八之巻、梅乃屋二階宴小町部屋、柱に見えたり、夜来化石(中篇)

 騒ぎから離れたところで床に降り立ち、とりあえず奥へ向かう。右手には屏風で仕切られただけの下級遊女の部屋が並んでいる。萩の叫び声を聞いて野次馬しに行ったか、空のものが多い。


 左側には小さな庭に面して障子窓が開いている。やわらかな風に誘われ見下ろせば、夕空を映す小さな池と石灯籠に落ちる笹の葉の影がなんとも涼しげだ。それにしても暑い、と呟きそうになって、


(駄目駄目。暑さに負けず、涼しげに着こなさなくちゃあ)


 禿かむろの変装は暑い。額を拭ったりしたらお化粧が落ちてしまう。だけど、ちび役人の変装と違って楽しいから、ここはぐっと我慢だ。


 向こうのふすまがからりと開いて、かんざしをいっぱい挿した美しい花魁おいらんが、新造、禿かむろを連れてゆったりと出てくる。これから茶屋へ行くものらしい。


(もしや宴小町うたげこまち!?)


 と来夜は伸び上がる。なんせ同い年の子供の中でも背が低いほうだから、顎を上向きに歩いてゆく花魁おいらんの顔は、よく見えない。


「おや、その子はどこの子だえ?」


 だが新造の一人に、見慣れぬ顔と気付かれてしまった。


「えっ、あの、向こうでお萩さんが倒れてるの、なんか……」


「やぁ、あの人だかり、何がありんした」


 幸い花魁おいらんが、階段のほうへ気をとられ、新造は、逃げる来夜を振り返りながらも、花魁おいらんの相手をする。


 からの一室に滑り込み、壁に背をもたげて一息つく。


(あの花魁おいらん宴小町うたげこまちだったかな、俺のねえちゃんだったかな。でも俺を見ても何も気付いたふうなかったな)


 下を向いて帯の結び目を気にしながら、


(俺の変装、見抜けなかったかな……)


 でも、姉の雪花には見抜かれたいな、と来夜は切なく思った。


槻来夜つきらいや、何をぶつぶつ言っておる、私に気付かぬか?」


 笑いを含んだ声にどきっとして仰向けば、はじめからここにいたものか、すらりとした黒ずくめ姿が正面の襖に寄りかかっている。


「またおまえか! 修理屋ふぁしる!」


「嫌そうだな」


 今日も、目から下を黒い布で覆い、声にも感情がない。だが黒い瞳が、どこか淋しそうに見えた。そう思ってしまうと、来夜は戦いを仕掛けることなどできない。語調までやわらかく、「昨日、巴宇ぱうの奴から俺を助けてくれて屋根から落ちたよな? もう大丈夫?」


「平気だ」


 その声には、いつもの張りがないように聞こえる。


 来夜は知らないことだが、ふぁしるはまだ全快したとは言えなかった。渋る亮を無理矢理説得して、修理屋の道具箱だけは取りにゆかせてもらったのだ。その証拠に、どうも足下あしもとがふらついていけない。


「なんでこんなとこにいるの? 傾城けいせい買い?」


「ガキのくせに洒落た言葉を知っているな」


「だって金兵衛にいつも習ってるもん」


 ろくでもない大人に囲まれて育ったもんだ。金兵衛を知らないふぁしるはちょっと首を傾げて、


「私はここに忘れた風呂敷包みを取りに来たところだ」


「この部屋に?」


 と見回す。ふぁしるの寄りかかる襖には、梅の木と石庭が描かれている。その横には屏風、その前にぼんぼり、と、そこで来夜は息を呑んだ。屏風の陰になってすぐには気付かなかったが、正面の大きな柱に、「夜来化石」の字を見つけたのだ。


(ここが――)


 と思う。宴小町の部屋なのだ。ということは、さっきの花魁は別の人だったことになる。


 姉雪花が、両親の思い出として残してくれた、「夜来」の文字。続きがあったようだが、果たしてそれは「化石」の字だったのか。


「ああ、私が都に来たのは、実は吉藁よしわらの遊郭の主人に呼ばれて、なんだ」


「それがここ梅乃屋の主人?」


 ふぁしるは静かに頷いた。


 病に冒され修理屋を呼んでもらえるのは、大事にされている証拠だ。それも天下一の修理屋となれば、見世みせ一番の花魁おいらんなのだろう。


「じゃあ、宴小町うたげこまち、病気なのか」


 来夜は不安になる。


 ふぁしるは一瞬、来夜の瞳をじっとのぞきこんで、人さし指を唇に押し当てた。「花魁おいらんが病だったというのは秘密なんだ。まさか来夜がそんなに勘が良いと思わず、馬鹿なことを言った」


