十六之巻、修理屋の記憶(後篇)

「あたし、修理屋さんに似てるの?」


 振り返った少女の目が、輝いている。


「家が似ている。いや別に、ぼろさではなく」


 さらりと言ったふぁしるは、目をすがめるおみさに気付かない。


「私の父もああいう人だった。そして私にも弟がいたんだ」


 その目は、遠い過去をみつめている。「私の家族は、あの馬鹿親父のせいでばらばらになっちまったんだ」


うらんでるの? おとうのこと……」


 おみさは不安げに、ふぁしるの背中を見上げた。


「恨めるわけないだろ…… ただ、まだ小さかった弟と、苦労ばかりだった母が不憫ふびんで――」


 下を向いたふぁしるの肩が震えているように見える。


「修理屋さんのおとうとおかあ、今どうしてるの? 弟さんは?」


「父母は死んだよ。川におぼれて。山の上から見ていたんだ。木々の間からはっきり見えた、異様に鮮明に覚えている。流されてゆくふたりの姿――」


 負ぶっていた小さな弟の重み、音を立てる足下あしもとの落ち葉、頬を打つ冷たい風――


 冬は刻々と迫っているのに、かまどの火も途絶えがち。生活はどんどん悪くなるばかり。


 ふぁしるが物心ついた頃、まだ父ちゃんは何か仕事をしていたはずだ。でも根が道楽者、酒に身を浸してはくるわ通い、博打なんぞに手を染めてゆく。ふぁしるが見ていたのは何も言わず、傘張りの内職に精を出す母ちゃんの背中だった。


 行き詰まり、おんぼろ長屋に居を移しても、父ちゃんの贅沢好みで時折ときおり高価なものが箱膳はこぜんに並んだ。せめて食いもんくらいうめぇものを、が父ちゃんの口癖だったから。


 だが今のふぁしるは知っている。あの頃既に、父ちゃんが金貸しのところに通いつめていたことを。


 やがて弟が生まれる頃になると、家にまで借金取りが押しかけてくるようになった。母ちゃんが刃物を向けられたこともあった。そう、その頃の父ちゃんに金を貸してくれるようなやからに、堅気もんなどあるわけなかったのだ。弟と二人で人質にとられたことまである。それ以来、まだろくに言葉も喋れない弟は、笑うことを忘れてしまった。もう取り返しのつかないところまで来て、父ちゃんは初めて心底後悔したのだ。


 初冬のある夜、母ちゃんはふぁしるに話した。


「父ちゃんのこさえた借金は、到底返せるものじゃない。もう夜逃げしかあるまいの。お前、弟を背負って先に逃げておくれ。いっぺんに家のもん全員が姿を消しては、あやぶまれるでの。川向こうに山が見えるじゃろ、あれを越えれば、もう都は終わりじゃ。関所を通らずとも、ほかの国に行けるんじゃ。つらい旅になるだろうけど辛抱しておくんな。おっつけ母ちゃんたちも行くでな。全く苦労ばかりかけちまってすまんのう、おまえは不憫な子じゃ。新しい土地でやり直そうぞな、そんときゃあ父ちゃんもきっと、心を入れ替えて働いてくれるでの」


 ふぁしるは一晩のうちに身支度みじたく整え、弟を背にくくりつけると、まだ日も明けやらぬうちに住み慣れたおんぼろ長屋を後にした。


 山道にさしかかった頃、前だけを見て一心に歩いてきた道を初めて振り返った。


 朝日が昇る。


 散らばる家々を下に控えて、壮麗にそびえ立つ都城の天守閣。その後ろからまあるい大きな朝日が、金色こんじきの光をまとって今し半身をあらわしたところ。


 こんなに、こんなに、都は美しかった。


 十年間、あたたかく包んでくれたこの土地が、ただひたすらいとおしくて、ふぁしるは涙を流した。


 なのになぜ今、私はここを去らねばならない……


 借金取りへの怨詛えんそは浮かばなかった。けがれなき金色の光に照らされて、人を恨むことなどできなかった。ただひたすら、哀しかったのだ。


 遊興に溺れる父ちゃんのことも、貸した金を取り返すため人の命まで奪おうとする借金取りのことも。


 ふぁしるは全ての思いを振り切って、再び山道をのぼりだした。


 自分の荒い息だけを聞きながら、ふぁしるはずっと昨夜の母ちゃんの言葉を思い出していた。そして、急に不安になったのだ。


 ――おっつけ母ちゃんたちも行くでな。


 本当に来てくれるの? まさか私たちだけ無事に逃がそうなんて、考えてないよね?


