第25話 シルフィウム(3/4)

 アーヴィンがチナーさんの家から戻ってくると、遠目からアロヴァヂェキの作業小屋の前に人が立っているのが見えた。


「おい、外に出るなって言っ……」


ファティマが無断で外に出たと思っていたアーヴィンは、振り返った人物に言葉を失う。


 午後の日差しを受けて輝くストロベリーブロンド。

その赤い色素の混じった美しい金髪は、肩甲骨のあたりまで下ろされ、ゆるく波打っている。

絹のように柔らかそうな練色ねりいろの肌。

形の良い眉を上げ、蠱惑的に見つめる茶色い瞳。

顔全体のバランスを印象付ける、美しい鼻すじ。


やっぱりここだったドゥヴァルトゥロスオルタ


声を上げて駆け寄ってきた人物は、子供のような笑顔を向けてくるが、彼女の艶めく薄紅の唇は、どのように微笑めば男が夢中になるのかを知っている。


「セシリア、なにしに来たんだワーコムドゥ


アーヴィンは疲れを滲ませた声で反応した。


「こっちに来てるんじゃないかと思って、逢いに来ちゃった」


セシリアは彼の左腕に両腕を絡ませた。


「シルフィウム採れたんだ?」


「ああ……、なんとかな」


 アーヴィンは彼女の腕をゆっくり剥がすと、右腕で抱えていたシルフィウムの束を両手で抱え直す。

入り口の前に置いてあった水甕みずがめを覗き、溜めた雨水の分量を確認した後、小屋に入って行く。

セシリアはニコニコしながら、彼の後ろに続いて入ってきた。


セシリアの態度にアーヴィンはため息をつきながらも、追い出すことはしなかった。

彼女がこの小屋を訪れるのは初めてではない。

以前にもアーヴィンの仕事を『偵察』と称して遊びに来ていた。


「『エィヤ』には報告してるの?」


小屋の奥から木桶を持ってきたアーヴィンは、水甕に溜まった雨水を汲み取る。


「してるさ。だがこれ以上種を持ち帰ったところで、無駄だからな」


「やっぱり栽培はまだ無理なのね」


「そうだ」


アーヴィンは、採ってきたシルフィウムの根を、水の張った桶に浸けると、土と黒い表皮を剥ぎ取るため、たわしで擦り始める。


「……ねえ、それってどんな効果があるの?」


作業するアーヴィンを見下ろしながら、セシリアが聞く。


「秘密」


ケチスノーレ


「自分で調べろ」


「いいもん、知ってるから」


アーヴィンは外部の人間はおろか、クリスに対しても、作業小屋に入るのは禁止している。

セシリアの見学を許すのは『同業者』だからだ。


「なら、聞かなくていいだろ」


「アーヴィンの口から聞きたかっただけよ。勉強熱心だから」


「『エィヤ』への貢献だけじゃ、食っていけないんだよ」


「クリスがいるから」


「そうだ」


「……父親みたいなことして……」


セシリアの言葉に、アーヴィンは一瞬手を止めて顔をしかめたが、発言を無視して作業を続けた。


「怒った?」


「別に。俺の子じゃないのは事実だ。あいつだって俺に父親役を求めてない」


「怒らせたかったわけじゃないのよ。……ただ、アーヴィンはクラウスさんみたいに、なるつもりなのかなって」


「クリスには教えてない。『島』の仕事を引き継がせるつもりはない」


「そうなの? 私たちの仕事って、悪くないと思うけど」


「短期間で居住区が変わることに、ストレスを感じなければな」


「文句言わずについてきてるみたいだし、向いてるんじゃない?」


*


 二人が話している『エィヤ』とは、戦争、内紛、自然災害といった危機的状況や、設備の故障や管理ミスといった危険から、多様な生物の遺伝情報を保護するための遺伝子銀行ジーンバンクを行っている施設だ。


世界崩壊の前から『しゅの保存』を目的に、一般人や国の政府機関も関与できない孤島に設立されていたため『エィヤ』と略称されている。


施設内には主食となる穀物を中心に、あらゆる植物の種が世界中から集められ、保管されていた。


 世界崩壊後、世界的に不足した食糧供給に対応するため、保管していた穀物の種を開放し、農耕促進のために『島』の人間たちが動き出した。


 しかし噴煙により広がった火山灰や、気温の低下、度重なる戦争と紛争により土壌汚染の拡がった地域もあり、従来の穀物で安定的な農耕が継続できる土地が少なく、すぐに食糧問題が解決できる状況ではなかった。

