十六之巻、修理屋の記憶(前篇)

 時同じくして、都から少し離れた田舎道。からのかごを背にかつぎ、片手にとっくりをぶるさげた男が、ふらふらと川沿いの道を田圃たんぼの方へと歩いてゆく。すでにかなり酩酊しているよう、その足下あしもとはふらふらとおぼつかない。


 朝には、かごにたくさんの野菜を積んで都へ向かったろう、だがその売り上げも、ほとんど酒に消えてしまったとみえる。


 同じ道を、向こうから歩いてくる女がある。彼女は男をみとめて叫んだ。


「あんた!」


 顔を上げた男はびくうっと体を震わせる。慌てて逃げ出そうとしたものか、足をもつれさせ、横を流れる川底へ真っ逆様。


「あんた!」


 彼女は再び叫んだ。だがさっきとは明らかに違う、悲痛な声で。


 女は流されてゆく男を追って、川に飛び込んだ。




 ぽっかりと丸い月が出ている。日もすっかり落ちた夜五つ頃――夏だから八時半過ぎだ。


 ふぁしるは表へ出ると、夜風にひたいの汗をぬぐった。雲間から月明かりが、夏田をあえかに照らし出す。後ろの土間には近所の人がつめかけ、息を吹き返した夫婦を見舞っている。安堵と喜びの声が表まで聞こえる。


 だが傾いた木戸と長いこときかえていない屋根に、住人の貧しさがうかがえた。


 急な依頼だった。そろそろ都にもいて郊外へ足を伸ばしたところ、ちょうど川から引き上げられた農民夫婦に出会ってしまった。修理屋と気付いた村人たちが、口々に「どうか助けて下せえ」「こいつらにはまだ幼い姉弟きょうだいがいて」などと言うものだから、つい情にほだされて村へ来てしまった。


 人の多いところが苦手なふぁしるは、月の下に出てようやく一息つく。手近な石の上に腰を下ろし、道具箱から矢立やたて(携帯用筆記具)と巻紙を探し出す。紙を手のひらに乗せ、今日の仕事についてまとめていると、ふと後ろで草を踏む音がした。


 振り返ると十ばかりの男の子が、素足を夜露にぬらして立っている。


「修理屋さん、字きれいだね」


 不揃いな髪を後ろでひとつにゆわいた少年は、人なつっこい笑みを浮かべて、ふぁしるの隣に膝を抱えて座り込んだ。


「おとうとおかあを助けてくれてありがとう」


 ふぁしるは小筆を矢立にしまう。


「きっとこれで、おとうも少しはりて、真面目になってくれると思うよ」


「だといいな」


 ふぁしるはふと遠い目をした。


「修理屋さん」


 少年がきっとおもてを上げた。満月に照らされて、幼い顔立ちにくっきりと影が浮かぶ。


「修理費いくらですか」


 ふぁしるは哀しげなを向けたが、月を背負うその表情は少年には影になって分からない。


「それはきみのご両親に直接話すよ」


「僕に教えて下さい。病みあがりの二人に気苦労かけさせたくないんです」


 まんまるの瞳に厳しい色、何を思い出してか、ふぁしるは苦しげに息を吐いた。


「高いんでしょう? そのくらい覚悟しています。修理屋さんの噂は聞いているから。でもすぐに助けてもらわなかったら、おとうもおかあも助からなかったもん。すごく感謝してるから、ちゃんとお代は――」


「いいよ」


 聞いていられなくて、ふぁしるは思わずさえぎる。その瞳は目の前の少年を飛び越えて、遠い過去の誰かをみつめていた。


「いいって――」


 少年の顔が、期待に少しだけ明るくなった。


「家の様子はよく分かっているから」


「本当?」


 少年は目を輝かせる。それがあさましさゆえでないことを、ふぁしるは良く知っている。だが内心深く溜め息をついてしまった。定価の何倍も搾取するつもりはなかったが、タダにしてやる義理もない。いつも強面こわもての男たちをおくせず相手にしているのに、小さな男の子にこれほど弱いとは、と自嘲じちょうする。


「ありがとう、修理屋さん!」


 両手を握って礼を述べられ困惑するふぁしるの笑みは、黒い布に覆われ少年には見えなかっただろう。


「これ、彦」


 喜ぶ少年に、後ろから硬い声をかけた者がある。


 家から出てきたのは十二、三になる女の子、少年と同じようにつぎだらけの着物から、素足をのぞかせている。


「ねえちゃん……」


 つぶやいた声は不安そう。少女は確か「おみさ」とか呼ばれていたはずだ。目をきつくして、


「おまえはもう中へお入り。勝手に大事なこと決めんじゃないよ」


「修理屋さんいい人だよ、おらたちのこと良く分かってくれ――」


「馬鹿だね、おまえは」


 少女は吐き捨てるように言った。「同情されてるだけなんだよ、恥ずかしくないのかい?」


 それは違う―― ふぁしるが抗議の声を上げる前に、少女は弟の首根っこをつかんで家のほうへ引きずっていた。


「おかあがおまえの顔を見たいって。とっとと行きな」


 弟を無理矢理家に帰し、


「治療代はあたしが出世払する、それでいいでしょ」


「いや、実はな」


 ふぁしるは、親父さんに分割払いしてほしいと話した。治療代として、毎月定額を納めるようにすれば、酒をひかえて仕事に精を出してくれるだろうと考えたのだ。


 だがおみさは頑固に首を振った。


「あたしに払わせて。何でもするから。修理屋さんの弟子になってでも払うから」


 弟子なんかほしくないって。などと思っていたら、


「それじゃあそういうことでね。旅立ちは明日? 今日はうちに泊まってゆくよね。呉々くれぐれも弟子を忘れて先に行くことのないよう」


「ちょっと待て。いつそんなことに決まったんだ」


 少女の態度のでかさに半ばあきれつつ、感心しつつ、ふぁしるは疲れた声を出す。


「だめなの……?」


「うん」


 あっさり頷くと、少女はしばし沈黙した。ゆっくりとふぁしるの方へ歩を進めながら、何か考えているふう。


 ふぁしるの横をすり抜けて、少女は足を止めた。ややあって口を開く。


「なんで助けてくれたの」


 ふぁしるはしばらく、何も言わなかった。話そうか話すまいか迷った末、よくやく口をひらいた。「おみさを見ていると、昔の私を思い出すから」

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