第8話 マグリブの女(1/4)

 正午ひる過ぎの強い日差しが瞼にかかり、目の中で赤い残照ざんしょうおどる。

眩しさで目を覚ました女は、見覚えのない部屋にいた。


 凹凸のある生成色エクルベージュの土壁に囲まれ、右の壁には丁子クローブ色の木の扉が見える。

彼女が横たわっている木製の簡易寝台ベッドと、そばの丸椅子以外には家具が見当たらず、簡素な部屋だった。

向かって左の壁に取り付けられた木枠の窓には、カーテンが無く、日の光が直接差し込んでいた。


 彼女はしばらく天井を見ていたが、寝台から上体を起こす。

窮屈な船室に押し込められていた時の、凝りと疲労感がだいぶとれていた。

揺れない場所で清潔なシーツに身を包めることが、身体の疲労を軽減させるとは、国を出るまでの彼女には想像もつかなかった。


 扉を隔てた向かいの部屋では食事の支度をしているのか、パンの香りが漂ってきた。

女の腹部がきゅぅうと鳴り、彼女は出航から何も口にしてないことを思い出す。

もう一度右の扉を見ると、少し開いた隙間から誰かが覗いていた。

覗いた側も女と視線がかち合って驚いたのか、隙間が閉まる。


 閉じられた扉の向こうから話す声が聞こえ、しばらくして男が入ってきた。


起きたかクシープニセス


白い麻の上着に、濃紺のトラウザーズを履いた男は、女の眼を見て東部セルダニア語ヘレニックで話しかけた。


 ゆるくうねる赤毛が首の後ろまで流れ、白い肌に映える彫刻のような高い鼻梁びりょう

見たものを石化させるような、迫力ある琥珀色こはくいろの瞳。

日光で明るくなった部屋の中、男のまとう鮮やかな色彩に女は目を奪われた。


赤毛の男――アーヴィンは寝台のそばに置かれた、背もたれのない木の椅子に腰を下ろした。


「服は換えさせてもらった」


ほうけていた女は、自分の着ている服が昨晩と違うことにはじめて気がついた。


「海水に浸かってべたべたに汚れていた。悪いが身体も拭かせてもらった」


「……ッ!」


女は途端に赤くなり、緑の瞳がアーヴィンを警戒する目つきで見る。


「濡れて汚れたままベッドに寝られるのは嫌だった。気を失ってる間に申し訳なかったが、意識のない女をどうこうするほど、困ってない」


彼は女と目を合わせず、少し面倒臭そうに答えた。

女はどんな顔をしていいのかわからず、恥じ入るように俯いた。

おずおずと上目遣いにアーヴィンを見つめる。


「……助けていただいて、ありがとうございます」


女は礼を言うものの、どこか納得していない口ぶりだった。

アーヴィンはそんな女の様子に構うことなく、口を開いた。


「髪を染めてたな。白髪はくはつだ」


 昨晩、海賊船から海に飛び込んだアーヴィンは、待機させていた小舟まで泳いだ。

抱えていた彼女は、舟に着いた時には気を失っていたが、気を失っただけでなく髪の色まで失っていた。

船上で見ていた豊かな黒髪は、根元から毛先まで色が抜け落ち、黒いところが見当たらない。

まるで生まれつきの色ではないかと思えるほど、見事な白髪だった。


 語学が堪能で若い女だと値踏みしたから、アーヴィンは連れてきた。

それなのに、女が白髪だったのは想定外で『騙された!』と仰天した。

本心では、その場で海に放り出したくなったが、辛うじて留まった。


「出航前に黒油くろあぶらで染めていた」


 『黒油』はよく使われる白髪染しらがぞめだ。

乾燥させた胡桃くるみの殻と柘榴ざくろ樹皮じゅひ真桑まぐわの根に炭化させた動物の骨などを合わせて粉末にし、油で煮詰めて髪に塗る。

即席で使うものなので、黒い色素が髪に定着せず色落ちしやすい。

 一般的な染髪せんぱつは、ミソハギ科のヘナ(ヘンナ)の葉を乾燥・粉末にしたものを湯に溶いて髪に塗る。

 ヘナだけだと白髪はオレンジ色にしか染まらないので、藍の色素をもつマメ科のインディゴ(ナンバンアイ)の葉を加え、二種類の色素のバランスで濃い茶色に染める。

その方法で染めていれば、海水に浸かっただけで色が落ちることはない。


「そんな白くなるほど、王室で苦労してたのか」


「……」


言い淀みうつむいてしまった白髪の女を、アーヴィンはじっと見つめた。


 日の光にかざすと白すぎて、金にすら見えそうだ。

しかし有色人種の特徴を見せる人間が、地の色が金髪ブロンドなのは見たことがない。


――前の持ち主の扱いが酷すぎたのだろうか。


やはり苦労の末の自然脱色か、とアーヴィンは一人合点する。


 若くて張りのある小麦肌。

細くて平行気味な眉に、うれいを帯びた緑の瞳。

すっと伸びた鼻筋と小鼻。

その下の小さく薄い桃色の唇の楚々そそとした感じなどは、少女のあどけなさすら感じる。


 肩まである豊かな毛髪が、総白髪そうしらがだったのには驚いたが、胸部の発育などから、たぶん二十は過ぎてる。

自分よりは若いだろう、とアーヴィンは判断した。


俯く女に、彼は本題を切り込むことにした。


「今、どう連絡を取ろうか、悩んでる」


「れんらく」


「ああ。タシトゥールに帰りたいんだろう?」


「……」


「帰りたくないのか?」


「……」


女は口の端を噛んで下ばかり見る。


「王室の関係者ってのは、口から出まかせだったか」


「ちがう! 嘘じゃない!」


女は出まかせと言われ、大きく顔を上げた。

アーヴィンの金眼と向き合うと、口の端に力がこもる。


「だったら、君から連絡を取りやすい伝手つてとかないのか?」


「ツテ?」


「話が通りやすい人ってこと」


「うん? ばあやとか……」


――『婆や』。いかにも上流階級のお嬢さんが言いそうなセリフを。

アーヴィンは目を細める。


「その婆やは、知らない外国人と普通に会って、話を聞いてくれるか?」


女がどこまで話すのか、アーヴィンは探るように優しく聞き返した。


「他の人と話してるところ、見たことない」


「そうか。そうだな……王宮の外で話してる姿を見たことないんだろうな」


 本当に伝手もなく王室と連絡が取れる庶民がいたら、それだけで只者ではなくなる。

大きすぎる女の嘘を、アーヴィンは可哀想な子を見る気持ちで受け流していた。


「まあいい。俺たちの方でも連絡を取れる人を探す。とりあえず今は休め。あとで飯持ってくる」


アーヴィンはそう言って、一度だけ彼女の背中に手を添えると、部屋を後にした。

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