十八之巻、一大事! 因縁のあいつが逃げただと!?

 奉行所警察部屋――


 盗み屋マルニン頭目槻来夜つきらいやは、どういうわけかここにいた。


 逮捕されたわけではない。不敵にも開いていた裏の窓から忍び込んだのだ。忍び込んだ部屋はちょうど、原亮の個室だ。亮の身分は警部だが、小さな小さな個室を与えられている。部屋頭へやがしらに気に入られているゆえだろう。三畳程の部屋のすみ、障子窓の前に文卓がえられている。


 入り口にふすまはなく、今の季節はとばりの代わりにすだれが下がっている。風に揺れるたびに、役人たちの足がのぞくのだから、危険極まりない。来夜は天井にひっついていた。


 すだれの向こうから声が聞こえる。


「この前は遅刻してくるし、噂によると胡散臭い町衆たちと近頃だいぶねんごろだそうじゃないか」


 来夜は知らぬ事だが、声の主は亮くんの直属上司の警視さんだ。


 亮警部はと言えば気にかける色など少しもなく、だが一応首だけは下に向けている。そこへ折りよくやってきた部屋頭へやがしらが、助け舟を出してくれた。


「まあまあ原君の働きは皆の知るところ、いいではないか。原君だって人間なのだから、失敗もたまにはなくてはな」


そなえ部屋頭……」


 警視は慌てて振り返る。


「ありがとうございます」


 亮は深々と頭を下げると、声をかける女の子たちを適当に受け流して、来夜のいる部屋に戻ってきた。花ござを引き寄せ正座したところで、


「やあ亮、俺とねえちゃんの台帳破った犯人は、分かったのか?」


 いきなり天井から声が降ってきて、危うく手にした湯呑みを取り落とすところだった。見上げれば、そこには予想通りの声の主。


「これはこれは来夜殿、奉行所ぶぎょうしょの奥の奥まで不敵なことで」


 こんなところまで忍び込んできたのは、さすがの来夜でも今日が初めてだ。版元の芦屋あしやさんに紹介する代わりに、戸籍台帳について調べてもらうという交換条件があるからこんなことが出来る。もし来夜を捕縛してこの一件が来夜の口から明らかにされれば、芦屋あしやさんという証人もいることだし原亮の役人生命は絶たれるだろう。


 まあ、そんな難しいことを画策かくさくしているのは粛さんくらいで、来夜は単に「信用」があるのだろうが。


「近頃ちっとも、竹林のぼろ屋に帰らないじゃねえか」


 天井に張り付いた来夜は、さして声もひそめず悪ガキそのものの顔だ。脳天から下がる束ね髪がぶらぶら揺れるのを、亮はちょっとにらむようにして、


「それで我慢できずに乗り込んできたのか? 私は忙しいのですよ」


 亮は普段、奉行所ぶぎょうしょ敷地内にあてがわれた役宅に住んでいる。非常事態に即対応できるように、というわけだ。


「忙しい? 芦屋あしやさんに自分の描いた絵散々さんざん虚仮コケにされたからってやだなぁ、亮ってば」


「…………」


 亮が珍しく動揺している。


 来夜はひらりと畳に降り立つと、亮のすぐ横にあぐらをかいて、文卓に両肘をついた。半纏の背に染め抜いたマルニン印の上で、夏風をうけた髪がほのかに揺れる。


「台帳が破られた上に一家全員行方不明なんておかしいよ。何か事件の匂いがする!」


 事件好きの亮の心をくすぐってみる。


「台帳のことですが」


 と、亮は小筆を止めた。「調べた結果、六年前の調査はしっかりと行われていたようです」


「てことは、破られたのはそのあと?」


「そういうことですね。六年前というときみが三歳のときですか」


「そうだよ、ねえちゃんが俺を寿隆寺じゅりゅうじにあずけちゃった頃だ」


 甘えて泣きそうな声出す来夜。

 

 亮は小筆を脇に置き、わずかに眉をひそめた。「台帳を破ったのは、来夜の両親ではない」


 六年前にはすでに二人は遠い田舎に逃げている。本籍地のあるこの都で奉行所に忍び込むことなど出来ない。借金取りにおびえていたのだから戻ってくるはずはないし、台帳破りを計画していたのなら逃げる前に実行するはずだ。


 来夜が再び口を開きかけたとき、すだれの向こうから足音が近付いてきた。隠れろ、と亮が合図したのと、


「警部殿!」


 と男が叫んだのは同時だった。「一大事です!」


 すだれの向こうで、男は息を弾ませている。


「中へ」


 亮が至って静かな声を出したときには、来夜は天井の隅にひっついている。


「警部殿、拘置部屋から金巴宇こがねぱうが脱走しました。マルニン前頭目の金巴宇こがねぱうです。ただ今、若ぇもんが朝飯運んでったら、拘置部屋はもぬけのからだったちゅうんです。未明に脱走しちまったみてぇで、番人どもは皆気絶して、鍵ははずされてやした」


「成程。まだそう遠くへは行っていまい。追っ手は放ったか」


「へい、勿論で」


「関所は全て閉鎖したか」


「いえ、ただ今!」


 男は走り出ていった。


 天井を見上げて、亮はちいさな溜め息を落とす。意にも介さず、来夜は涼しい顔で飛び降りて、


「なっさけねぇ警察だなあ。逃がしちゃったのかよ」


「手引きした者があったと思うか?」


「勿論でい! ぎんなんを逃がしちまったろ?」


「ぎんなん?」


「ああ、俺たちのあいだじゃ、そう呼ばれてる。しろがねみなみってぇ男だ。今は金巴宇こがねぱうの味方になって、俺たちとは敵対している。奴は間抜けだけど、こそこそ盗みに入るのは得意だったはずだ。鍵なんか掛けても意味ねぇな、あいつが敵にまわったら。どんな鍵でもちゃちゃっとはずしちまう。それから俺のこの技は、ぎんなんに伝授してもらった」


 来夜はすくっと立ち上がると、人差し指をまっすぐ亮の額に向ける。「よぉっく見てな」


 音も立てずに指が伸びた。眉間をさす前に、亮ははし、と受け止める。彼の手は目にもとまらぬ速さで動いていた。


「やめなさい」


「うっわ~ いってーな離せよ、ばかぁぁっ!」


 伸びた指をぐりぐりと握られて、来夜は涙目になる。


「この技で見張りたちを気絶させた、か」


 来夜はうなずきもせず、ようやく離してもらった指を一生懸命さすっている。ややあって、子猫みたいに丸くなってた来夜は、ふいに跳ね起きた。「こうしちゃいられねえ! 仲間に伝えなきゃ!」


 窓枠に片足かけて、左右を注意深く点検する。よしと思ったか、


「それじゃあな!」


 と言い残して、あっという間に消えてしまった。

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