 花魁おいらんよびし・昼三ちゅうさん附廻つけまわしと三階級に分かれるが、来夜は勿論、宴小町が最上級の呼出しだなんて知らない。だが姉の形像イメージから呼出しと思い込んでいたのだ。


「誰にも言わずにおいてくれるな?」


 その言葉が、言外に「来夜なら言うわけない」という調子が含まれていて、悪い気はしなかった。


「言わないよ。それで花魁おいらんは……」


「もう大丈夫。新品と取り替えたから」


 来夜はほっと胸を撫で下ろす。


「なぜ? 来夜はその年で花魁おいらん狙ってるのか?」


「違うよ、あんたには関係ない。それよりあんた、俺に戦い挑んだんじゃあないのか?」


「今日はそんな気分じゃない」


「なんだぁ?」


 堀の水を飲んだなどとは言えない、ふぁしるは話を変えてしまった。


「それで、来夜は何用なにようでここへ?」


「教えられないな」


 またあっさりつっぱねる。


「私は来夜の前だと、つい色んなことを話してしまうというのに」


 またさっきの淋しそうな目。


(でーっ、めぇったな、おい)


 来夜は内心舌打ちする。


「ふぁしる、梅乃屋に詳しいの?」


 ふぁしるは、いや、と低くつぶやいただけ。嘘でもうなずけば話が続くのに、なんとも不器用なものだ。


(大人じゃないみたい)


 九歳の来夜までそんなことを思ってしまう。


ちょっとためらってから、来夜は豪華な振袖で向こうの柱を指差す。


「あの文字、なに?」


「やらいかせき。漢字まだ読めないの?」


「違うっ!」


 思わず声を大きくする。来夜は自分を子供と思っていないし、人からも大人扱いしてほしい。そのために盗みだけでなく読み書きそろばんも、そこらの町人の子供とは比べ物にならないくらい出来るつもりだ。


「何も知らないならいいよ」


 気分を損ねたものらしい。金兵衛の馴染みの振袖新造・お萩ちゃんにでも聞けば、梅乃屋で流れてる噂くらい分かるだろう。


 ふぁしるには構わず「仕事」でもしようかと廊下に出かけたとき、


「あれが書かれたのは二十年近く前のことだ」


 ふぁしるが、じっと柱を見つめていたのに気が付いた。


「与太郎とかいう男が書いたんだ。大商人の馬鹿息子だよ。ここは当時、『花小町はなこまち』という花魁おいらんの部屋でね、与太郎は彼女に馴染んでた。あれを書いた後、与太郎は花小町をけ出して結婚した。別宅に囲ったんじゃない、ちゃんと正妻として迎えたんだ」


 抑揚のない声は、はたと途切れた。


 来夜はまじまじと、その横顔を見上げた。


「なんでそんなこと知ってるんだよ」


「修理屋筋の情報さ」


 軽く流して向き直った。


「盗み屋来夜くんは、これからやっぱり悪いことするの?」


「な、なんだよそれは……」


 黒い瞳に真っ直ぐみつめられて、思わず来夜はたじろいでしまう。


「いや、それなら私はもう帰ろう、というだけだ。今日はまだ仕事の予約も入っていないし、夕方を待って舟遊びでもしにゆこうかな」


 本当は亮のいおりに帰らねばならない。口うるさい男だ、と胸の内で呟きながら、悪い気はしない。本当に心配してくれているのだ。今夜彼のいおりに戻ることを、「ただで泊まれるから」と言い訳しながら、ふぁしるは来夜の横をすり抜ける。中庭を見下ろせる廊下を渡り、階段へ向かう。


「修理屋さん、お世話になりんした」


「また何かのときは頼みんしえ」


 女たちに見送られ、階段を下りるその背中を無言で見送って、来夜はもう一度、柱の文字を見上げた。


(与太郎って人と俺のねえちゃんと、なんか関係あるの? それともただの偶然?)


 ふところから例の紙を引っ張り出す。広げて柱の字と見比べて、


(同じだな……)


 古びて黄いばんだ紙に尋ねたくなる。ねえちゃんはどこにいるの、と。


 額にじんわりと汗をかいて、来夜は後ろの障子を開け放った。格子の向こうには、廊下からも見える中庭だ。ふと、風が座敷に舞い込んだ。


 庭の中央に、雷に打たれたような枯れ大木が残されていた。

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