第32話 バッドトリップ(1/3)
ピチョン……ピチョン……――
切れの悪い水音が響く。
もたつくように遅く、絶妙な間隔で落ちる水滴が、アーヴィンの神経に障る。
床も壁も天井も、黒く滑らかな石で敷き詰められた独房は、湿っぽくてカビ臭いうえに、
床に直接横たわると、ひんやり冷たい。
長時間の拘束から解放され、疲れ切って力の入らない身体は、触れた石畳に容赦なく体温を奪われていく。
――凍死するほどじゃないが、身体が
アーヴィンが押し込められた
広さにすると
廊下に続く木戸は分厚く、
向かいの壁の天井付近には、明り取りのための
――格子が外れたとしても、外には出られないな
もっとも今の彼は、両手を革の
身体の正面に置かれたものを、指先で掴むことしかできない。
両腕が自由に動かなければ、逃げたところですぐに捕まるのが目に見えた。
今日の午前から――アーヴィンが連行された時間から降り始めた雨は、彼が取り調べを受けている間、ずっと降っていた。
日が暮れて、
穴から漏れる音と匂いから『今は
明り取りから見た夜空は、いまいちすっきりしない。
――寒くて眠れん
日中に『取り調べ』と称した
リクラフルスは『司法国家』と言われているが、現実は国力増強のために軍事に力を入れ、軍人が幅を利かせる『軍事国家』に近い。
――ファティマとの成り行きを一切喋らなかった自分を、褒め称えたい
この国では、彼は明らかな外国人だ。
簡単な挨拶は返すが、込み入った会話には言葉が不自由なふりをして、とんちんかんな話をした。
――まぁ、あんだけ反抗的な態度取って、目立った上に、外見を偽って出国しようとしてたのがバレれば。詰められても仕方ないんだけどなぁ
良くない事態だが、遅かれ早かれこうなるだろうと、心のどこかで不安に思っていた。
心の重荷から解放されて、ほんの少しだけ安心した気持ちもある。
――結局、金にはならなかったなぁ。いつまでもあんな状態でいるわけにもいかなかったし
アーヴィンにとって現状は悪でも、最悪かまでは、わからない。
少なくとも、ファティマにとっては『居るべき場所』に近いところまで来たような気がする。
彼女は王女で、体面上でも『嫁に欲しい』と現国王に望まれているのだ。
身元さえ確認されれば、粗雑な扱いは受けないだろう。
思い起こせば、今日は朝食を食べ損ねていた。
寒さと疲れからぐったりしたが、もともと空腹だったことにすら、気づけていなかった。
――今は自分の身の安全だけを考える
重い身体を引きずり、アーヴィンは木戸の覗き窓に近寄って声を上げる。
「寒い。腹減った。なんかくれ」
言葉の不自由な外国人らしく、片言で喋るように心掛けた。
見張りで廊下に立つ兵士が近くにいないのか、なんの反応もない。
「誰かぁ、いないのかぁ」
哀れな物乞いのように、声を上げる。
しばらくして、がしゃがしゃと重い金属が当たる音を鳴らして、一人の兵士が廊下を歩いて来た。
兵士はアーヴィンのいる部屋の、手前の部屋で止まった。
「ここだ。ここだよぉ」
覗き窓から必死に声を掛けると、兵士が木戸の前まで来る。
「なんだ」
鎧を着た兵士は、無愛想に答えた。
アーヴィンは懇願した。
「寒いんだ。朝から何も食ってない。腹が減って眠れない」
兵士は溜息をつくと「待ってろ」と言って、廊下の奥の上り階段に向かっていった。
もっと荒い反応をされることを想像していたアーヴィンは、気が抜けて、木戸に身体をもたれかけたまま、ずるずると床にへたり込んだ。
その状態のまま、三十分ほどすると、また鎧を揺らす音が近づいて来た。
「扉から離れろ」
兵士は廊下から命令した。
アーヴィンは素直に木戸から
「もっとだ」
兵士は木戸の覗き窓から部屋の様子を見て、アーヴィンとの距離を確保するため指示を出し、彼はさらに
兵士は彼が十分に距離を取ったことを確認すると、慎重に扉を開く。
「毛布と
扉を開けた兵士の後ろには、二人の兵士が立っていた。
一人の兵士は平たい木製の皿と
皿の上には乾燥して硬くなった
もう一人は生地の薄い、汚れた毛布を持っている。
「あ……、ありがとうございます」
アーヴィンが弱り切った声で礼を言うと、二人の兵士は無言で床に置き、すぐに出て行った。
廊下で待機していた兵士が、大きな音を立てて木戸を閉めて施錠すると、彼らの足音は遠ざかって行った。
暗く冷たい部屋に取り残されたアーヴィンは、無心で
――硬いうえにパサつく
拘束された身で贅沢など言えないが、とにかく味がしない。
なんとか食い千切って喉に押し込もうと咀嚼するが、乾燥した
隣に置かれた
――最低に近いが、最悪ではないんだよな
過去に経験した状況を思い出し、口元が弛んだ。
こぼれる涙を流れるままに
むかし受けた仕打ちに比べれば、最悪ではない。
今のところは。
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