第24話 シルフィウム(2/4)
「……
チナーさんの家の勝手口は、扉の立てつけが悪いのか、ギシギシと不穏な音を立てて開く。
「まぁ、アーヴィンさん! お元気そう!」
腰まである豊かな黒髪に、柔らかな丸みのある額。
小指の先ほどの太さの黒眉に、切れ長の黒い瞳。
少し高めの鷲鼻に、ふっくらとして肉厚な唇。
その容貌からは意思の強さを感じさせる。
歳の頃は三十半ば、チナーさんとは十歳ほど歳の差がある。
「このたびは、その、飯を頂いてしまって」
アーヴィンはありがたいと思うものの、返礼を考えると素直に嬉しいと思えない自分を恥じる。
「どう? 美味しかったかしら?」
「
気持ちの重さから、歯に何かが詰まったような言い方になってしまう。
「よかったわぁ。クリスちゃんがあの小屋の前にいたから、そろそろアーヴィンさんがくるのかと思って。男二人じゃ何かと大変でしょう……?」
「ええ、まあ。なんとかやっております」
アーヴィンがクリスを連れていると『子供のために』と、夫人は心配りを示してくる。
クリスは子供だから『嬉しい! ありがとう!』と素直に受け入れる。
そのように、他者からの善意や施しを素直に受け入れられる人間には、好意が集まりやすい。
しかし大人であるアーヴィンは、その施しの裏の真意やら、意図を汲み取らなければ、と頭を巡らせてしまう。
本当に親切からの施しだったとしても、いつかお礼をしなければ、と心の
「ちょうど作りたかったんだけど、ああいうのはたくさん作らないと美味しくできないし。……うちでは食べきれなかったから」
夫人は『ちょうど作りたかった』と言うが、
この家は山羊と鶏を飼っている。
他の家には羊もいるが、この辺りの気候では牛の飼育は難しい。
わざわざ街に出て肉を仕入れなければ、牛の料理は作れない。
「はぁ……。もう、なんと言っていいか……」
明らかに手の込んだ料理に、どう返礼していいのか余計に頭を悩ませてしまう。
「水臭い……」
貼り付けたような笑顔で対応するアーヴィンに、夫人はすっと近寄ると、意味ありげに左の二の腕に手を添えてきた。
「アーヴィンさんが来てくれると、こっちも張り合いがでて、嬉しくなっちゃうのよ……」
アーヴィンのような
それが若い男となると、未婚の娘はもとより、既婚の女も関心を向けてくる。
「あなたも大変ね。……そんな若いのに、一人で子供抱えて」
「はは……」
「もう、いい人なんかいるのかしら……?」
アーヴィンの顔色を探るように、彼女は踏み込んだことを聞いてきた。
その表情は、あくまで気の
「いやぁ、さっぱりですよ」
「あなたみたいな男前、若い娘がほっとかないと思うわぁ」
どこの土地にもいるが『世話好きの女性』というのは、押し売りに近い好意を示して、近寄ってくる。
「いやいや。本当に、俺なんてそんな感じじゃないんで」
「よかったらクリスちゃん連れて家にいらっしゃいよ。ご飯いっぱい作ってあげるわ」
「いや、そんなご厄介になるわけには……」
「いいのよぅ。ここじゃ若い人なんて全然いないんだから……それに」
彼女はずいっと距離を縮めて、アーヴィンの前に立つ。
顔と顔が近づき、彼は目を泳がせる。
「私もアーヴィンさんの顔が見れると……嬉しいのよ……」
『気のいい世話好きのおばさん』の姿は、若い男への興味・関心を、巧妙に隠しているだけだ。
「……奥さん……」
アーヴィン自身は年上の女が好きだし、人妻も嫌いではない。
「ふふ、ほんと……いい男……」
夫人は意味ありげにアーヴィンの瞳を見つめると、彼の胸に右手を添わせた。
――そうらきた。やっぱりか
アーヴィンは笑顔を作る表情筋を維持したまま、内心うんざりした。
妙齢の女性は世間体を何よりも気にする。
異性への性的関心を隠すのは、男よりはるかにうまい。
無償の好意など存在しない。
人は、なんらかの見返りを求めて、他者に親切を
男女ともによくある状況で、アーヴィンも下心ありきで他人に親切を施したことが、ないわけではない。
彼自身、今まで他者に求められれば、先の利益のために相手の欲求に応えることはあった。
『男は好きじゃなくても女を抱ける』とよく言うが、それは間違いだ。
正確には『性的魅力を感じれば、抱ける』だ。
性に好きも嫌いもない。
そして今も、不可能では、ない。
――彼女がチナーさんの妻でなければ。
「……あの……」
人の
――こんなことで優良な仕事相手と縁が切れるのは、ごめんだ。
ここではっきり断れば、彼女の
後で
彼女の
「ね……主人には……内緒……」
彼女が期待のまなざしでアーヴィンを見上げる。
アーヴィンは真剣な面持ちで、夫人の顔を見つめる。
彼女の乱れた前髪をゆっくりなぞり、丁寧に左耳にかける。
そのまま顎を包むように、頬に右手を添える。
夫人はうっとりと目を閉じた。
――あまり気は進まないが
好意の返礼。
家族や親類でもない年下の男の世話を焼きたがる女性は、旦那や家族以外の精神の拠り所を求めている場合がある。
目の前の女は、旦那との膿んだ日常から、少しばかりの息抜きを求めているだけだろう。
――適当に済ませるには……
どうやったら、角を立てずにやり過ごせるか。
彼女の期待にどこまで応えたら、開放してもらえるのだろう。
屈んだアーヴィンの前髪の毛先が滑り落ち、彼女の額や頬に幾筋かがさらりと触れる。
それを受けた彼女の瞼が、わずかに震えた。
目を閉じて口づけを期待する夫人の顔を、冷静に眺めながら、アーヴィンは静かに顔を寄せる。
どんっ
ぅあおうぅぉおおお――
勝手口の木戸に何かが当たった音と、悲鳴に近い嬌声が響いた。
外の騒音に驚いたアーヴィンが、弾かれたように身体を離す。
雰囲気を壊され、あからさまに不満げに眉を寄せる夫人を横目に、彼は急いで勝手口を開ける。
扉の外は、庭でくつろいでいた猫たちがじゃれ合いながら、激しくもつれ合っていた。
チナーさんに見られてないだろうか、と不安になるアーヴィンの横で、夫人があっけらかんと言う。
「心配しないで。あの人はいないわ」
彼女の言葉に怪訝な視線を投げるアーヴィンに、彼女は構わず続ける。
「たとえ見ても、何も言わないわ」
『――
なげやりな表情を見せた夫人の様子が、過去の女と重なる。
夫人は彼の顔を見上げると口の端を上げる。
再び甘い雰囲気を出そうと右腕に絡んできたが、彼は思わず目を背けた。
彼女は初婚で、チナーさんにとっては二人目の妻だと聞いたことがある。
結婚して十年近くなるそうだが、二人の間に子供はいない。
夫人がアーヴィンに声を掛けるのは、若くて見た目がいい男である以上に、村のよそ者で後腐れのない相手だと認識しているからだろう。
その行動は、冷めきった夫婦関係の延命処置としてなのか。
先の見えない夫婦生活の、わずかな愉しみを求めてなのか。
――夫婦のことは当人にしかわからない。
「奥さん、
アーヴィンは甘い笑顔を浮かべると、シルフィウムの束を抱え、逃げるように家を離れた。
――
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