第32話 バッドトリップ(1/3)

ピチョン……ピチョン……――


切れの悪い水音が響く。

もたつくように遅く、絶妙な間隔で落ちる水滴が、アーヴィンの神経に障る。


 床も壁も天井も、黒く滑らかな石で敷き詰められた独房は、湿っぽくてカビ臭いうえに、寝台ベッドにあたる簡易な台もない。

床に直接横たわると、ひんやり冷たい。

長時間の拘束から解放され、疲れ切って力の入らない身体は、触れた石畳に容赦なく体温を奪われていく。


――凍死するほどじゃないが、身体が強張こわばって休めない


 アーヴィンが押し込められた方形ほうけいの部屋は、廊下に面する壁が四クビト2m、奥行きが六クビト3m

広さにすると二十四平方クビト6平方メートルだろう。

廊下に続く木戸は分厚く、二ユニカ5cm四方の覗き窓がついている。

向かいの壁の天井付近には、明り取りのための二パラミ15cm四方の穴があり、外に鉄製の格子が見えた。


――格子が外れたとしても、外には出られないな


 もっとも今の彼は、両手を革の拘束具こうそくぐで繋がれている。

身体の正面に置かれたものを、指先で掴むことしかできない。

両腕が自由に動かなければ、逃げたところですぐに捕まるのが目に見えた。


 今日の午前から――アーヴィンが連行された時間から降り始めた雨は、彼が取り調べを受けている間、ずっと降っていた。

日が暮れて、松明たいまつの灯りがないと一パスティカ3m先の足元も見えないこの建物では、外の状況は正確にはわからない。

穴から漏れる音と匂いから『今はんでいる』ということだけわかる。


明り取りから見た夜空は、いまいちすっきりしない。


――寒くて眠れん


 日中に『取り調べ』と称した恐喝きょうかつに近い詰問きつもんに、動く気力も出ないほど心を打ちのめされた。

リクラフルスは『司法国家』と言われているが、現実は国力増強のために軍事に力を入れ、軍人が幅を利かせる『軍事国家』に近い。


――ファティマとの成り行きを一切喋らなかった自分を、褒め称えたい


この国では、彼は明らかな外国人だ。

簡単な挨拶は返すが、込み入った会話には言葉が不自由なふりをして、とんちんかんな話をした。


――まぁ、あんだけ反抗的な態度取って、目立った上に、外見を偽って出国しようとしてたのがバレれば。詰められても仕方ないんだけどなぁ


良くない事態だが、遅かれ早かれこうなるだろうと、心のどこかで不安に思っていた。

心の重荷から解放されて、ほんの少しだけ安心した気持ちもある。


――結局、金にはならなかったなぁ。いつまでもあんな状態でいるわけにもいかなかったし


アーヴィンにとって現状は悪でも、最悪かまでは、わからない。

少なくとも、ファティマにとっては『居るべき場所』に近いところまで来たような気がする。

彼女は王女で、体面上でも『嫁に欲しい』と現国王に望まれているのだ。

身元さえ確認されれば、粗雑な扱いは受けないだろう。


 思い起こせば、今日は朝食を食べ損ねていた。

寒さと疲れからぐったりしたが、もともと空腹だったことにすら、気づけていなかった。


――今は自分の身の安全だけを考える


重い身体を引きずり、アーヴィンは木戸の覗き窓に近寄って声を上げる。


「寒い。腹減った。なんかくれ」


言葉の不自由な外国人らしく、片言で喋るように心掛けた。

見張りで廊下に立つ兵士が近くにいないのか、なんの反応もない。


「誰かぁ、いないのかぁ」


哀れな物乞いのように、声を上げる。

しばらくして、がしゃがしゃと重い金属が当たる音を鳴らして、一人の兵士が廊下を歩いて来た。

兵士はアーヴィンのいる部屋の、手前の部屋で止まった。


「ここだ。ここだよぉ」


覗き窓から必死に声を掛けると、兵士が木戸の前まで来る。


「なんだ」


鎧を着た兵士は、無愛想に答えた。

アーヴィンは懇願した。


「寒いんだ。朝から何も食ってない。腹が減って眠れない」


兵士は溜息をつくと「待ってろ」と言って、廊下の奥の上り階段に向かっていった。

もっと荒い反応をされることを想像していたアーヴィンは、気が抜けて、木戸に身体をもたれかけたまま、ずるずると床にへたり込んだ。

その状態のまま、三十分ほどすると、また鎧を揺らす音が近づいて来た。


「扉から離れろ」


兵士は廊下から命令した。

アーヴィンは素直に木戸から二クビト1mほど離れた。


「もっとだ」


兵士は木戸の覗き窓から部屋の様子を見て、アーヴィンとの距離を確保するため指示を出し、彼はさらに二クビト1m離れた。

兵士は彼が十分に距離を取ったことを確認すると、慎重に扉を開く。


「毛布とパンエキメッキだ」


扉を開けた兵士の後ろには、二人の兵士が立っていた。


 一人の兵士は平たい木製の皿と木杯カップを持っている。

皿の上には乾燥して硬くなったパンエキメッキが置かれ、木杯の中には水がなみなみと入っていた。

もう一人は生地の薄い、汚れた毛布を持っている。


「あ……、ありがとうございます」


アーヴィンが弱り切った声で礼を言うと、二人の兵士は無言で床に置き、すぐに出て行った。

廊下で待機していた兵士が、大きな音を立てて木戸を閉めて施錠すると、彼らの足音は遠ざかって行った。


暗く冷たい部屋に取り残されたアーヴィンは、無心でパンエキメッキに齧りつく。


――硬いうえにパサつく


 拘束された身で贅沢など言えないが、とにかく味がしない。

なんとか食い千切って喉に押し込もうと咀嚼するが、乾燥したパンエキメッキは口の水分を奪ったうえに、張り付いてなかなか飲み下せない。

隣に置かれた木杯カップの水を口にすると、どこかかび臭く、生温かった。


――最低に近いが、最悪ではないんだよな


 過去に経験した状況を思い出し、口元が弛んだ。

パンエキメッキを飲み下すことだけに集中すると、少しだけ腹が満たされたせいか、目から水が垂れた。


こぼれる涙を流れるままにパンエキメッキを完食すると、木杯の水を飲み干し、与えられた毛布にくるまり横になった。


むかし受けた仕打ちに比べれば、最悪ではない。

今のところは。

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