第38話 母国語(1/4)

 ラズロフスキが聴取室の扉を静かに開ける。

部屋の中央に机が一台、入り口の右端には壁に取り付けられた書記官用の机が一基だけ置かれていた。


 机の向かいには、赤毛の男が肩を落とし、身体の前で縛られた両手をだらりと下ろし、椅子に深く座らされている。

男は入って来たラズロフスキたちに反応し、左肩をピクリと動かしたが、顔は下を向いたままだった。


「……さて、書記机が足りないな。キチュバルク准尉アスツソバイバスチャヴス・キチュバルク、君はアシュロフ少尉テーメン・アシュロフの交代要員として、彼の速記をそばで見ていてくれるかな」


ラズロフスキはもっともらしい理由をつけて、癖のある下士官を遠ざけようとした。


「いいえェ、お言葉ですがァ大尉ユーズベシュゥ。わたしはァ、エイナル中尉ウステーメン・エイナルから書記をするようゥ言われてますゥ。交代要員が必要でしたらァ、そちらの隊からァお呼びくださいィ。わたしはァ自分の仕事をォ遂行するのでェ、お構いなくゥ」


そう言うと、キチュバルクは飄々ひょうひょうと書記机に座ってしまった。


別の部隊とはいえ、階級が上の人間を差し置いて、さっさと着席してしまった神経の太さに、二人は啞然とする。


「貴……様ッ」


席を取られたアシュロフが、遠慮のないキチュバルクを𠮟りつけようと口を開いたが、ラズロフスキが制止した。


「仕方ない。別の机を一脚、持ってくるしかないな。悪いが、持ってきてもらえるか?」


ラズロフスキはアシュロフに命令した。

アシュロフは、涼しい顔で席に座るキチュバルクを一瞥すると、予備机を探しに廊下に出て行った。


ラズロフスキは、書記机で淡々と準備するキチュバルクを苦々しく思いながら、中央に据えられた台の前に腰を下ろした。


目の前の男は、王族誘拐の重要参考人と言うより、すでに誘拐犯として確定されたも同然だった。


 赤毛の男はおもむろに顔を上げる。

顎のまわりにぽつぽつと髭が伸び、くたびれた顔の男と眼が合うと、ラズロフスキは息を呑んだ。


光の加減によっては金にも見える、迫力のある琥珀の瞳。

ラズロフスキと目の合った赤毛の男も、彼のハシバミ色の瞳を見るとわずかに目を開き、表情を硬くした。


「始めないんですかァ、大尉ユーズベシュ


不自然な沈黙に、背後にいたキチュバルクが急かすように声を掛ける。


「……やるさ」


ラズロフスキは、取り澄ました言動で絶妙に苛つかせるキチュバルクの態度に舌を巻く。

彼は心に生じた動揺を押し殺すよう、椅子に座り直す。


「名前を聞こうか」


「……アーヴィン」


赤毛の男は間を溜めて、重々しく口を開いた。


「姓は?」


「ない」


赤毛男の答えに、彼は眉をひそめると背筋を伸ばす。


「エス アラディニ アタス エルチ ガミサァ、アン エイクネビ シンバジ」


ラズロフスキは一息つくと、突然耳慣れない言葉で赤毛男をまくしたてた。

背後で聞いていたキチュバルクが、驚いて立ち上がる。


大尉ユーズベシュゥ! わたしはァその言語は……」


「この男は外国人だ。話しやすい言葉で聞いてやってるだけだ。君には後で詳細を伝えるから、黙っていなさい」


彼は硬い笑顔を貼り付け、キチュバルクの抗議を潰した。


千夜一夜物語のアラジンエスアラディニアタスエルチガミサァそれともシンドバッドのつもりかアンエイクネビシンバジ


 ラズロフスキは赤毛男に向き直ると、書記官のキチュバルクが聞き取れない言語を容赦なく浴びせる。


アーヴィンだとアーヴィン?」


赤毛男は黙って、彼のハシバミ色の瞳を見つめている。


「“誰でもないアーヴィン”。酷いネーミングセンスだエスアリスサシネリサカヘリスゲジバ


自らを『アーヴィン』と名乗る赤毛の男は、悲し気に目を伏せ、背中を丸めるように小さくなった。

ラズロフスキは小さく息を吐いた。


そんなに名前を捨てたかったかギンドゥダシェニサカヘリスガダグデバ、ヴィクトル」

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