八之巻、梅乃屋二階宴小町部屋、柱に見えたり、夜来化石(前篇)

 旦那(来夜らいや)との待ち合わせは七つ半(午後五時過ぎ)、梅乃屋の手水場ちょうずば(便所)にて。


 こっそり円明まるあきのへそくりを借り出して、金兵衛きんべえは旦那に会う前に、昼見世で暇を持てあましていた馴染なじみの振袖新造ふりそでしんぞうはぎと遊んでいた。花魁おいらんに付き従い世話を焼く新造の中で、禿かむろあがりの若い者を振袖新造と言う。花魁おいらんを揚げるには、べらぼうな金がかかり、到底金兵衛のような庶民にはかなわないが、新造くらいならば円明まるあきからの借金でなんとか工面できるというものだ。しかしもう何回も無断で借金しているというのに、一向に気が付かない円明も円明である。


 仕事の前に一遊びした金兵衛は、階段の上がり口で、まだ若い遊女を振り返り、


「お萩ちゃん、きょうは見送りはいらねえから」


「どうなんしたえ、金さん」


 金兵衛の袖をとらえ、「わっち、何か気に障ることでもしたかえ? それならそうと言っておくんなんし」


 不安そうに口をとがらすところを見ると、邪険にも出来なくなる。


「いや、そんなんじゃあねえから」


 幾度めかの要領を得ない返事に、時を伝える鐘のが重なった。


「やべっ、じゃあな、また来るから!」


 階段を駆け下りようとして、金兵衛は小さな子供にぶつかった。


「おいおい邪魔……」


「遅い!!」


 両腰に手を当て頬をふくらませている少女――、いや、


「旦那……?」


 きらびやかな衣装を身にまとった禿かむろは、金兵衛には見慣れた旦那には到底見えない。


「何やってんだよ! 臭いところで待たせやがって! 金兵衛は俺より、そのおはぎとかゆー笑っちゃう名前の女のほーが大切なんかよ!」


「あれ、なんて口の悪い……っておまえ、うちの子じゃおっせんな、何者だえ? 誰かぁぁ」


 人を呼んだ途端、来夜の指が伸び眉間を突いた。ぐらりと後ろに倒れる女を金兵衛が慌てて支える。


「ふん、俺に気付いちまったのは、運が悪かったな」


 鼻を鳴らす来夜に、


「旦那……、お萩ちゃんは――」


「気を失ってるだけだ。そこいらの部屋にでも寝かせて花魁おいらんの部屋に案内しろ。まったく、遊ぶために来たんじゃないんだぜ? 裏から忍び込んで俺と落ち合う約束だったろう、少しでも目立たぬために、別々に店に入るって方式をとったのに――」


「旦那、人が――」


「しまった」


 来夜は跳躍して金兵衛の首根っこをつかむと、天井にへばりついた。


「旦那、今日の手足は天井へばりつき用ですかい?」


「黙っておれ」


「ぐ……苦じいんでずが……」


 後ろえりを捕まれている金兵衛はたまらない。


「どうなんしたえ」


「倒れてるのはお萩ちゃんだよ」


「気を失っているのかえ」


「誰かおかつどんを呼んで来ておくんなんし!」


 お勝とは遣り手のことだろう。


 金兵衛は、右往左往する遊女たちの髷にぶつからないよう、足をばたばたさせている。


「ごめん、金兵衛、手がもたない……」


 来夜のうめき声に嫌な予感がした。


「ちょ―― 旦那ぁぁっ!」


 どんと派手な音を立てて金兵衛が遊女たちの真ん中に墜落したときには、来夜は鼠のように天井をつたい、その場から逃れていた。

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