二十一之巻、天下分け目の勝ち戦(いくさ)!(後篇)

 来夜は一階の廊下を走っていた。階段を下りてすぐ左、一階の食事場にいた禿かむろから無理矢理借り受けた打ち掛けを、マルニンの半纏の上からかぶっている。


円明まるあきを連れて、ここはひとまずずらかろう。金兵衛はお萩さんもついてることだし何とか逃げ切れるだろう)


 窓から飛び降りた円明まるあきを探すため、中庭に下りてきたのだが――


 真っ二つに裂けた大木の後ろから、ひんやりと照らす月明かりを頼りに、池の周り、柳の陰を見渡す。


(どこに行ったんだろう。池に落ちたのかな)


 だが池から上がった形跡はない。


来夜らいや殿」


 人を食ったような馬鹿丁寧な呼びかけに、来夜ははっと身を固くする。石灯籠の陰から、笹の葉揺らして姿を見せたのは、予想通り原亮はらりょう警部。


「亮、捕り方たちの指揮にあたってたんじゃないのか?」


「大切なことをあなたに告げねばならず、こっそり抜け出してきたのです」


 いたずらっぽい口調に、来夜は馬鹿にされた気分になって口をつぐんだ。


 亮警部はなんの躊躇ちゅうちょもなく、隙だらけの足取りで近付いてくる。


「戸籍を破った者が誰か、分かったのですよ」


 来夜は大きく目を見開いた。


「それからあなたのお姉さんの居場所も――」


「どこだ、どこにいるんだ? ねえちゃんは無事なのか?」


「まず戸籍を破った者ですが、あなたのお姉さん――雪花せっかさん自身が、子供の時に破ったと分かりました」


「なんで、ねえちゃんが――」


「あなたのお父さんは大層な借金を抱え、手荒な借金取りに追われる身だった。ご両親が亡くなられた後、雪花せっかさんはあなたを連れて――」


「ちょっと待て。俺の父ちゃんと母ちゃんは死んでるのか?」


 亮警部は何も言わなかった。苦しげに目を閉じ眉を寄せて、息をついただけだった。


(戸籍には死んだなんて書いてなかったのに……)


 ねえちゃん捜しの次は両親捜しと意気込んでいた来夜は、泣き出しそうになる。だが亮の手前、ぐっとこらえて顔を上げる。


「あなたのお姉さんが、亡くなったとおっしゃっていたのです」


 ややあって亮警部はそれだけ言った。


「ねえちゃんに会ったの!? それでねえちゃんは、なんで台帳破ったんだって言ってた?」


「借金取りの手から自分と弟の身を守るため、と。幼さと、自分を消したいという精神疲労ゆえに、短絡的なことをしたものだと言っておりましたよ」


 亮の言葉は半ばから、来夜にはよく分からない。だが彼は、先を訊こうと焦って身を乗り出した。


「それでねえちゃんは今どこに?」


雪花せっかさんは――」


「そこまでだ。警部」


 後ろの廊下からかかる冷めた声。「それ以上、あなたに告げられたくはない」


 静かに座敷から出てきたのは――


「ふぁしる!」


 振り向いた来夜の首に縄が掛かる。


「くそっ、亮、はめたな!」


 締め付ける縄を両手で握って、来夜はあえいだ。


「油断されましたな」


 ぐいぐいと引きずられてゆく。目の前にある亮の表情は、いつもとなんら変わりはない。


(おそろしい奴だ)


 精一杯にらみつけたとき、亮の顔からさっと血の気が引いた。


「やめなさい、ふぁしる殿!」


 来夜の首に掛けた縄から片手を放して、帯の後ろに挟んだ十手を構える。


 来夜の横目に、肘から刃をはやしたふぁしるが映った。片肌脱ぎになった二の腕には、大きな古傷がすさまじい。左手に鞘代わりの腕を握って、片手に縄を握る亮めがけて斬りかかってゆく。


 十手と刀が今火花を散らすと見えた時、ふぁしるの手はふと横に振られた。


(斬られる!)


 来夜は固く目をつぶった。ふぁしるの狙いはやっぱり俺なのか、と覚悟を決めた来夜の前で、ざくっと音がした。


 痛みは、ない。恐る恐る目を開けると、首の縄がするりと抜けた。来夜はきょとんとして、ふぁしると切れた縄を見比べる。


「そういうことですか!」


 亮は叫んで第二の縄を繰り出した。それは狙いたがわず、ふぁしるの右手にからみつき、刀の動きを封じた。


(俺を助けてくれた者を、見捨てるわけには行かぬ!)


「たぁっ!」


 来夜の手に打たれて、縄はちぎれ飛んだ。身の自由を確保したふぁしるは、来夜の細い肩を抱いて、その場を飛びすさる。縁側に飛び移り、池の端にたたずむ亮をにらんで、じりじりと後退する。


 捕り方たちの声と足音が近付いてくる。


「警部殿! いらっしゃったぞぉ、庭だ庭!」


 先頭の男が、二階や妓楼の外に向かって叫んでいる。


 来夜とふぁしるに動揺が走った。


 亮が動いた。無駄ない動作で小刀を投げた。


 走り来る捕り方たちに気を取られていた来夜をふぁしるが押し倒すようにして、二人はその場に崩れる。


「ぎゃあっ」


 短い悲鳴は、二人の後ろから聞こえた。


 亮が走る。屏風の後ろからゆらりと立ち上がったのは、肩に小刀を刺した金巴宇こがねぱうだ。新たな縄でふん縛る亮を、わらわらと集まった手下たちが手伝う。


「この男は任せる、私は盗み屋たちを追う」


 駆け出した亮警部に、数人の手下が続く。


 亮が巴宇ぱうに向かったとき既に、来夜とふぁしるは、その場を後にしていた。

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