第22話 ロートパゴス(4/4)

「半径一パスティカ3mで起こる不幸と享楽きょうらくに、身をゆだねるしかできないんだよ。末端の民衆は」


改めて入れた熱い紅茶チャイに口を付け、一気に飲み干すと、アーヴィンは深く息を吐いた。


「そんな風に言わなくてもいいじゃないですか!」


横でハラハラしながら見ていたクリスが、アーヴィンの物言いに我慢できずに口を挟んだ。


「庶民の本音と実態だ。お姫さんにはこんな意見を聞くことも金輪際こんりんざいないだろうから、いい機会だろう」


「そんな、八つ当たりするみたいな批評はフェアじゃないですよデェニネディケオ


「もともとフェアじゃないミディケイだろ。人間は生まれた場所が違うだけで、選択できる将来の自由度も違う」


「それを言ったら、ファティマだって好きで王族に生まれてきたわけじゃないです! 生まれてから今まで、外に出られなかったし、結婚相手だって好きに選べない。庶民よりも不自由です」


アーヴィンは空になったグラスの底を眺め、意味ありげに片眉を上げると、横で息巻く少年に冷たい視線を投げた。


「……クリス、飼い猫は幸せだろうか?」


「なんですか、いきなり」


突然猫の話を出され、少年は顔をしかめた。


「お前はその猫を飼いたいと言ったな。見た目の可愛さに加え、お前によく擦り寄ってる」


クリスにまとわりついていた猫は、ずいぶん前から竈の焚口たきぐち(薪を入れる口)の前に移動し、優雅に暖を取っていた。


「その猫が本気でお前を必要として、この場にいると思うか」


「猫の考えは、僕にはわかりません」


「そいつはお前に会う前はどうやって生きてきたかな。野良猫だったとしても、まったくの自力で生きてきたわけじゃなく、どこかで誰かから餌を恵まれてきただろう」


「そうでしょうね」


「お前の飼い猫になれば、当面の寝床と餌の心配はないだろう。……お前がその猫を大切に扱う限りは」


「飼うなら大切にするのは当然ですよ!」


「それは今のお前に、猫を可愛いと思える余裕があるからだ」


「どういうことですか」


「世間には住むとこも、食うことも満足にできない人間がわんさかいる。そんな立場では、自分以外の生き物の面倒を見る余裕はない。……それどころか、鬱憤晴らしに飼い殺して楽しむ奴もでてくる」


「……そういう人もいるでしょうね」


「そんな奴に飼われるくらいなら、野良猫として生きていた方がマシだと思うだろう。庶民も同じだ。国を動かす一握りの人間の事情で、生活の質が左右されるんだ」


「……」


「俺たちの生活は、安定してるか? 食い物は? 明日、俺がいなくなったらどうなる。一人取り残されたお前は、街角に立って不本意な目に遭いながら、食い物の確保に追われるだろう。その時に、猫の世話までは保証できないだろ」


「……わかってます」


「たとえ今後、俺たちが一攫千金を手にしたとしても、安定した生活が保障されることはない。自分以外の命を大切に思える気持ちは、衣食住が確保できている余裕の証だ」


クリスは黙って俯いた。

悔しさと不甲斐なさから歪んだ顔を、アーヴィンに見られたくなかったのだろう。


「他人の立場に立って、ものを考えようとするお前は立派だ。だが俺たちの生活は、猫一匹の命すら保証できない。そこのお姫さまとは、負わされてる現実が違う」


――いやらしい大人のやり口だ。


 生活のためとはいえ、十歳に満たない子供に対して、論点をずらして責める自分のいやらしさに、アーヴィンも後味が悪くなった。

正面で見ているファティマは、口を半開きにして二人の様子を見ているしかなかった。

もし彼女が彼らの会話に口を挟もうとしていたら、アーヴィンは手厳しく追い詰めていた。


「……ところで、この飯は誰からの頂き物だ?」


 朝から牛挽き肉の肉詰めドルマとは、手が込み過ぎている。

クリスは家事をよくやるが、手の込んだ料理を朝から出せるほど、料理にこだわりのある子ではない。

どこかで大人の助けを得るか、店で買ってこなければ、凝った料理は出せない。


「チナーさんとこの奥さんが、多く作り過ぎたからって、おすそ分けしてくれました」


涙を零さぬよう、喉の震えを押し殺した声でクリスが答えた。


「そうか。だったらお礼も兼ねて、俺が挨拶に行く」


「はい」


冷めきってしまった残りの肉詰めドルマは、夕飯のスープに放り込めば、また美味しく食べられる、と伝えると、


「俺のいない間に誰か訪ねて来ても、家には入れるな。……特にファティマを人目に晒すのは、避けろ」


と言って、下を向くクリスの頭を、少し荒めにくしゃくしゃと撫でつけた。

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