第23話 シルフィウム(1/4)

 青磁器のように柔らかい空色ギョクマーヴィシに、薄い綿のような雲が散り散りに浮かんでいる。

上空に吹く強い風はそれらの形を変え、押し流されたいくつかは太陽の前を通過すると、初夏の日差しをわずかに和らげた。


 アーヴィンの歩いている道は、砂利の多い黄土色の砂地だ。

周囲を囲む山はなだらかで、背の低い雑草に覆われた斜面は、若草色より濃い緑で彩られていた。

道の端に点在する家は、どれも赤い瓦屋根に白い漆喰の壁に色が統一され、牧歌的な風景が心を和ませる。


 アロヴァヂェキの作業小屋から、一時間弱の場所にあるマンジュリクに、チナーさんの家がある。

彼の家も赤い屋根に白壁だが、窓枠が緑で縁取られているので、わかりやすい。


 玄関前の石畳、通用口左横に、細長い木の枝を何重にも積み重ねた囲いができていた。

この家は山羊や鶏の飼育で生計を立てているが、家から離れた飼育小屋にいるので、動物用ではない。

囲いの中には、菜の花に似た背の高い植物が青く生い茂っていた。

それを見たアーヴィンは、思わず顔を綻ばせる。


 正面玄関の右側、南向きの庭には三匹の猫が寝そべっている。

飼い猫か野良猫なのかは、検討もつかない。

この国は猫を可愛がる人が多く、道の真ん中で腹を出してる猫を見ると、人のほうが避ける場面を目にするからだ。


 玄関横にめぐらされた雨樋あまどいのそばに、アーヴィンの顎の高さほどの鉄の棒が、地面に刺さっている。

棒の先から庭の最奥に向かって、対角線状に物干しロープが張られ、干されていた敷布シーツが風に煽られる。

大きくはためく敷布シーツの向こうに、伏せた木箱に腰を掛ける中年男性が見えた。

アーヴィンの眼が彼の姿を捉えると、正面に向かって歩いていく。


こんにちはメルハバチナーさんバイチナー


声を掛けられた中年男性は、正面に立ったアーヴィンの顔を見ると笑顔を見せた。


「ああ、アーヴィンさんじゃないかセンアルヴィンミシン来ちょったかアヤーヌザサールク


男性は頭の上に小さく平たい帽子を載せ、顔は日に焼けて浅黒く、目尻や口元には深い皺が刻まれている。


「ええ、お元気そうでよかった」


「あんたぁ、相変わらずわっかかねえ。わしなんて最近は腰がいとぅて。もう歳かえなぁ」


穏やかな口調でゆったりと話す姿から、五十後半に見えるが、実際は四十半ばである。


「何をおっしゃられます。表の柵、見ましたよ。あんなに整備してくださって。ありがとうございますエメイニゼサールク


「いんやいんや、もう、ああでもせんと。うっちの山羊が食っちまうけんねぇ。……今年も何とか芽吹いちょうが」


そう言うと、彼は肩回りの筋肉をほぐすように、ゆっくりと首を回した。


チナーさん家の横に生い茂る植物は『シルフィウム』と呼ばれている。


*


 シルフィウムは旧世界より古代にアフリカの北海岸、流砂地域に自生する『ラセルピキウム』と呼ばれる薬草だった。


 地中に太い根を張り巡らせ、ウイキョウのような太い茎を持ち、秋頃には菜の花のような小さくて黄色い集合花が咲く。

葉っぱがハートの形をしていて、アピウム(パセリ、セロリの類)に似ていたため『マスペトゥム』とも呼ばれていた。


 古代では料理の調味料として人気があり、薬効も抜群だったため、人々は見つけ次第、大量に採取して高値で売買された。

 そのように乱獲され続けた結果、シルフィウムは原生地から姿を消し、未開の土地へ後退していく。

年々、採取が難しくなってきたことに気付いた当時の為政者いせいしゃが、乱獲を禁止する事態にもなった。


春先に種が落ちるので、その種を採取して栽培を試みる人間も多かったが、人の手による実生みしょうはことごとく失敗した。


シルフィウムは姿を消し、幻の植物となっていた。


 その後、崩壊直前の旧世界で、アナトリア半島のカッパドキア地区にて新種の植物が発見される。

