十六之巻、修理屋の記憶(前篇)
時同じくして、都から少し離れた田舎道。
朝には、かごにたくさんの野菜を積んで都へ向かったろう、だがその売り上げも、ほとんど酒に消えてしまったとみえる。
同じ道を、向こうから歩いてくる女がある。彼女は男をみとめて叫んだ。
「あんた!」
顔を上げた男はびくうっと体を震わせる。慌てて逃げ出そうとしたものか、足をもつれさせ、横を流れる川底へ真っ逆様。
「あんた!」
彼女は再び叫んだ。だがさっきとは明らかに違う、悲痛な声で。
女は流されてゆく男を追って、川に飛び込んだ。
ぽっかりと丸い月が出ている。日もすっかり落ちた夜五つ頃――夏だから八時半過ぎだ。
ふぁしるは表へ出ると、夜風に
だが傾いた木戸と長いこと
急な依頼だった。そろそろ都にも
人の多いところが苦手なふぁしるは、月の下に出てようやく一息つく。手近な石の上に腰を下ろし、道具箱から
振り返ると十ばかりの男の子が、素足を夜露にぬらして立っている。
「修理屋さん、字きれいだね」
不揃いな髪を後ろでひとつにゆわいた少年は、人なつっこい笑みを浮かべて、ふぁしるの隣に膝を抱えて座り込んだ。
「おとうとおかあを助けてくれてありがとう」
ふぁしるは小筆を矢立にしまう。
「きっとこれで、おとうも少しは
「だといいな」
ふぁしるはふと遠い目をした。
「修理屋さん」
少年がきっとおもてを上げた。満月に照らされて、幼い顔立ちにくっきりと影が浮かぶ。
「修理費いくらですか」
ふぁしるは哀しげな
「それはきみのご両親に直接話すよ」
「僕に教えて下さい。病みあがりの二人に気苦労かけさせたくないんです」
まんまるの瞳に厳しい色、何を思い出してか、ふぁしるは苦しげに息を吐いた。
「高いんでしょう? そのくらい覚悟しています。修理屋さんの噂は聞いているから。でもすぐに助けてもらわなかったら、おとうもおかあも助からなかったもん。すごく感謝してるから、ちゃんとお代は――」
「いいよ」
聞いていられなくて、ふぁしるは思わず
「いいって――」
少年の顔が、期待に少しだけ明るくなった。
「家の様子はよく分かっているから」
「本当?」
少年は目を輝かせる。それがあさましさ
「ありがとう、修理屋さん!」
両手を握って礼を述べられ困惑するふぁしるの笑みは、黒い布に覆われ少年には見えなかっただろう。
「これ、彦」
喜ぶ少年に、後ろから硬い声をかけた者がある。
家から出てきたのは十二、三になる女の子、少年と同じようにつぎだらけの着物から、素足をのぞかせている。
「ねえちゃん……」
つぶやいた声は不安そう。少女は確か「おみさ」とか呼ばれていたはずだ。目をきつくして、
「おまえはもう中へお入り。勝手に大事なこと決めんじゃないよ」
「修理屋さんいい人だよ、おらたちのこと良く分かってくれ――」
「馬鹿だね、おまえは」
少女は吐き捨てるように言った。「同情されてるだけなんだよ、恥ずかしくないのかい?」
それは違う―― ふぁしるが抗議の声を上げる前に、少女は弟の首根っこをつかんで家のほうへ引きずっていた。
「おかあがおまえの顔を見たいって。とっとと行きな」
弟を無理矢理家に帰し、
「治療代はあたしが出世払する、それでいいでしょ」
「いや、実はな」
ふぁしるは、親父さんに分割払いしてほしいと話した。治療代として、毎月定額を納めるようにすれば、酒をひかえて仕事に精を出してくれるだろうと考えたのだ。
だがおみさは頑固に首を振った。
「あたしに払わせて。何でもするから。修理屋さんの弟子になってでも払うから」
弟子なんかほしくないって。などと思っていたら、
「それじゃあそういうことでね。旅立ちは明日? 今日はうちに泊まってゆくよね。
「ちょっと待て。いつそんなことに決まったんだ」
少女の態度のでかさに半ばあきれつつ、感心しつつ、ふぁしるは疲れた声を出す。
「だめなの……?」
「うん」
あっさり頷くと、少女はしばし沈黙した。ゆっくりとふぁしるの方へ歩を進めながら、何か考えているふう。
ふぁしるの横をすり抜けて、少女は足を止めた。ややあって口を開く。
「なんで助けてくれたの」
ふぁしるはしばらく、何も言わなかった。話そうか話すまいか迷った末、よくやく口をひらいた。「おみさを見ていると、昔の私を思い出すから」
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