5. 暑い図書室と熱い吹奏楽コンクールと 後編
藤枝先生は職員室で仕事をしていた。
(名残惜しいが顔に出ないようポーカーフェイスで)私は上着を藤枝先生に返した。
「あら、清永さん。何かご用……あら。それは私の上着! 図書室に忘れていったのね……。届けてくれてありがとうね。」
藤枝先生に感謝されて、私は嬉しくてにやけてしまう。やっぱり可愛い先生だ。
「……あら。わざわざ届けに来てくれたの? 何かご用はあったかしら?」
危ない。藤枝先生に上着を渡してルンルンで帰るところだった。本題がすっかり飛んでいくところだった。
「あ。そうでした。ええと、まず資料を探したいので図書室に来ていただけますか? 借りたいので手続きもお願いします。吹奏楽部として借りるのでそのような手続きでお願いします。これ、部としてのカードです。」
この学校の図書室では部活動として本を借りることが出来る。私が今から使うのはそのための貸し出しカードだ。ちなみに生徒個人で借りるときは生徒手帳のバーコードを用いる。
「わかったわ。ついでに貴女の上着も取りに行きましょう。たぶん私と同じで図書室が暑いから脱いでそのまま忘れたのでしょう。経費削減で利用者がほとんどいない放課後は冷房つけてもらえなくなって、余計利用者が減った上に、私も正直あそこで作業したくないのよね……。図書室は好きなのに……。」
「あ。」
私はようやく自分が上着を着ていないことに気づいた。
「あー。しまった。上着忘れた。校則もですけど吹奏楽部としての掟で服装乱しては駄目で、ベストかブレザーか着てなきゃ駄目なんですよ。ベストも暑いからこっそり脱いじゃったし……。まずい。あわわ、早く回収しなきゃ。早く夏服着たい……。」
「貴女達も大変ね……。じゃあ早く図書室に行きましょう。貴女達、コンクール前でたくさん練習したいのでしょう?」
「よくご存じで。すみませんがよろしくお願いします!」
私と藤枝先生は職員室から図書室に向かって歩いている。職員室から図書室は棟が違うため多少距離はある。(上着の件があるから早く図書室に着きたいとはいえ)私は先生と長く一緒に歩けて嬉しいが、職員室と図書室を往復する先生は大変そうである。
「お手数おかけしますね……。職員室と図書室の往復、お手間ですよね……。」
「むしろ嬉しいわ。図書室は利用してもらえてこそですもの。」
「放課後の利用ってやっぱり少ないんでしょうか。ほとんどの生徒は部活やってますし。」
「その通りね。私が来てからこれでだいたい2ヶ月だけど、数えるくらいしか利用は無かったわね。そもそもこんなに休み時間に来るのも貴女くらいよ。あと部活動としての利用も知られてないのか殆ど無いわ。」
「確かに休み時間に来ても殆ど人がいないけれど、みんなそんなに行かないんですね……。私は今回千利……うちのクラスの和泉に頼まれて図書室でコンクールの自由曲、コッペリアの資料を探してたんです。正直、私もあまりお話を知らなくてこの機会に千利と読み通して良い演奏にしたいなって。」
「まあ!それはいいことだわ! そうやって曲の理解を深めることも、曲から本との出会いがあることも、素敵なことだもの。うっふふ!! 私も一緒に資料探してあげるわ。和泉さんも清永さんも頑張って!」
「はわっ、ありがとうございます!」
図書室や本を利用してもらえて嬉しいのか、藤枝先生の顔は上気し楽しそうに微笑んでいる。こんな笑顔の藤枝先生は初めて! 普段の授業では全然見せてくれない一面に、私はきゅんとしてしまう。
終始楽しく話しながら再び図書室に戻ってきた。誰も入ってこなかったのか部屋の様子は出てきた時と全く同じだった。
「あれが清永さんの上着と、借りようとしていた資料ね?」
「やっぱりそのまま置いてたか……。はい。図書室に入って、あんまりに暑くて上着を脱いで手に持って、資料を探してもいいのが見つからなくてCDだけとりあえず見つけて。カウンターに行ったら先生がいなくて先生の上着だけあって。そこで私、貸出手続きしてない資料を持ち出すわけにもいかないと思ってカウンターに資料置いたらそのまま上着も忘れちゃったわけですね……。」
「うふふ。清永さんも私も、同じことをしてるわね。なんだかほっこりするわ。」
