第10話 マグリブの女(3/4)

「……彼女、驚くほど身の回りのことができませんよ。洗濯はおろか、渡した服の着方も知らなかった」


 目の前で湯気を上げるオクラとラム肉の煮物を取り分けながら、クリスはため息をついた。

ラム肉はフォークで刺すとホロホロと繊維が崩れるくらい柔らかい。

一緒に煮たオクラはさやの形を保っているが、白い種のプチプチした食感とトロトロの粘液は口の中で甘く広がると、同時に食べた羊肉を引き立ててくれる絶妙な組み合わせだ。


「飯を前にして、ため息つくなよ」


アーヴィンは煮込み皿からオクラを二莢ふたさやフォークで突き刺すと口に入れた。


 白髪の女を保護してから二日目の夕刻だった。

アーヴィンが彼女の身の回りの世話するより、少年だがしっかり者のクリスの方が女も安心するだろうと任せていた。


「王室の人間だなんて大見得おおみえ切った手前、王族らしく振舞ってるだけだろ」


――頭巾ヒジャブを付ける文化圏の女だ。異国の服装に関心なければ、着付けがわからんこともあるだろう。

クリスの話など想定内とばかりに、アーヴィンは欠伸あくびを噛み殺した。


食卓に片肘を立て、軽くあぶった地産のフレッシュチーズを右手で摘まみ口に入れた。


「もし本当に王女さまだったらどうするんですか?」


「ありえないだろ。夢見てんなよ」


舌の上で、じわりととろけるチーズの味が消えないうちに、アーヴィンは手前の木のカップを引き寄せる。

島の産物であるマスカットミュスカ葡萄酒テーブルワインは、辛口でありながら強いマスカットの風味がチーズとよく合うので気に入っている。

クリスはフォークで刺したオクラの莢を齧りながら、上目遣いにアーヴィンを見た。


「そうですけど。でも本当だったら、どうします?」


 身の回りのことが満足にできないというだけで、ある程度甘やかされた育ちだと思うこと自体は、間違いではない。

しかし実際に甘やかされたのか、特殊な役割をさせられてきたために日常生活と隔離されていたのかはわからない。


 共通語フスハーの読み書きは確認できたが、セルダニアとリクラフルスの識字はおぼつかなかった。

 会話についてもセルダニアの東西の言語は日常会話が可能だったが、リクラフルスの言葉に至っては、日常会話より少し劣り、簡単な挨拶や指示などを聞いてから理解するまで少し時間がかかることもわかった。


 つまり双方向の意思疎通が可能な言語はタシトゥール語トゥーニシャ西部セルダニア語ファリスカン東部セルダニア語ヘレニックまでだということだ。

どちらにしても、今のままの日常の雑事をこなすことができない状態だとリクラフルスで売るには、ただの奴隷になる。


「うーん……、セルダニア王室に売りつけるか?」


「それなら高額な身代金が吹っ掛けられますね」


「本物だったら、俺たちの首に縄絞められて終わる」


「……本物だから?」


「ああ。どちらにしても、どこの馬の骨とも知れん奴らの交渉に、王家が真面目に応じるわけがない」


王家の人間の誘拐と身代金の交渉なんて、考えただけでも骨が折れる。


「若さと見た目のごり押しで、娼館に売っぱらうか……?」


 人身売買も目的が異なれば値段が大きく跳ね上がる。

若い男も農奴のうどとして売るより、傭兵部隊ようへいぶたい奴隷身分の軍人マムルークとして仕えさせる方が、本人の資質さえ合えば立身出世の可能性もあり、価値も高くなる。