ハッサン山の麓で採取されたその植物は、成分分析した結果、古代に絶滅したとされた『シルフィウム』であったことが判明した。


幻とされたシルフィウムは三千年もの間、アナトリア半島の山間部でわずかに自生していたのだ。


*


「あんたぁ、あれ必要だって言ぅちょったけんね」


 チナーさんはそう言うと、顔の前でしきりに手を振り、顔中の皺を集めたようにくしゃっとさせて笑った。

朴訥ぼくとつとした口調から、人の好さが滲み出ている。

交わす言葉は少ないが、彼と話すと心が軽くなる。


 数年前、偶然この家の前を通りかかったアーヴィンが、珍しい植物だと調べてみたところ、崩壊前に記録されていたシルフィウムの特徴と一致した。

家主のチナーさんに協力を求め、少量だが、確実に採取できるよう、野生のシルフィウムの育つ場所を管理してもらっていた。


 チナーさんたち地元の人間にとっては、よく見る雑草くらいの認識で、食べても腹を下すので、口にすることもなかった。

しかし飼っている山羊や羊を放すと、積極的に食べてしまうので、アーヴィンから話を持ち掛けられて以降、チナーさんは囲いを作ってくれたのだ。


「恐れ入ります。また今年の管理費お支払いしますので、今後ともよろしくお願いします」


「ありがたかねぇ。うちも家畜の収入だけじゃ難しいけん。あんたから管理費もろうて、助かっとるけん。こじゃんと取ってらせ」


では、またギョルッシュルズ


 アーヴィンはチナーさんへの挨拶を済ませると、囲いの中へ向かう。


 シルフィウムは茎を傷つけると、乳白色の樹液がこぼれてしまう。

傷つけられた茎からは、辛みのある樹液がにじみ、ニンニクやドリアンに似た強烈な臭気を発生させる。

古代の人はこの臭気を『悪魔の糞(Devil's dung)』と呼んでいたらしい。


採取する際は地中の根ごと、深く掘り起こさなければならない。


ハーブや香辛料として料理に使われていた時は、茎は火で炙り、根は酢漬けで食べられていた。

油で加熱すると強烈な臭いは消え、タマネギのような風味となり大変美味しくなる。

そのためシルフィウムの樹液は『レーザー』と呼ばれ、料理にかけて使われた。


葉が落ちた後の茎は、煮ても焼いても食べられる。

あらゆる方法で調理して食べられたが、食べ始めの最初の四十日間は下痢を起こす。

シルフィウムを食べるには、食べる側の馴れの期間が必要とされた。


家畜についても、餌として与えると喜んで食べるが、人と同じように馴れない間は下痢を起こす。

シルフィウムの消化に身体が馴染んでくると、その家畜は肥立ちが良くなり、肉の味も格段に美味しくなったそうだ。



 アーヴィンは十株ほど根元から掘り起こしたところで、作業を中断する。

今年は生長したが、あまりたくさん採ってしまうと、来年からの分がなくなってしまう恐れがある。

シルフィウムは採取してから根と茎を別々に処理し、単離・精製するのだが、鮮度が大切だ。

今日採ったものは今日中に精製したい。


 作業小屋に帰る前に、今朝食べた肉詰めドルマのお裾分けの礼を言わなければ、とアーヴィンは思い出す。


アーヴィンからすれば、チナーさんがシルフィウムの管理をしてくれるだけで十分だが、この国の人は隣近所へのお裾分けが普通に行われているので、無下に断れば失礼に当たる。


 お裾分けされた側は渡された皿に、別の返礼品を載せて訪ねるのが礼儀であるが、生憎、アーヴィンもクリスも他人様ひとさまに出せるような立派な手料理は作れない。

仕事でこの家に来ることは予定していたことなので、避けて通ることはできない。

気は重いが、返礼の品は後日改めてすることにして、口頭での礼だけはしておこう、と思ったのだ。


アーヴィンは正面玄関ではなく、裏の勝手口かってぐち(台所への出入口)にまわった。

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