第9話 マグリブの女(2/4)
「なあ、どこが一番売れると思う?」
食卓の上に地中海沿岸の地図を広げたアーヴィンは、
彼らのいる場所はエーゲ海の北に浮かぶ島、レムノス島。
領土はセルダニアだが、島の位置はリクラフルスのあるアナトリア半島に近い。
その島の中南部、マウドロス湾の東岸にある港町ヘスティアは、町と言うより漁村と言った方が適切に思われるくらい、静かで小さな町だ。
湾を見下ろす山の斜面には、古くから住む島民たちの白壁の家がぽつぽつ見える。
その民家の一つに、現在アーヴィン達が寝食する拠点がある。
「
広げられた地図の端に、少年はできたばかりの食事を置いていく。
フレッシュチーズとスライスしたオリーブを添えたパン。
今朝の市場で仕入れた
軽く湯通しして酢漬けにした
「……かと言ってセルダニアの奴隷市で売れば、横取りされた
手際よく整えられていく食卓を見て、アーヴィンは広げたばかりの地図を端から丸めて空いた席に置いた。
彼は地図を見せながら話そうと思っていたが、少年は地図がなくても会話が成立することを証明したいのか、淀みなく周辺国の名を口にする。
「おう」
アーヴィンは食事を並べる少年――クリスの意見に耳を傾けた。
目の前の少年は乳白色のきれいな肌に、くるんとした栗色の巻き毛が特徴的だ。
実際の髪の長さは襟足を隠すまで長いが、毛の癖が強く巻き上がり、耳もおでこも襟足も見える。
賢そうによく動く大きな茶色い瞳が、なんとも愛くるしい。
控えめに摘まんだような小さな鼻には、赤い斑点が薄く広がっている。
ぷっくりした小さな口元に、薔薇色の頬。
健康な子供の特徴だ。
「っ……と、そっちのお皿取ってください」
クリスは食器棚の一番高い段を指した。
アーヴィンは立ちあがり、自分の顔の高さにある深皿を一つとった。
「俺がいないと使えないな」
手渡しながらアーヴィンがニヤリと笑う。
「ひとりの時は椅子を使いますけど。いいでしょ、アーヴィンさんがいるなら取ってもらった方が早いです」
クリスは小さな頬をぷくっと膨らませた。
アーヴィンはからかいついでにその頬を指で突つき、さらにクリスをむくれさせた。
クリスの身長は
まだ十歳にも満たないので、小さいのは当然だが、大人に交じって話を聞く機会が多かったせいで、大人のような言い回しが身についてしまっている。
アーヴィンは少年の子供らしい姿を見たくて、ついからかってしまう。
「売り先の候補ですけど。ボルニア皇国、リクラフルス、イージェプタ共和国……あとは、カルティールですが」
地中海沿岸諸国をすらすらと口にするクリス。
十歳に満たない子供が、外の世界をここまで暗記できればまずまずだと、アーヴィンは密かに感心した。
「本当か知らんが
イージェプタは地中海
王族は存在してないが、海運業で富を極めた豪商たちが集う商業
下手な商売をして目をつけられたら、今後の取引に関わる。
「ボルニア皇国は?」
クリスが聞く。
「あそこはジブラルタル海峡で、何度もタシトゥールと衝突してる。今は国交断絶だ。彼女の見た目と
タシトゥール王国のあるアフリカ大陸北部、
そこを拠点に活動する海賊たちは『バルバリア』と呼ばれている。
タシトゥール王国は
当然、皇国ボルニアは自国の海軍を総動員させて対策を打ったが、バルバリアのあまりの横暴に手を焼き、現在は海運の利用が激減していた。
「え? 奴隷商って一回売ったら終わりでしょ? 元を取るって、継続して関係を持つつもりですか?」
「売ってすぐに死なれたら、寝覚めが悪いだろ。こっちの」
「……はぁ」
なんだかよくわからないという顔で、クリスが相槌を打った。
「カルティールなんて問題外だ」
「なぜですか?」
「『カルティール』なんて便宜上の国名だ。あの国の周辺は大昔の聖地を取り合ったり、密集した多民族が土地所有の正当性を主張したりで、紛争が絶えん」
「あの辺りは『
「今のマシュリクは『日が昇る』なんてもんじゃない。いつ『火が上る』かわからない、
「アーヴィンさんは初めから、リクラフルス一択しか考えてなかったってことですね」
やれやれ、と少年は肩をすくませた。
「ボルニアとカルティールの言葉が話せるかは、聞いてなかったしな。高価な奴隷は現地の言葉が満足に通じることが条件だ」
一番重要なのは若さと見た目だが、とつけ加えると、アーヴィンは盛られたパンの一つを掴み、豪快に頬張った。
「彼女、語学が堪能そうですから、きっと高値で売れますね」
クリスは目の前の
ついでに酢漬けの
栄養バランスを考えて、クリスは食事に必ず酸っぱい野菜を入れる。
しっかり者の少年の味覚に、アーヴィンはついていけない。
「読み書きできれば、なおいいんだが」
王侯貴族などの上流階級や、商業・工業の
一か国でも文字の読み書きができるなら、良い人材である。
「特技とか、さり気なく聞き出さないと」
アーヴィンはチーズとオリーブだけを挟んだパンを食べ続け、クリスから寄こされた野菜の盛り合わせを押しのけた。
それを見たクリスは目を細めて「お子様味覚」と皮肉った。
クリスの言葉を聞き流したアーヴィンは、
「足りない薬代を埋めようと思ったが、埋め合わせどころか多めの臨時収入で少し余裕が持てそうだな!」
アーヴィンはそう言うと、木製の
気づいたクリスも、自分の
二人は小さく乾杯し、胸を躍らせた。
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