げた。
「なぜそんなに汚れている」
中尉の言葉に驚き、アーヴィンがファティマを振り返ると、彼女の外套の内側と襟まわりが黒ずんでいた。
――しまった、黒油が落ちてきた
ぎょっとしたアーヴィンが、急いで彼女の外套を被せようとすると、中尉の腕が横から制止した。
「奥方の様子がおかしい」
ファティマの髪の生え際は白く色戻りし、雨水が付いた部分にも点々と色ムラができていた。
「か、勘弁してください。家内は生まれつき病弱なものでして」
アーヴィンが必死に彼女を隠そうとしたが、その様子がさらに中尉の注目を引く結果になった。
「……ぜひ、事情をうかがわせていただこう」
中尉の口調はあくまで丁寧だが『絶対に逃さない』という気迫が感じられ、とても避けて通ることができない雰囲気だった。
雨が降り出し、行列の様子が気になったクリスは桟橋の前に戻ると、松葉色の軍服と銀色の鎧がアーヴィンとファティマを囲み、連れていく場面に出くわした。
少年は途方に暮れ、二人を見送ることしかできなかった。
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