 昼前、ふぁしるは遅い朝食をとった。落ち葉を払って、切り株に腰掛ける。弱い日が黄色い葉の間から差し込む。母ちゃんのにぎってくれたおむすびを弟に分けているとき、二重に包んだたけのこの皮の間から、あの紙が出てきたのだ。


(こんなものこっそり差し入れておくなんて、母ちゃんたち、絶対私たちだけ逃がすつもりだ! そんなの、絶対やだ!)


 残りのおむすびを包みなおすと、すきっ腹も忘れてふぁしるは立ち上がった。


(戻らなきゃ!)


 落ち葉に埋もれた気の根っこに、こけつまろびつしながら道なき道を駆け下りる。一度走り出すとなかなか止まれない。膝が震えだして、ようやく荒い息をついたとき、ふぁしるはふと人の声を聞いた。


 太い幹に身を隠す。声は水音と共に、下から聞こえる。


 見下ろせば、急斜面の下にも今走ったような獣道、その下に谷川が流れている。その脇を走っているのは――


(母ちゃん、父ちゃん!)


 借金取りと、彼らの連れてきた人相の悪い数人の男。追われる二人。


(なんでもっと早く逃げなかったの? なんで今更、こんな山の中に逃げてきたの?)


 斜面に立つ木は葉もまばら、急流まで距離にすればほんの少し。下りることは出来ないけれど、重なる枝の向こうがよく見える。


とうとう屈強な男たちに羽交い締めにされた二人を前に、ふぁしるは何も出来ない。


 だがその時、父ちゃんがぱっと身をひるがえして、母ちゃんのもとに走った。自ら片手をはずし、男の手から逃れたのだ。同時に母ちゃんも両手をはずして走り出した。数人の男たちがわっと集まる。それをくぐり抜けて、父ちゃんは母ちゃんを脇に抱いて、水から顔を出した飛び石を走り渡る。


 そして、急流に飛び込んだ。


 ふたりの姿は、みなもに吸い込まれてゆく。


呆然と流れを眺める男たちは、身投げしやがった、とつぶやく。手をはずして、この急な川を泳げるものではない。


「ああ……」


 膝から力が抜け、ふぁしるは木にすがった。


(もっと早く戻っていれば)


 一緒に死にたかった。


 今や残っているものは、母ちゃんの作ってくれた弁当と、あの紙片だけ。


 やがて岩にでもぶつかってしまったのか、手が一本、足が数本浮かんでくる。ふぁしるはひっと呻いて木の下に走りこんだ。胴や頭があがってくるところなど、決して見たくはない。


 秋も終わり、めっきり葉も少なくなった大きな樹――


 ざらついた太い幹に、弟を負ぶった背中をあずけ、ふぁしるはずるずるとその場に座り込んだ。積もった落ち葉のやわらかさが、やさしいぬくもりを思い出させ胸をめ付けた。抱えた膝に額を押しつると、目の奥がじわっと熱くなった。


 怖い、痛い、苦しい、悔しい、許せない……たくさんの思いがごちゃ混ぜになって、どうしたらいいの? とふぁしるは胸の内で何度も繰り返した。


 姉の思いを悟ってか、背中で弟が細い泣き声をあげ始めた。


 どれくらいそこに座り込んでいただろう。いつしか涙も枯れ、小さな弟は背中で静かな寝息をたてていた。


 再び、彼女は山を上り始める。背負った弟の小さな小さな足を、元気付けるようにぽんぽんとたたいてから。

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