にこやかに話をしながら私は上着を回収して本題に戻る。
「清永さん、コッペリアについてどんな資料が欲しいの?」
「まずストーリーがわかるものが欲しいですね……。簡単に読めるもので。あとは楽譜上の曲名と場面を照らし合わせできるような解説本? たぶん千利と私でまとめてから部で共有することにはなります。くるみ割り人形や白鳥の湖は絵本や解説本がたくさん出てるのでコッペリアもあるのかなと思ってたら全然見つからなくて……。」
「そうね。くるみ割り人形や白鳥の湖は単独で資料がたくさん出ているけれど、コッペリアは単独ではなかなか無いのよね……。うーん……。」
藤枝先生は私を連れて、とある書架の前に立った。書架と書架の間の狭さは藤枝先生との距離を縮めさせるように感じる。私はドキドキするのを悟られないように必死で平静を保つ。
藤枝先生は何冊かの本をパラパラと確認し、1冊の本を渡してくれた。
『バレエ鑑賞入門』
「私も今、中を見たけれど、『バレエ鑑賞入門』はあらすじと曲名が載ってるから、楽譜に曲名が載ってるなら照らし合わせ出来るんじゃないかしら。個人的な所感だけれど、一番まとまってるのはこの本だと思う。貴女達の目的は演奏の認識合わせだから、本を読むのに時間を取られては本末転倒でしょう。さあさあ、手続きするわ。和泉さんと頑張ってね! はい、どうぞ。」
ああ、そろそろ終わりだ。戻らなくては。いやむしろ早く戻るべきだ。でももう少し先生と話していたい。後ろ髪を引かれながら私は返事をする。
「はい、ありがとうございます!」
貸出手続きがされた本とCDを受け取るとき、先生の指と私の指が一瞬触れ合った。先生の指は白くて細く、爪は短く切られて磨かれて自然な輝きをたたえている。
トクン、と私の心臓が大きく鳴った。どうして、どうして。そんな。
呆然とする私に藤枝先生は
「あら? 清永さん? 清永さん?」
名前を呼ばれて、さらに目をじっと見られて、私はハッとする。
「ああ! すみません! ちょっと考え事をしていまして!!」
「コンクールで気を詰めすぎるのはちょっと早すぎないかしら? 考え過ぎると身体も頭も心も固くなっていい演奏は出来ないと思うな。あっ、これは私の個人的な考えよ。」
「それ、千利にも言ってやってください。あの子、部長になってから明らかに余裕無くしてますよ。だから私はこうしてあの子の力になりたいんですけどね。」
「うふふ。応援してるわ。いい結果が聞けますように! 私は戸締まりをしてから職員室に戻るわね。行ってらっしゃい。」
「はい! では!」
私はこの上なく幸せな気分で図書室を後にし練習場へ向かう。どうやら最初に図書室に入ってからかれこれ2時間は経過していたようで、部活動の時間は残りほぼ30分を切っていた。まず千利に目的の資料を渡した。どうやら千利は優音先輩に多少文句を言われたらしい。
「うち(ユーフォニアム)のエースをパシるとは!」
「琴葉にしか出来ない任務だったんです!」
と会話が再現された。
……結局、私も藤枝先生の力を頼ったので誰でも良かったような気がしないでもない。いや、結果はともかく私は藤枝先生と一緒にいられて幸せだったから結果オーライ?
さて、藤枝先生が選んでくれたこの本で頑張るぞ!
翌日。
昼食後の休み時間と図書室の資料を使って千利と私は、部内で展開する資料を作っていた。
「なあ、琴葉?」
「なに?」
「琴葉、その本読んでるときすごい幸せそうだよなあ。口元がにやけてるぞ?」
「え? あ、そういえば藤枝先生が千利のこと褒めてたし、気を詰めすぎないようにって! この本も藤枝先生に出してもらった!」
「おっおっ? 話したのか私のこと?」
「まあ流れ的に。」
「そっかー。いや、まあ、なんと言うか。いろんな意味で琴葉に頼んで正解だったな。ユーフォの優音先輩には文句言われちゃったけど。さて、どんどん進めようぜ!」
藤枝先生も応援してくれてるもの、今年のコンクールは大きく目指せ、全国大会!
ある日のだるくて眠い授業中に千利は考える。
(琴葉…お前、まさか、自分が何を思っているか、気がついてないのか……?)
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