十三之巻、わけは知らねど交渉成立でぃっ!

 長椅子にうつぶせになっていた原亮はらりょうは、近付く騒ぎ声にうっすらと瞼を開けた。ほのかなふぁしるの残り香に包まれて、うつらうつらしていたようだ。


 表の声は次第に大きくなる。


「いいか、円明まるあき。ここが亮のいおりだよ。あの人は時々ここに来て、を描いたり詩を吟じたりして、風流人の振りをするんだ」


「にしてもぼろい家だなあ」


「あれ? 円明まるあきはこーゆーの、おもむき深いって感じる手じゃないの?」


「家の方はいいんだが、見てくんなせえお頭、あそこに架けてある丸太、腐って割れて、川に半分落ちてるじゃあねえですか。あれじゃあ、趣もなんもあったもんじゃねえ。こんな奴の書くなんざ、タカが知れてまさぁね」


 表の話し声に、亮はぎらりと目を怒らせ上体を起こした。


 大股で部屋を横切り、がらりと戸を開ける。門の向こうに、美しげな少女と白髪の老翁の姿、声から察するに変装して現れたつき来夜らいやとその手下だろう。


「これはこれは来夜殿、天下一の盗み屋と名高いあなたが、このような傾きかけた草盧そうろにいかなるご用で――」


 門を入ってきた来夜は、原亮のひきつった笑みにも気付かず、


「あれ~、亮、警察の仕事はぁ?」


 原亮が「来夜殿」と呼ぶときは、お尋ね者としてではなく、一人の人間として敬意を払ってくれている証拠、いきなり手錠をかけられる心配はない。だから来夜も「原警部」とは言わず気軽に亮、と呼ぶ。相手から「殿」付けしてもらっていて呼び捨てもないもんだが、幼い頃から甘やかされまくってきた来夜は、なんの不思議も感じない。


「どうしたの、亮」


 来夜は、門の一歩手前で固まっている亮に首をかしげる。


(警察の仕事! 絶対間に合わない……)


 竹林を照らす高い太陽に、絶望的なまなざしを向ける。


(警察部屋で働き初めて数年間、欠席も遅刻も一度もなかったのに……)


 だが彼は、すぐさま街へかけ戻りはしなかった。来夜たちに、そんな無様な後ろ姿は見せられないのは勿論だが、彼の心には不思議な決意が生まれていた。


 「下の人間、上の人間」――


 独断と偏見に満ちたふぁしるの感覚。


 「あなたたちに、私のような底辺の感覚は分からない」自分と違う種の人間には近付こうともしない。だが果たして自分は彼女を弾劾だんがい出来るほど、広い視野と経験を持っているだろうか。盗み屋連中とも私的につながりを持つことで、ほかの奉行所の連中とは違う「警部」を演じてきたつもりだが――


 今日の仕事はさぼろう、と原亮は決意した。


 これでふぁしるに認めてもらえるわけではない。一日仕事を休んだだけで、何が変わるものでもない。ただ、昨日までとは違うという感覚が欲しかった。


「それで何の用です、来夜殿」


「うん、あのね、今日は円明まるあきにここを案内しただけだったんだけど…… まさか今日、亮がここにいるとは思わなかったから」


「私はここにいますよ。で、どんな御用です、円明まるあきさん」


「あちーなおい」


 亮はちょっとむっとした。でも紳士らしく笑みをたたえたままで、


「暑いですね、立ち話も何ですし中へどうぞ」


「わりーなおい。廃屋はいおくやぁ、日除ひよけくれぇにゃなるもんかな。字余りだな、おい」


 失礼極まりない歌など口ずさみながら、案内しようとした亮の横をすり抜け、一人でずんずん飛び石を踏んでゆく。しわくちゃの左手を落としたのも気付かず、風流な石の上にそのまんま。亮くん、かなり嫌そうだ。


 なぜこんな奴が役人を目指していたのかは、盗み屋マルニンの七不思議とされている。何年たっても役人になれなかったという事実だけは、非常に納得なのだが。


「あの者は来夜殿の手下ですか」


 並んで歩く亮警部が、来夜の耳元にかがんで尋ねる。溜め息半分うなずいて、来夜は円明の落としていった左手を拾う。「あいつは陶円明すえまるあきってんだ。あの、人を気にかけないのは、芸術家魂って奴だよ」


「芸術家……? まさか狂歌とかじゃないでしょうね?」


「ん? まさしくそれ」


「うわぁあぁぁっ、嫌だぁぁ! あんなののどこが芸術家なんだぁ!」


「ま、絵師目指してる警部さんとかいるし」


 頭抱えてた亮には、来夜の呟きは聞こえなかったようだ。




 交渉は成立した。


 芦屋あしや正三郎しょうさぶろうの食客となった者には、お抱え絵師として、都で名を博している者もいる。そんな活きのいい新興しんこう版元はんもとに紹介するという円明まるあきに、亮は色好いろよい返事をくれた。破られた台帳については、土地戸籍部屋の者に話を付けてみようと言うのだ。思いがけない交渉成立に陶円明すえまるあきは心底驚いたし、来夜はまた何か裏があるのではないかと疑った。


 ふたりとも、自分たちがこのいおりを訪ねる前、亮に何が起きたのかなど知るよしもなかったからだ。

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