『島』の専門家たちは各地に調査員を送り、現地の植生・生態系の調査を開始する。

崩壊後も生き延びた植物や、新種の植物の採取と解析を継続的に行うことで、創世世界に適応する新たな穀物の研究と改良に力を入れ始めた。


『島』から派遣される調査員たちは、種を集める習性を持つありになぞらえ『ミュルミドン蟻たちミュルミドネス)』と呼ばれている。


*


 アーヴィンとセシリアは、各地の植物採取と植生の調査を生業なりわいにしている同志だ。

アーヴィンは数年前にクラウスさんから手ほどきを受け、現在も仕事を引き継いでいる最中だが、『島』で得た知識を利用して、薬草の栽培と薬の調合などを密かに行っている。



根っこを洗う手を止めると、アーヴィンは低く呟く。


「……猫を」


「なに?」


「あいつ、猫を飼いたいと言い出した」


「なにそれっ! 可愛いっ」


セシリアは声を立てて笑う。


「生き物を飼いたいってことは、定住できる生活をしたいってことじゃないのか」


「まだ子供だから、そこまで深く考えてないわよ」


「猫なんて。家に懐く生き物だぞ。移動する人間には無理だ」


「猫以外なら問題ないでしょ。犬とか」


「よくは知らんが、生き物を飼いながら旅するなんて、ありえないだろ」


「カナリアとか連れてる人いたじゃん」


「あれは鉱山に入るからだよ」


 ミュルミドンの中には、廃鉱山などに自生する苔や菌類を見つけて採取する人間もいる。

廃坑とはいえ、有毒なガスが溜まっている場合もあるので、毒に敏感なカナリアを持って行き、毒ガスの検知をさせて身の安全を確保するのだ。


「鷹とか、鳩とか」


「鳥類ばかりだな。伝書鳩でんしょばと程度で気が済むならいいが」


「変なとこ気に掛けるのね」


「……」


セシリアに指摘され、アーヴィンは黙り込む。


――確かにそうだ、気にするところがおかしいか。



 根から土と黒い皮が取れると、葉を除き、飲料用に蒸留した水で全体をすすぐ。

すすぎ終わった株を軽く振り、水気を払うと、茎と根の境目を山菜用の小型ナイフで切り分ける。


 根と茎を分けて微塵にした後、体の正面に対して縦長に置いた薬研やげん(中央の溝が V 字形に窪んでいる舟形の乳鉢にゅうばち)の中に少量の材料を入れる。


薬研車やげんぐるま(円盤形のき石の中央に持ち手を通し、車軸の往復により乳棒にゅうぼうの役割をする)の軸を両手で握り、前屈姿勢で体重をかけながら前後に往復させ、汁を絞り出す。

材料をゆっくり磨り潰すことで、熱による成分の変質を防ぎ、液の抽出ができる。


生のニンニクを潰した時に近い、鼻を突く独特な刺激臭が小屋全体に拡がる。

生のシルフィウムの香りだけ嗅げば、とても食べれるものとは思えない。


 シルフィウムの液汁には、茎と根からの二種類がある。

それぞれ『茎の液カウリアス』と『根の液リジアス』と呼ばれ、茎の液カウリアスは採れる量は多いが腐敗しやすい。

根の液リジアスは採れる量は少ないが、三十種類近い二次代謝産物にじたいしゃさんぶつが含まれ、長期保存が可能なため、茎の液カウリアスより価値が高い。


 抽出した液汁を蓋のある陶器の器に入れ、粗粉ブラン(大麦のぬか、ふすま)と混ぜた後、時々掻きまわして熟成させる。

掻き混ぜを忘れると腐敗してしまうので、一日一回かき回すのが理想だ。

この方法により、長期保存が可能になる。

熟成の目安は、糠の表面に汗をかかなくなるぐらいで、色と乾き具合で判断するしかなかった。



「実際のところ、この液体ってどれだけ効果があるの?」


「過去の文献と『島』の出した成分解析から、摂取目安を決めている。容量さえ守れば効果は確かだ」


 シルフィウムの液は咳、喉の痛み、消化不良、イボ、ヘビに噛まれた時の解毒、癇癪かんしゃくの発作を鎮めるのに効果がある。

野良犬に噛まれた場合、患部にすりこむだけで治療でき、あらゆる病気に効く万能薬だと言われるが、虫歯であいた穴にだけは塗ってはいけない。

シルフィウムが発する独特な匂いに含まれる化合物の多くは、抗がん作用、炎症を抑える効果があると伝えられている。


「高価なものだと聞いてたけど、アーヴィンは試してないの?」


「……俺が飲んだところで意味ないからな」


 シルフィウムの最大の薬効は、媚薬(催淫)と避妊を兼ねそろえていることだ。


 避妊・堕胎したい女性は、液汁を混ぜて熟成させたブランをヒヨコ豆一粒分(大豆より一回りほど大きい)の量を摂取すれば、たちまち効果を発揮する。

古代ではこの経口避妊のほかに、シルフィウムの汁に浸した羊毛の房を、膣に挿入する避妊方法もあった。


 旧世界時代では、ネズミを使った動物実験が行われ、繁殖能力を著しく減らすことが判明している。

流産の危険性があるため、当時の医師は、妊婦にこの植物を避けるようアドバイスすることが多かった。


「ふぅン。まだ自分じゃ試してないんだ?」


「そんな切羽詰まった状況に身を置かない」


「そっかそっか……」


 セシリアは頷きながらアーヴィンの手元の薬研を覗き込む。

擦り潰された茎の残渣ざんさから滲み出る液汁に、彼女は小指の先を浸け、ぱくりと口に含んだ。


「あっ! おいっ!!」


金属同士を擦り合わせて口に入れた時に感じる硬質な苦味と、カメムシのような青臭さがセシリアの口腔に拡がる。

彼女は盛大に顔を歪めた。


非加熱で搾りたてのシルフィウムの液汁など、口にするもんじゃない、とアーヴィンは苦笑いする。


「これって口にしてから何時間後に効くの?」


口の苦みを消すため、喉を鳴らして蒸留水を飲んだ彼女が、悪びれる様子もなくアーヴィンに聞く。


「正確な時間は知らんが、消化器官に入ってから体内に吸収されるまでを考えると、三十分もあれば……」


腹を下すぞ、とアーヴィンが言い終わることはなかった。


「んムッ!?」


セシリアの両手が素早く彼の頭を掴み、強引に唇を重ねたからだ。

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