六之巻、ひそやかなるつぼみ、ほころびて
修理屋ふぁしるが意識を取り戻したのは、日も暮れる頃だった。
身を起こせば、見慣れぬ場所にいる。丸窓の竹格子の向こうには
「ここは―― どこだ?」
簡素だが清潔な長椅子、枕元の卓にはかごが乗り、みかんが積まれている。かごで押さえた短冊には「お食べなさい」と、上品な墨文字。
「なんと素晴らしい
ふぁしるは思わず和紙を手に取る。それから着ているものに目をやって、あ、と顔をしかめた。
(誰かに着替えさせられている)
それはいつもの黒い服ではなく、藍色の男物の着物だった。
次第に頭がはっきりしてくる。
「逃げなきゃ……」
立ち上がると、地面がぐらりと揺れ、同時に腕の古傷が痛み、肩を抱いたまま壁にもたれた。おぼつかない足取りで戸へ向かう。
(いけない。
包んだ木箱には、修理屋の仕事道具が入っている。
木戸は簡単に開いた。ほっとして、夕暮れの中に足を踏み出す。
傾いて半開きになった木の門まで、飛び石が続いている。石のひとつひとつは色や模様が微妙に異なり、形も面白い。
(私を看病してくれたのは、どんな風流人だろう)
しげった笹や、秋に向け伸び始めたすすきは、自然のままに見せて実は手入れされているのだろう。
門から出たとき、細い川の向こうに人影が見えた。真っ直ぐ吊り橋へ近付いてくる。
(みつかる……!)
腰をかがめて、茂みの陰を移動する。吊り橋から少し離れたところに、朽ちかけた丸太がかけてあった。
男は吊り橋に足をかけた。
ふぁしるは丸太のすぐ横ではいつくばるように身を低くする。だが――
「ふぁしる殿――」
(みつかった!)
もう身を隠しても意味がない。立ち上がり、丸太に向かって走り出す。
「いけません! そっちの橋は――」
丸太にかけた片足が、ぐらりと下に沈む。
まためまい――ではなかった。
「うわっ……あぁぁっ!」
「危ないっ!」
男が走る。
だが伸ばした彼の手は、ふぁしるの髪をかずめただけだった。
「着替えますか?」
頭からつま先までまたびしょぬれになって、長椅子に腰掛けたふぁしるに、男は暗緑色の着物を差し出す。
「ああ、すまぬ」
ふぁしるはそれを受け取ると、男に背を向け帯を解いた。
男は慌ててその場を離れ、ついたてを引いてくる。
「なぜお逃げになったのか、などとは聞きますまい。ですがご婦人、私のことは――」
「私を女扱いするな。原警部」
ぶっきらぼうに遮られて、原亮は複雑な面持ちになる。「私のことは御存知でしたか」
「ここらへんはあなたの管轄内だと聞いたからな。私もこういう商売をしているから、世話になってはたまらぬと、事前に顔くらいは調べておいた。だがこういう形で世話になるとはな。――ついたては邪魔だ。どけてくれ」
亮はどこか不本意そうに、ついたてをかたす。
「食べませんか」
と、みかんのかごを差し出すと、
「いらぬ。これ以上世話にはなりたくない」
「そんなふうにおっしゃらずに。水を大量に飲まれて、朝からずっと眠っておられたのですよ。何も食べていないし、今日はここに泊まっていかれると良い。私が邪魔ならば、私は町へ戻りますから」
「嫌味なほど親切だな、原警部」
やさしくされて腹を立てる者も珍しい。原亮はちょっと眉をひそめた。
「私の服を返してくれ。これは――」
と、暗緑色の着物の袖を広げ、「洗って返そう」
立ち上がり、部屋から出ようとする。
「お待ちなさい、ふぁしる殿」
亮は慌ててあとを追う。「女性は体を大切にせねば」
「私を女扱いするなと言っておろうが……」
叫ぼうとした語尾が消えかける。両の足から力は抜け、かくんと膝を折ったふぁしるは亮の腕の中にいた。
「あっ」
その手をはねのけようとするが、体に力が入らない。
「二、三日泊まってゆきなさい、ふぁしる殿」
やさしい瞳のまま強く言われて、ふぁしるは顔をそむけた。「情けない」
「情けないなどと……」
困ったように眉根を寄せた亮のおもてに、やさしさが浮かぶ。仕事以外はおだやかな男だが、こんな顔は誰にも見せたことはない。
「私に…… 触れるな――」
苦しげにふぁしるは言葉を吐き出す。
腕に寄りかかる彼女の体は、意外なほど軽い。自分から顔をそむけ、眉を逆八の字にして、鼻の上に気むずかしそうなしわを作っている様子は、意地っ張りな子供のようで、その細い肩を抱き寄せたい衝動に襲われる。
「失礼」
亮は呟いて、ふぁしるを軽々と抱き上げると、長椅子まで運んでいった。
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