「ハハッ。……ところで、ここで呼ぶ時に『あの人』とか『彼女』と言うのはいいですが、本人に対して会話する時が少し面倒になってきました」


クリスの正直な感想に、アーヴィンは眉をひそめた。

直前まで口に入れていた羊肉から、爽やかで優しい酸味が、アーヴィンの口腔から鼻腔に抜ける。

くどくなりがちな肉料理に、未熟な葡萄一房を入れて大鍋で煮込む、島の伝統料理だ。

アーヴィンは充分な咀嚼そしゃくもなく、肉を喉の奥に流し込むと、姿勢を正してクリスの顔を見た。


「クリス。絶対に名前を聞くなよ」


今までの和やかな空気から一変し、険しい表情でクリスを諭す。


「え、どうしてですか」


いきなり真顔になるアーヴィンの様子にクリスは少し焦る。


「こちらからは絶対に名前を聞くな。聞いたら俺たちも名乗らないとおかしくなる。もし聞かれたら適当な偽名を言えよ」


アーヴィンの真剣な表情に飲まれ、クリスも息を呑む。


「向こうから名乗ってきても、極力名前で呼ぶな」


どんな理屈かと身を乗り出すクリス。

アーヴィンは空になったカップを置くと、目の前の開栓済みのボトルを手に取り、じかに口をつけた。


「家畜を売る時、名前があると売りにくい」


もっと重大な理由かと思っていたクリスは、なんだと肩透かしを食らった。


「彼女はすでに名前がありますよ。本人を前にして牛や馬みたいに扱えないですし」


クリスは真面目に反論した。

女に名前を付けるつもりはないが、このまま名無しとして相手するのが疲れたのだろう。


「そうじゃなくて。どんな名称でも名前を付けたり呼び合ったりしてると、その個体が特別に見えて愛着がわいてしまうものなんだ」


アーヴィンは真剣そのものだった。


「そんなこと。僕らは初めから彼女を売り飛ばす気で接してるから、問題ないですよ」


クリスは肩をすくめた。


「……甘いな。俺は昔、お前ぐらいのときに豚を仕入れたことがある」


「はあ」


「子豚だ。ベーコン用に肉屋に卸そうとしたが、目当ての肉屋が数日留守だったんでその間、手元に置いてたのさ」


なんだか長くなりそうな前置きだ、とクリスは身構えた。


「初日は納屋に入れてたが、一匹逃げ出してな。必死に探して、逃げないように家屋で常に見張るようにした。そしたらまあ、絨毯カーペットは噛むわ、寝台ベッド敷布シーツに漏らすわで」


拘束せずに家畜を家に上げたら当然なのでは、とクリスは思ったが黙って続きを聞く。


「肉屋と会う一週間後までは、子豚どもが風邪ひいて腹を下さないようだんを取らせてたし、餌の食いつきを良くするために香草の配合まで考えてた。脱走してもやつらの好む道を先回りしたしな」


「一緒に寝て、散歩までさせてたんですね。面倒見が良い」


「そうじゃない。手間暇かけてペットみたいに思えてしまったら、大変になるって言ってるんだ」


「そう……なんですね」


「これから食肉用に解体されることがわかってるのに、肉屋に引き渡すんだぞ」


話してて思い出したのか、アーヴィンの顔が歪む。

愛着を持つのは人によるのでは、とクリスは首をかしげた。


「アーヴィンさん、割り切っていきましょうよ」


つまり売り物らしく接しろということでしょう、とクリスはたたみかけようとする。


「だから、いま俺はプロとしての心構えをお前に説いてるんだ」


何年前の話か知らないが、今でもその苦しみを覚えているとは厄介な性質たちだな、とクリスはアーヴィンに呆れた。


「……その豚、ちゃんと売りましたよね?」


当時の記憶を思い出して少し落ち気味になったアーヴィンに、クリスは話のめをうながした。


「愚問だ。そういうことだから、名前は聞くな。呼ぶな」


 そう言ってアーヴィンは持っていたボトルに口を付けると、残りの液体を飲み干した。

この人だいぶ酔ってる、とクリスはため息をついた。

今後食事に出す葡萄酒には、前もって水を混ぜておくことを密かに決めた。

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